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白州次郎は芦屋生まれとあり、山手の方だと思っていたが、
浜芦屋町だったそうだ。浜芦屋町のどのあたりだったのか興味あります。
625さん詳しいですね。情報ありがとうがざいます。
一番大きな洋館は、ボロボロですが、芦屋らしくて大好きです。
昔、テレビの「犬神家の一族」のロケに使われていました。
平田町も昔からのお屋敷が随分減りましたが、あの洋館は、いつまでも残ってほしいです。
↑
すみません625さんでなく626さんでした。
芦屋の古くからの人(平田町が分譲された頃から住んでいる家系)は、
上(六麓荘や奥池や岩園町などの山側)は成金、下品とは思っても格が上だとかは感じてないよ。
格というのはお金が生むものではないからね。
変な宗教で儲けた人や、詐欺で逮捕された人やら、いっぱい新興成金も住んでて
殆どの住民が、居住50年未満の品の無い成り上がりの家だもんね。
最近逮捕された東芦屋町のフェラーリ狂い社長も、サラ金上がりの下品な人種だったね。
六麓荘の戦後の空中写真1947年
http://archive.gsi.go.jp/airphoto/ViewPhotoServlet?workname=USA&co...
そして1948年
http://archive.gsi.go.jp/airphoto/GetPictureServlet?workname=USA&c...
(国土変遷アーカイブ空中写真閲覧システムhttp://archive.gsi.go.jp/airphoto/search.htmlより)
まだ殆ど住宅が建っていないことがわかる(数えられる程度)。
デタラメなインチキ野郎>>623の嘘はあっけなくばれるという事。
もともと六麓荘は途中で頓挫して、現在の体裁になったのは戦後ずっとたってから。
当初は分譲しても殆ど売れず、資金繰りに困って現在の例の学校に売却して資金を工面。
その後、どうにか土地所有者が決まっても家なんて殆どたたず、家がそこそこのペースで
建ちだしたのは1950年頃から。
http://archive.gsi.go.jp/airphoto/GetPictureServlet?workname=USA&c...
戦後既に3年も経過している時点でも、日出橋のバス通りより北側の住宅数は、
現在の1割にも満たないことが、サルでもわかる。
>戦前にはすでに50%に達していたがその後入居者規制によりほとんど家は増えず。
嘘吐きは泥棒のはじまりw
実際は正反対で、戦前は殆ど家は建っておらず、家が増えたのは戦後かなり経過してから。
>宅地化が遅れた地域(昭和20年時で50%未満)・・・・朝日ヶ丘町岩園町大東町
>宅地規制によりこれ以上の開発が見込めない地域・・・剣谷町奥山町奥池町奥池南町
紛らわしい表現で誤魔化すのはいけませんな。
朝日ヶ丘や岩園町は昭和20年をとっくにすぎている時点でも
http://archive.gsi.go.jp/airphoto/GetPictureServlet?workname=USA&c...
大部分が田畑や山林で家なんてポツリポツリで殆ど建っていないわけだがw
戦後の時点で50%未満なんて大嘘で、正しくは「岩園や朝日ヶ丘は戦後に入ってから開発された新興の住宅団地」だ。
>>632
またずいぶんと解り難い写真を出してきたね~
この解像度とコントラストでは今の六麓荘でも50%未満にされちまいそうだね。
因みに当初の六麓荘区画は300~600坪程度で木を出来るだけ伐採しないさせない、
旧い軽井沢みたいな別荘地として開発されたのでこの写真で判別するのは厳しい。
また例の学校より北側の多くが売残ったのも事実だが学校を除いた総合では、
過半数の宅地に家が建っていた。
朝日ヶ丘、岩園、六麓荘:50年以上住んでいる家(住んでから1~3代目)は現在居住世帯の5%以下
奥池、奥池南:50年以上住んでいる家はゼロ
それ以外の山手の街区:50年以上住んでいる家(住んでから1~3代目)は現在居住世帯の20~25%前後
山手以外の街区:50年以上住んでいる家(住んでから1~3代目)は現在居住世帯の30~40%前後
これは米軍が家屋の状態を確認する為に撮影した写真なので、家屋が判別できないなどという馬鹿げたことはありません(笑) 家や屋根が見えないなんてありえない。もともと六麓荘のテニスガーデンから日出橋の通りより北側(新地)の区画は、9割以上が戦後以降に、はじめて家が建築されている土地です。テニスガーデンから日出橋の通りより南側が、戦前に既に開発されており昭和20年代に現在の街区の体裁が既にできあがって家が建っていた本来の六麓荘。
芦屋の世帯数は戦前で約7500世帯、人口は約39000人。
そして昭和30年代半ばで15000世帯、人口は約60000人。
まだ殆どマンション、集合住宅が建っておらず、埋立地や奥池も当然無く、土地の分筆も未だ少ない時代。
ようするに芦屋は、戦後に入ってから過半数以上の宅地が開発されたという事だ。
その大部分が山手だったのは言うまでもない。
山手の高級住宅地というと、阪急芦屋川から芦屋の天神さんのあたりのイメージがある。
岩園や朝日ケ丘は、ずいぶん新しいのでは・・・。
朝日ケ丘の市民プールの当たり、昭和40年代でも寂しかったような気がする。
まして奥池なんて、ピクニックや遠足によく行ったところで、住宅なんて皆無だった
ような。保養所はあったのだろうか?
香枦園浜が出たとたん猛攻撃、やっぱり芦屋叩きはwww
>>636 無責任なありえないレスが続くが・・・
芦屋の土地は山手も浜手もかなり細分化されたのにその論理だとこの50年間で浜手が全く人口が増えず、
増えた人口の全て山手だったとしても④の76,8%にはなりえません。
芦屋市の年代別人口と⑥を除く地区の現在人口比
①、昭和 5年(80年前)28404人 38,2%
②、昭和15年(70年前)39138人 52,7%
③、昭和25年(60年前)42951人 57,8%
④、昭和35年(50年前)57050人 76,8%
⑤、平成22年 93631人
⑥、50年前には存在しなかった住宅地の現在合計人口19339人
山手・・・奥山409奥池566奥池南782
埋立地・・新浜町1558浜風1362高浜4341若葉3275緑1804潮見1197陽光2428海洋491南浜1067涼風59
⑦、50年以上前から存在する住宅地の現在人口(一部しか開発されてない地域も含む)⑤-⑥=74292人
>>634
その写真じゃ人口密集地と田畑の違いしか解らない、広大な敷地で樹木も多ければ山との判別は難しい。
>>641
貴方が主張する3地区の平均をありえないが現人口の一割とすればさらに642よりも厳しい結果になる。
70年前なら、②39138÷[(⑦74292-六麓荘617+朝日ヶ丘7213+岩園3155)×0,9]=0,61
50年前なら、④57050÷[(⑦74292-六麓荘617+朝日ヶ丘7213+岩園3155)×0,9]=o,89
すなわち70年前50年前からの人口伸び率が39%と11%だ、他都市よりも街並の崩れが少ない芦屋でもこの数値はありえないし、その他の山手も貴方と主調だと浜手人口を80年前よりも減らさなければ不可能。
現実にそんな事はありえないのは一目瞭然、もういい加減な事を書くな!
市制になった1940年の芦屋の世帯数は7890、2010年現在の世帯数は40116
戦後に糞イナカモンがなだれこんで今の芦屋がある
人口だけではなく、世帯も見なければ本質は見えてこない。
戦前の世帯数は8000弱、これが戦後僅か15年で17000に倍増(以上)している。
もちろんこれはもともと住んでいた人々が僅か15年の間に大量に死んで土地を分割したなんて事ではなく(まだ土地は馬鹿みたいに安く相続で切り売りなどの問題は無かった時代、土地の値段が上がりだしたのは1972年頃から)、主に阪急の線路以北に存在していた田畑や山林の開発による宅地の倍増というのはいうまでもない。
人口については重要なのは、昭和40年頃までとは違い昭和40年代以降の芦屋市の人口の急増は土地の細分化によって増えたのではなく、集合住宅の増加によってもたらされたということだ。昭和40年頃までは、開発によって宅地が増えて人口が増加していたが、昭和40~50年代(既にインフラが敷設されているエリアでは大規模に開発できる土地がが無くなり発展が頭打ちとなり、それゆえに奥池や埋立地が開発された)以降の人口増加は、主に集合住宅の増加によるものだという事。
そして最重要なのは、50年前に芦屋に住んでいた世帯で1970年代からバブル・現代にかけて世帯主が死んだ案件(つまり50年前に住んでいた世帯で70年代までに引っ越さなかった世帯の殆ど)では、大半の家が相続発生時に売りに出されて、土地の持ち主が入れ替わっているという事。つまり戦前に芦屋市に8000世帯弱(ほぼ当時の宅地数とイコール)が住んでいたといっても、今の40000世帯強のうち2割弱が、戦前からの芦屋の住民の家系という事では断じてない。言うまでも無く戦前から住んでいる世帯は、その半数どころかそれを遥かに下回る。
>>645 人口だけ見てもわからんってのがなんでわからんのだ? 幼○園児か?
戦前の芦屋は、1世帯あたり人口が約5人(昭和10年で5.1人)いて、現在は55%減少して半分以下の
1世帯あたり2.3人だぞ。
日本で集合住宅や団地やマンションが本格的に建ちだした昭和40年代以前の世帯数の増加は、開発が行われて
土地・家屋が増えたことを明確に物語るものだが、人口の増減は世帯あたり人口に大きく影響されるので
開発の度合いは分からない。
大規模な開発により土地・家屋(世帯数)が3倍に増えても、一世帯あたりの人数が55%減少していれば、
人口は35%しか増加しないんだよ。
訂正 平成20年389,534
重要なのは、分筆によって宅地の増加が目立ちだしたのは1970年代末以降の話であり、
戦後20年の間の世帯数の激増(2.42倍増、7000世帯→17000世帯、142%増加)は、
ほぼ新規の宅地開発によって増えたものだという事。
戦後既に現在の70%以上が宅地化されていたなどというのは、狂言、嘘、デタラメ。
>その写真じゃ人口密集地と田畑の違いしか解らない、広大な敷地で樹木も多ければ山との判別は難しい。
いいえ、
http://archive.gsi.go.jp/airphoto/GetPictureServlet?workname=USA&c...
この写真なら、明確に宅地・家屋はわかります。
これ(戦後の画像)みたら、まともな常識人なら、岩園、朝日ヶ丘(現在の市街化区域部分)以北の
全体面積の9割以上は未だ宅地化されておらず、家の数は今の1割以下である事がわかるはずだがw
あまりにも必死な苦しい言い訳はやめて、そろそろ観念したら? この写真買えるから(モニタ上より
大幅に解像度が高いから家の数と宅地化されている土地は一目瞭然でわかる)、確認すればいい。
>>652
浜手の住宅は切れていて見えないし木が多い豪邸の境目の判別は厳しいが、
やっぱり奥池界隈+埋立地を除けば現在の住宅地に対して7割だね。
現在の住宅地に対してとは、学校、病院、墓地等の公共施設を除いた宅地。
グーグル地図と見比べればより解りやすいと思う。
1961年(昭和36年)
http://archive.gsi.go.jp/airphoto/GetPictureServlet?workname=MKK611&am...
13年前の戦後3年後と比較すると、岩園町の田畑、山林で猛烈に宅地開発が進み家が増加していることがわかる。
六麓荘のテニスガーデン~日出橋の通り以北でも、戦後と比較して住宅が著しく増加し宅地開発が進行形であることが一目瞭然でわかる。
1971年(昭和46年)
http://archive.gsi.go.jp/airphoto/GetPictureServlet?workname=MKK712X&a...
更に田畑、山林の宅地化が山間部の全域で加速し、ほぼ開発されつくし現在と同じ宅地の体裁になっている事がわかる。戦後に大幅に増加した世帯数は、山間部の開発による影響が著しく大きい事が見て取れる。
>>654
だから当初の米軍機撮影と比較して見ろよ、六麓荘のはげてるのか家の屋根かどちらか解らなかったのが、解像度やコントラストがより明細になったので解りやすくなり家だったと判別出来てるし、岩園と朝日ヶ丘は当初より開発が遅れた地区としてあげてる。
また樹木に覆われた森みたいな広い屋敷も細分化されれば宅地として解りやすくなる、この意味解る?
要するに宅地としてすでに利用されていても敷地に対して家が小さければ解像度の悪い写真では森か家かの判別がし難く樹木の多い家は特に山手地区に多かった。ただしこの様な巨大邸も戦後の没落でかなりの家が細分化されている。
戦後の僅か15年の間に世帯数が増加しているのに(宅地の分筆や集合住宅が未だほとんど無い時代)、
今の宅地の70&以上が戦前既に宅地化されて家が建っていたんですか?www
僅か15年の間に、全世帯の数割が死んだり切り売りして土地を数分割したのでしょうか?www
まだいくらでも開発できる田畑、山林があったのにwww
http://archive.gsi.go.jp/airphoto/GetPictureServlet?workname=USA&c...
これ(1948年)のどこをどう見たら、六麓荘が戦前の団塊で現在の50%以上が既に宅地化(=家屋が今の半数)
されていたのでしょうか? どう見ても家は今の1割以下ですが。
また、どこをどう見たら市の阪急以北の大部分が戦前で既に宅地化されていたのですか?
訂正
戦後の僅か15年の間に世帯数が倍以上に増加しているのに
戦後3年経過時点で学校の通り以北は数軒以下(しかもその殆どは戦後建ったもの)。
現在のバス通り以北、学校の通り以南は15~20軒(しかもその半数以上は戦後に入ってから建ったもの)。
そもそも現在のバス通り以北は、ごく一部を除くと戦後に入ってから開発・分譲された「新地」。
戦後直後の時点で、現在の六麓荘の全体街区の実に9割以上が未だ宅地化されていない山林だったんだよ。
岩園や朝日ヶ丘も、現在の総面積の9割以上が、宅地造成されていない山林、田畑だった。
>>656
またその写真を、それ解像度が悪くコントラストが付き過ぎていて解りにくすぎw
それじゃその中で特定出来る戦前の家だけどテニススクールの平野邸と例のミュージシャン邸の南 、
当時はその一角を全て所有していた大倉芦屋邸(本宅は住吉のオーキッドコート)
どちらも戦前から確実にあった大豪邸だけどその写真なら山とそのハゲにしか見えない、
何度も書くが軒数比較じゃなく宅地として利用された土地の有効面積率だからね。
>どこをどう見たら市の阪急以北の大部分が戦前で既に宅地化されていたのですか?
そんなの何処にも書いてないぞ、
↓
>着工~町並の7割以上が完成した時期
>大正9~昭和初期
>三条町三条南町西芦屋町西山町山手町山芦屋町東芦屋町東山町月若町
>特殊地区・・・六麓荘
>戦前にはすでに50%に達していたがその後入居者規制によりほとんど家は増えず。
>しかしバブル期に規制が機能しなくなり細分化が進み現在に至る。
>宅地化が遅れた地域(昭和20年時で50%未満)・・・・朝日ヶ丘町岩園町大東町
>宅地規制によりこれ以上の開発が見込めない地域・・・剣谷町奥山町奥池町奥池南町
↑は一気に書き上げたので多少不都合な点が有るのは認める。
例えば東山町は(昭和20年時で50%未満)に入れるべきなのと、山手町は川沿いの急傾斜地のマンション群地帯を頭に入れてなかったので7割は厳しく6割程度だろう。
それと六麓荘は、居者規制によりほとんど家は増えず、と書くよりも、居者規制により少しずつしか増えず、と書くべきだった。
>>658
そんな子供騙しみたいな数字トリックを使うと貴方の書き込み自体の信用性がなくなるぞw
昭和20年なんて終戦直後で少なくなって当たり前、比較するなら昭和15年39,137 昭和35年57,050
20年間でも31%の伸び、
>宅地の分筆や集合住宅が未だほとんど無い時代
そんな事無いってw終戦で没落した豪邸は片っ端から分筆細分化されるか社宅化されるかだった。
芦屋ではそれ以外にも震災で急激な細分化、マンションかが進んだ。
奥池エリアを除く山手(阪急以北)の世帯数 8806世帯(平成17年)※現在は更に多い
戦前の山手の世帯数 約900~1000世帯(昭和15年)
まぁざっと9倍には増えてますな。
戦前から住んでいた世帯は、必ず70年代以降から昭和末期・平成初期にかけて相続が
発生しているけど、当時の区画は巨大ゆえに少なく見積もっても三分の二以上は
売却されて分割されてるから、おそらく戦前から住んでいてる住人(当時から数えて2~3代目)
は300以下でしょう。
まぁ売ってまた近所に住んでいるという幾らかのケースを含めても、現在世帯数の5%以下でしょうね。
開発されていたかどうかってのは、今の街並みと変わらない体裁の街があったかどうかでしょう。
例えば、山林や広大な農地を持っている地主や豪農や一族の家がある**が戦後に売却されて
大規模宅地開発されたケースにおいて、戦前から宅地化(地主などの家があったから確かに
宅地は存在したw)されていたとは、常識的には言わない。
かつて数万坪(数十ヘクタール)の土地を個人が所有していて、それが現在数百区画の住宅街に
なっている場合、この住宅街の開発時期は?となると、言うまでも無く数百区画の住宅街が
つくられた時期の事でしょう。
西岡本7丁目の住宅街が開発されたのは誰がどう見ても昭和40年代後半(戦前からの住民など
1人もいない)だが、以前に山にヘルマン屋敷があったからといって、大正からの住宅街だ!
なんて屁理屈は通用するわけがない。
大正~昭和初期の日本の裕福な家庭は子供が多く(5人以上が当たり前)、さらに住み込みが何人かいたので大きい家では10人以上住んでいるのが普通だった。
だから、人口だけ追っても、本質は見えてこないんだな。今は大きい家が多いエリアは当時とは逆で、一世帯あたりの人数は平均(2.57人)より更に少ない。
>>660>>661>>662
実状を知らない妬み君が持論を吐いてますねw>>660の数値の元となった資料のソースよろしく。
まず660の数値を信用したとして現状を書きます。
私の家は芦屋に住み付いて3代目で年齢は40歳前後、芦屋では他地域よりも小学校の同窓会が活発です。
なぜかと申せば地元在住者がとにかく多い、父親の代で死亡者も含めれば約5割、私で約3割が芦屋在住。
私の代では転勤族が3割は居たので残りの半数はそのまま芦屋に居座ってる計算です。
当然男性の方が多いのですが女性も結婚後芦屋に引越し戻ってきた人も多く居ます。
>売ってまた近所に住んでいるという幾らかのケース
相続での売却も色んなスタイルがあるが、多くは住み慣れた地元を離れない。
最も多いのが近くのマンション等に住む、次で多いのは土地の切り売りで相続を済ませ現地に残る。
相続後も数人の相続人が分割所有し住む、相続が発生する前に生前贈与をし敷地を分割所有する、
>例えば、山林や広大な農地を持っている地主や豪農や一族の家がある**が戦後に売却されて
>大規模宅地開発されたケースにおいて、戦前から宅地化(地主などの家があったから確かに
>宅地は存在したw)されていたとは、常識的には言わない。
なにを一人で勘違いしてるんだ、そんなの当たり前だろw
>かつて数万坪(数十ヘクタール)の土地を個人が所有していて、それが現在数百区画の住宅街に
>なっている場合、この住宅街の開発時期は?となると、言うまでも無く数百区画の住宅街が
>つくられた時期の事でしょう。
これも上記に同じw
>>662
それを基準にし、初代の子供が6人2代目の子供が4人3代目の子供が2人と仮定すれば、
初代の子供が3人芦屋残り2代目の子供が3x2人が芦屋残りその子供が2名として、
初代がすでに他界していたとしても芦屋在住の一族は9家族36人となる。
嘘を書き連ねても苦しいだけwww
戦前の芦屋はピーク(戦中で減少していた時期ではない)で7000~8000世帯、現在は4万強世帯。
どう見ても戦後から高度成長期にかける爆発的な流入によって世帯が増えたのは明白。
山手、浜手、平地を一切ぬきにしても(現実は阪急以北より浜手のほうが戦前からの家が
多いのは明らかだが)、世帯の増加分は戦前からの家の後継ぎ以外(後継ぎの分は
世帯数は増加しない)の子供世帯の後継ぎ以外が(長男以外の息子だけではなく娘も)、
芦屋に住みついた分などという馬鹿げた妄想が通用するわけがない。
15~20年程度で世帯が倍増するのは、住宅開発による流入以外にはありえない。
単純に、戦後から現在に至る世帯の激増は、戦後の宅の開発と、高度成長期の集合住宅、
マンション、団地、社宅の増加による流入がもらしたもの。
平成17年で(現在は更に3500世帯以上増加、因みに5年でこの増加は流入主体以外ありえない)
東山町、山手町、朝日ヶ丘、岩園、六麓荘の合計世帯数が5700世帯
そして
阪急以北の合計 9000世帯(うち奥池南奥池奥山が650世帯)
阪急以南の合計 27500世帯(うち埋立地が6200世帯)
戦前は市全体で7900世帯(航空写真を見れば一目瞭然だが、当時の住宅総数の約9割は阪急より南側)。
埋立地や奥池を除外しても、阪急より南で3倍増加、山手で8~9倍以上に世帯数は増加しているが、
山手の世帯数激増に関してはその多くが、戦後の宅地開発と団地・マンションの増加によって行われた事が明白である。
>>667インチキばっかり書かないで下記をもう一度読み直せ、
下記は芦屋市のHPから抜粋した人口だから確かです。
No.642 by 匿名さん 2010-01-19 12:46
>>636 無責任なありえないレスが続くが・・・
芦屋の土地は山手も浜手もかなり細分化されたのにその論理だとこの50年間で浜手が全く人口が増えず、
増えた人口の全て山手だったとしても④の76,8%にはなりえません。
芦屋市の年代別人口と⑥を除く地区の現在人口比
①、昭和 5年(80年前)28404人 38,2%
②、昭和15年(70年前)39138人 52,7%
③、昭和25年(60年前)42951人 57,8%
④、昭和35年(50年前)57050人 76,8%
⑤、平成22年 93631人
⑥、50年前には存在しなかった住宅地の現在合計人口19339人
山手・・・奥山409奥池566奥池南782
埋立地・・新浜町1558浜風1362高浜4341若葉3275緑1804潮見1197陽光2428海洋491南浜1067涼風59
⑦、50年以上前から存在する住宅地の現在人口(一部しか開発されてない地域も含む)⑤-⑥=74292人
要するに70年前には存在しなかった埋立地と奥池界隈を除く現在の宅地人口は
70年前にはすでに現在の52,7% に達していた訳で、
ここで持論をぶちまけてる荒らしさんの情報は全くのでたらめ。
世帯数が激増加したのは、戦前から住んでいた家(昭和5~15年の芦屋市の世帯あたり構成人員が
4.9~5人なので、祖父母と同居が多かった事も考慮すると、平均すれば当時の子供の数は2人台で
一部の裕福な家は確かに子が多かったが、その多くが他の地域と比較して優位に地元に残ったなど
という馬鹿げた話はない)の娘や息子が、殆ど芦屋に住んだからだという都合の良いインチキ妄想ですね。
わかりますw