韓国がベトナム戦争に参戦した際、韓国軍兵士や軍属の韓国民間人が「レイプ」「非管理売春」「現地妻」を持ったことなどにより、多くの混血児が生まれた。その人数は、釜山日報の記事(2004.9.18)によれば、5千~3万人と推定されている。
私の村は地獄になった
http://210.160.208.40/search/20000412/wa_sug1.html
WORLD AFFAIRS 証言
Apocalypse Then 私の村は地獄になった
韓国軍がベトナムで行った残虐行為の
被害者たちが真実を語りはじめた
ロン・モロー(バンコク支局長)
今から33年前の1967年4月1日。グエン・バン・トイはびくびくしながら、ベトナム中部フーイェン省の水田で働いていた。
当時、この地域では韓国軍が大規模な作戦を進めていた。韓国兵は農民を力ずくで追い立て、南ベトナム政権の支配下にあった沿岸部に無理やり移住させていた。
だが、多くの村人は移住を嫌がった。トイのビンスアン村を含む5カ村からなるアンリン郡の農民も、先祖代々の土地を捨てるのは気が進まなかった。
トイが農作業を続けていると、いきなり機関銃の銃声と手榴弾の爆発音が響いた。音がしたのはビンスアン村の方角。トイはあわてて身を隠し、あたりが暗くなるまで動かなかった。
村に戻ったトイが目にしたのは、身の毛もよだつ光景だった。家は黒焦げになり、少なくとも15人の村人が血の海に倒れていた。多くの遺体は銃剣で腹を切り裂かれていたと、トイ(71)は言う。
そのなかには、トイの妻と3人の子供の遺体もあった。生後4日の末の子は母親に抱かれたまま、背中を撃ち抜かれていた。4歳の娘ディエムは銃弾を5発受けていたが、奇跡的に命をとりとめた。
トイは遺体を近くの防空壕に運び、入り口を泥で覆った。ここが、そのまま墓になった。トイも他の村人も、「あまりに悲しすぎて」犠牲者を改葬する気にはなれなかったからだ。
理由なき無差別の殺戮
韓国軍がベトナムに派兵されていたのは1965~73年。こうした残虐行為のねらいは、ベトナム中部の3省(ビンディン、クアンガイ、フーイェン)から農民を移住させて人口を減らし、ベトコン(共産ゲリラ)の勢力伸張を阻止することにあったようだ。
現地の自治体当局者によると、立ち退きを拒否した人々は、韓国軍の手で組織的に惨殺されたという。しかも犠牲者の多くは、老人や女性、子供だった。
歴史の闇に葬り去られていた虐殺の事実に再び光が当てられたのは、勇気ある韓国人研究者、具秀ジョン(ク・スジョン)が行った調査のおかげだ。彼女は韓国軍による大量虐殺の詳細を記録したベトナム政府の文書を発見した。
生存者の証言によると、虐殺は理由なき無差別殺人であり、多くはベトコンとの戦闘が行われていない時期の出来事だった。
グエン・フン・トアイ(46)もビンスアン村の虐殺と同じころ、アンリン郡の別の村で危うく殺されかけた。
当時13歳だったトアイは、韓国軍が家に近づいて来るのを見てすぐに逃げた。近くの畑に隠れて見ていると、韓国兵は村の家に次々と火をつけ、母親と祖父母、弟と妹、そして近所の人々に暴行を加えたという。
韓国軍は、トアイの家族を含む11人ほどの村人に銃剣を突きつけ、防空壕に追い込んだ。残りの12人ほどは、穴の外に立たされた。次の瞬間、何の前ぶれもなく銃声がとどろき、手榴弾の爆発音が空気を引き裂いた。トアイはとっさに頭を隠した。
硝煙が消えたとき、すでに韓国軍の姿はなかった。トアイは急いで家族がいた場所へ行った。
防空壕の前には、穴だらけになった血まみれの死体が並んでいた。防空壕の中も、誰かが生きている気配はまったくなかった。トアイは恐怖に駆られて逃げ出した。戦争が終わった後も、ここへ戻ることはできなかったという。
見つかったのは肉片だけ
「みんな、村を離れたくなかった。私たちにとって、家や土地や水田はかけがえのないものだ」。トアイはそう言って泣きだした。「でも、立ち去るのを渋った人間はみんな殺された。連中は村をめちゃくちゃに破壊してしまった」
こうした残虐行為の結果、多くの人々がベトコンの陣営に加わった。67年、16歳のときに父親を韓国軍に殺されたブイ・タイン・チャムもその1人だ。
チャムは数人の韓国軍がアンリン郡の家に押し入る直前、裏口から脱出した。韓国兵は70歳の年老いた父親を捕らえ、防空壕に押し込むと、すぐに手榴弾を投げ入れた。チャムは日が暮れてから村にこっそり戻り、崩れた避難壕を掘り返したが、「肉片しか見つからなかった」という。
それから数週間、物ごいをしながらさまよったチャムは、山岳部にこもっていた共産ゲリラに加わる決意を固めた。「父を殺した奴らに復讐したかった。韓国兵が村でやったことを見た以上、そうせずにはいられなかった」
グエン・ゴク・チャウは83歳になった今も、憎しみを忘れていない。67年5月22日、フーイェン省ホアドン郡のミトゥアン村で農業をしていたチャウは、たまたま親戚のいる近くの村に出かけていた。
そこへ前夜、韓国軍が村を攻撃したという知らせが届いた。大急ぎで帰ったチャウが目にしたのは、村人が井戸からバラバラになった遺体を引き揚げている光景だった。犠牲者のなかには、妊娠中の妻と4人の子供も含まれていた。
「首を切り落としてやる」
虐殺を隠れて見ていた老人の話では、韓国兵は女性や子供を井戸に落とし、助けを求める声を無視して手榴弾を投げ込んだという。チャウは、盛り土をしただけの簡単な墓に家族の遺体を葬った。
「殺されたのは女や子供ばかりだ。共産主義者なんかであるわけがない」と、チャウは言う。「韓国人は人間じゃない。目の前に現れたら、首を切り落としてやる」
ベトナムで虐殺行為を犯したのは、韓国軍だけではない。アンリン郡から海岸沿いに北へ向かえば、68年に米軍部隊が500人以上の村人を虐殺したクアンガイ省ソンミ村がある。
それでも戦争体験をもつフーイェン省の村人の間では、米兵の評判は必ずしも悪くない。地方公務員のファム・トゥ・サン(47)は66年のテト(旧正月)のとき、米兵と一緒に遊んだりチューインガムやキャンディーをもらったことを今も覚えている。
だが米軍はこの年、フーイェンから引き揚げ、代わって韓国軍がやって来た。それから「67年のテトを迎えるまで、韓国軍は殺戮を続けていた」と、サンは語る。「韓国兵に会ったら、死に出会ったも同然だった」と、今は地元の退役軍人会の会長を務めているチャムも言う。
アンリン郡の村人によれば、韓国軍はとりわけ女性にとって恐怖の的だった。韓国兵は残忍なやり方で女性をレイプしてから、殺すケースが多かったからだ。
こうした残虐行為が明るみに出てきたことに、ベトナム政府は神経をとがらせている。
虐殺があったこと自体は、政府首脳も承知している。だがベトナム当局は、虐殺事件の報告書が国内で発表されることは望んでいない。友好関係にある韓国政府はもちろん、ベトナムに莫大な投資を行っている大宇や現代、三星といった韓国財閥の不興を買うことを心配しているからだ。
補償より謝罪の言葉を
さらに政府当局には、観光客としてベトナムを再訪する韓国の元兵士が増えている状況に水を差したくないという思いもある。だが、韓国軍の残虐行為を目の当たりにした地元の当局者は、観光や経済発展のために真実を隠すべきではないと考えている。
地元が望んでいるのは、韓国政府の公的な釈明だ。たとえば韓国側から謝罪や罪を認める発言があれば、両国の絆はむしろ強まると、地元の人々は考えている。
「韓国軍は、この地域にかつてない災厄をもたらした。犠牲者は銃を持てない老人や女性、子供たちだ」と、フーイェン省のある当局者は言う。「私たちが望んでいるのは、物質的な補償ではない。それよりも共感と友好の姿勢を示してほしい。犠牲者が過去を忘れられるように」
韓国軍のために流された罪なきベトナム人の血の量を考えれば、なんとささやかな要求だろう。
ニューズウィーク日本版
2000年4月12日号 P.24
WORLD AFFAIRS◇証言
韓国軍がベトナムでした事「AGAIN1966」
ナムフュン郡で、韓国軍は4人の老人と3人の妊婦を防空壕の中へ押し込め、ナパームとガスで殺した。
アンヤン省の三つの村では110人を、またポカン村では32人以上をこうしたやり方で殺したのである。
1966年2月26日、韓国軍部隊は137人の婦人、それに40人の老人と76人の子供も一緒に防空壕の中へ押し込めて、化学薬で殺したり、全員を盲にさせたりした。
1966年3月26日から28日にかけて、ビンディン省で、韓国軍は、数千におよぶ農家と古寺院を炎上させ、若い女性や年老いた女性を集団強姦した。
8月までに、"勇猛な"ゾセン人たちは、ビンディン省における焦土作戦を完了した。
ブガツ省では、3万5千人の人たちが、"死の谷"に狩り立てられ、拷問を完膚なきまで加えられてから全員が殺された。
10月には、メコン河流域では、裸で両手ないしは両足の19人の遺体が川から引揚げられた。これらは、いずれも陵辱された少女たちの遺骸であった。
放火、銃剣による突き殺し、拷問、強姦、強奪――こんな記事は、ほとんど毎日のように続いている。
母親の胸に抱かれたいたいけな乳幼児でさえも、非人間的な殺人行為を免れることができないのだ。
これは、たった一都市に起きた"南京大虐殺"どころの話ではないのだ。
「朝鮮 ―新しい危機の内幕―」 D.W.W.コンデ 岡倉古志郎訳 1969年 新時代社
●韓国軍 '良民虐殺' 関連ロイター通信報道翻訳文専門
韓国の暗いベトナム戦争遺産
韓国の一報道人,
韓国軍のベトナム良民たちに台一残虐行為を報道する
中部ベトナムビンディン性には花崗岩に 1004人の名前たちが鮮かに刻まれた大きい碑石がぐんと立っている. 被害者たちと地域行政役人たちはベトナム戦期間に韓国軍がやらかしたハックサルグックに対して述べた. これらは 1966年初ただ一日ぶりに 380人が皆殺しされたことを含めて 6週間にわたって皆 1000人余りの良民たちが無惨に殺害されたと証言した.
ビンディン性での韓国軍良民虐殺に対する証言を収集するために何ヶ月の間生存者たちを追跡して来た韓国の一報道人はこれからは韓国政府が当時韓国軍の残虐行為を謝って, 被害者たちに賠償しなければならないと言う. 韓国の時事週刊誌 <ハンギョレ21> ベトナム通信員である鳩首チョン氏はベトナム以前 251周年(来る 4月)を控えている時点な来月済州島で開かれる人権会議から今まで自分が把握した真実たちに対して演説する計画だ.
旧さんは韓国のベトナム戦介入問題を研究した過程でその碑石を見つけたし, 被害者たちとインタビューを始めた. これらの証言は米軍が 1968年ミルライ村でやらかした悪名高い良民虐殺事件の記憶を思い浮かぶようにするのだった.
旧さんは自分の調査報告書が韓国軍の良民虐殺問題に対する関心を催すのを希望している. しかし彼が去年 5月 <ハンギョレ21>に書いた記事はベトナム参戦退役軍人たちから黙殺された. 彼らはベトナムビンディンジヨックで良民たちが殺害されたかは明らかではないと主張する.
“韓国人たちはこの良民虐殺事件を確かに分からなければなりません. この事件は韓国人たちに恥ずかしさを抱かれてくれることであり, 私たちはベトナム被害者たちに謝る義務があります”と旧さんは言った.
ベトナム戦争期間の間韓国は専心全力をつくしてアメリカを支援した. もしそうではなければアメリカ政府が韓国に駐屯している米軍を撤収させるかも知れないという恐ろしさからだった. 約 30万名の韓国軍がベトナム戦で争ったし, これらはベトナム住民たちの間で恐れの対象だった.
三名のベトナム役人たち(このなかに一人は自分が韓国軍の良民虐殺現場でやっと生き残ったと言った)は <ロイター>わの電話インタビューでビンディンジヨックで開かれた当時の状況を詳らかに証言した. 匿名を要求したこの役人たちによれば, 韓国軍は 1966年初当時にはビンアンと呼ばれたタイビン死に進入した. その所は韓国軍がベトコンの拠点地域で信じたタイソン懸案のいくつかの**が集まった地域だった. 韓国軍は敵対勢力たちを掃討しようと思ったが, 住民たちは韓国軍の行動を正面で対立したと役人たちは述べた.
タイソン現の共産党歴史担当分科のある関係者は “韓国軍による良民攻撃は 1966年初に始まったし, その年 2月26日香西での 380人集団虐殺で絶頂を成した”と言った. この管理は “韓国軍は住民たちを丘の上に駆っておいた後鉄砲をうって手榴弾を投げた”と “年寄りたちを紐で縛って命が切れるまでほったらかしておいて, 子供たちの身を裂いて手と足を木の上にほうり出した場合さえあった”と言った. 彼は “集団虐殺された人の中では少しのベトコンたちも含まれていた”と付け加えた.
韓国軍たちはまた死骸たちを 500?650フィート長さのざんごうにほうり出したりしたし, 生存者たちが後こそ死んだ人々の死骸を埋葬したと彼は言った. 香西地域で死んだ人々の名前, そして 6週間にかけた殺戮前の他の犠牲者たちの中で身元が明かされた人々の名前は碑石に刻まれているのに, その数字は 1004人にのぼると彼は言った. この官吏は “この地域では集団虐殺問題の輿論化作業をたくさんして来たが, 香西良民虐殺を証言する生存者がなかっただから外部世界では知り合いが誰もいないようだ”と付け加えた.
当時集団虐殺で生き残ったという他の限り官吏は犠牲者たちが主に女性, 子供, 年寄りたちだったと述べた. “集団虐殺は ‘すべてのものを焼いてしまって, 壊してしまって, すべての人をおかゆだから’は韓国軍戦術指針の一環だった. その目標は全地域を掃除するのだった. 年寄りと子供たちを殺害して家畜を殺して, 家と穀食まで燃やしてしまったこともそのためだった”と彼は付け加えた. タイソン現の人民委員会官吏も 1200人が殺されたとしながら前の証言たちを再確認してくれた.
ハノイの一政府官吏は中央政府で後でビンディン事件を調査して詳しい報告書を発行したし, この報告書は香西地域の約 380人を含んでその期間中 1000人以上が死んだという事実を見せてくれていると明らかにした.
しかしベトナム外務省はこの集団虐殺社でも主張に対するどんな論評や実は確認を拒否しながら, この問題を再論するのを願わないと言った.
<ロイター> 記者たちは生存者たちとインタビューをするためにビンディンを訪問しようと思ったが成事にならなかった. 外国記者たちがハノイ外で取材活動をするためにはベトナム政府の承認を受けなければならない. ところが去年 12月ベトタム外務省はビンディンジヨック洪水の余波で現地役人たちが忙しすぎて訪問者たちを受け入れることができないと言った.
ベトナム外務省は <ロイター>の質のに対するステートメントでこんなに明らかにした. “韓国軍はベトナム住民たちに対して犯罪行為をやらかした. 人道的で平和に隣国と過ごす伝統によって過去を閉めるのがベトナムの政策だ….”
ハノイにある韓国大使館はベトナム戦期間に成り立った韓国軍行為と係わる全般的問題に対するどんなコメントもするのを拒否した.
またベトナム ‘労動と傷い軍人及び社会部’ 傘下戦争犯罪調査委員会に保管されている集団虐殺と係わる公式報告書を見せてくれと言って要請したが, ベトナム外務省は該当部で役人たちが忙しすぎるから不可能だと言った.
ビンディンジヨックの韓国軍集団虐殺問題は韓国政府が 1950?53年朝鮮戦争初期に米軍たちがやらかしたノグン里集団虐殺事件に対する調査を始めてから久しくなくて出た. ノグン里住民たちと韓国戦参戦米軍たちはこちらで数百人の罪のない住民たちが皆殺しされたと証言した.
去る何年間ベトナム戦での韓国軍役目を調査して来た全景数ソウル大教授は (韓国政府の) 二重定規を指摘する. 彼は “ベトナムでの韓国軍行為は長い間韓国で非常に敏感な問題だった”と言った.
ベトナム戦争での韓国軍集団虐殺問題に対する注目度は去る 1968年 3月16日米陸軍中尉ウィリアムケルリの指揮の下米軍が良民 500人余りを射殺した ‘ミルライ事件’とは明らかにするように対比される. 当時の集団虐殺が世に知られると全世界に大きい反響を催したし, ‘戦争の無惨’の同義語になった.
韓国のキム・デジュン大統領は去る 98年ハノイを訪問した時ベトナム戦での韓国軍行為に対して残念の意味を表示した. しかし謝らなかった. 当時ベトナム政府は自分の地で戦ったどんな国に対しても謝りを要求したことがないという話で応じただけだ. ベトナム専門家たちはハノイ政府が過去フランスやアメリカに対抗して数十年間争った戦争での特定残酷行為たちを浮上させるのを願わないようだと言う.
ハワイのアジア太平洋安保研究センターベトナム専門家刀テイオは韓国軍によったベトナム良民虐殺はベトナム戦争が主にアメリカとの戦争で見なされて来たから大きく注目を引くことができなかった側面があると分析した. 彼は “ベトナムのソンゾンがドルはいつもアメリカ政府とアメリカ人々を別に区別する”と言った. “彼らの観点で見ればベトナム戦争は不道徳な (アメリカ)政府によって触発された戦争であるだけだ. 韓国人, タイである, オーストラリアであるなどは皆 (アメリカ政府の) 追従者に経つのない. ベトナムの宣伝扇動家たちはただ一つの酒積(米政府)に焦点を合わせなくてはならない多くの国を相対すればむしろイシューが曇るだけだと思う.” 刀デー語はまた “ベトナム政府はベトナムが地域国家たちから援助と投資を求めている状況で過去の歴史的荷が自分たちを押さえつけることを願わない”と付け加えた.
【ハノイ=ディーンイーツ記者】
ハンギョレ21 2000年 01月 27日第293号
チョ・ヨンウク(元韓国軍補給部隊「十字星部隊」所属)
「韓国軍が、ベトナム戦争に参戦したのは、世界の自由を守るためだと言ってましたけど、本当は金のためなんですよ。金目当てなんだから、早い話がアメリカの傭兵ってことですよね」
韓国人は金儲けのためにベトナムで起こした蛮行は韓国側が米国に持ちかけた!
■これまでの通説では、アメリカの要請に応じて朴大統領は派兵を決意したことになっている。
ところが、近年アメリカの研究者などのあいだでは、逆に韓国側から派兵を持ちかけたとする異論が出され、こちらの方が説得力を持ちつつあるのだ。いずれにせよ、アメリカは派遣されたすべての韓国兵に戦闘手当てを支払い、その大半は右から左に韓国本国へ送金された。
これらを含む、アメリカからの“ベトナム特需”の総額は十億ドル(当時で三千六百億円)をはるかに上回り、実質的には朝鮮戦争時の日本における“朝鮮特需”以上の利益を韓国にもたらしたのである。
『コリアン世界の旅』 野村進/著(講談社)
■戦争中に朝鮮人慰安婦にお金を払っていた日本と、現地ベトナム人を無差別に殺害・レイプして、2万人もの混血孤児を作った韓国お前らに日本を責める資格は無い!
韓国はベトナムで何をして来たか!
女性たちを強姦した後、殺害
韓国軍は残酷な大量虐殺を行ったため、南ベトナム民族解放戦線(NLF)さえ、できるだけ直接的な交戦は避けようとした程だったと伝えられる。前線もなく、敵が誰なのかもわからないベトナム戦でベトコンの根拠地を捜索、 破壊するという作戦上の名分が老若男女を区別しない虐殺行為を正当化させた。筆者が持っている記録は、その内容が非常におぞましく、詳細に明らかにするもので、負担がなくはなかったが、 その一部をここに紹介する。「ハンギョレ21 1999年 05月 06日 第256号」/写真は同記事より
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韓国軍のベトナム戦争参戦
有志ブログの多くがあつかわれて来た事柄と思う。真実に取り組み、英邁な論及を尽くす諸氏に敬意を捧げ、小ブログからも小稿を呈する。読者からお知らせいただいたこともあり、小稿では、ベトナム戦争における韓国軍の行為について触れる。
好き嫌いの感情次元の問題ではなく。特定国の侵蝕を許せば許すほど、日本社会は秩序と国益を喪失し、国民生活も危うくなる。その教訓の一端を、ベトナム戦争、およびその戦後の事例に観ることができる。
韓国軍のベトナム戦争参戦は昭和39年(1964年)に始まっていた。当初は、医療支援団や教官等、約270名をサイゴンの南のプンタウに派遣。翌1965年2月に、米軍が北爆を開始、次いで米海兵隊が3月にダナンに上陸。それに続き、10月から、韓国軍は1万数千名を派兵して本格的に参戦した。
以後、1965年から73年までの間、韓国軍の戦闘部隊約30万名がベトナム戦争に参戦。この過程で、韓国軍は戦死者4960余名、負傷者10余万名を記録。一方、韓国軍が殺傷したベトナム人は4万1450名(公式統計のみ)に上る、と表題記事は伝えている。
韓国軍の派兵は、米軍に次いで多かった。その理由は、「派兵規模」に応じた「補助金と対米移民枠」を得られたからであった。いわば、韓国にとっては、あからさまな国益を兼ねた参戦であり、しかし、その残虐ぶりは、後に自国のジャーナリズムが報じるようになり、「住民虐殺」と「韓越混血児(ライタイハン)」が問題として問われることになった。
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残虐を極めた韓国軍
同記事には、『韓国軍は残酷な大量虐殺を行ったため、南ベトナム民族解放戦線(NLF)さえ、できるだけ直接的な交戦は避けようとした程だったと伝えられる』と、特に、掃討作戦における非道の様子を記している。
同記事は、韓国軍の残虐行為を次のように概略している。
(以下、引用)
このような捜索掃討作戦は、一次的にじゅうたん爆撃等で作戦地域を公開して、 韓国軍等の地上軍が現場に投入されて村に残っている住民たちを即決処分した後、家を燃やしてブルドーザー等で村全体を押し潰す方式で展開した。生存者の韓国軍に関する証言で共通な点は、無差別機関銃乱射、 大量殺戮、 妊産婦、 女性に対する強姦殺害、 家屋への放火などだ。生存者の証言を土台に韓国軍の良民虐殺方式を整理してみると、いくつかの共通した類型が現れる。
-住民たち(大部分が女性と老人、 子供たち)を一ケ所に集めた後、あるいはいくつのグループにまとめて、機関銃を乱射して抹殺する。
-住民たちを一戸に追い詰めて銃を乱射した後、家と一緒に死亡者も生存者も全部燃やす。
-子供の頭を割ったり首をはね、 脚を切ったり四肢を切断して火にほうり込む。
-女性を強姦した後、殺害して、 妊産婦の腹を胎児が破れ出るまで軍靴で踏み潰す。
-住民たちを村のトンネルに追い詰めて毒ガスを浴びせて窒息死させる。
韓国軍の大量虐殺が強行された所では、子供たちの口にキャンディやケーキが含まされていた。老人たちの口にはタバコが咥えられていた場合が多かった。恐らく、村人を安心させながら一ケ所に集めるための手段だったようだ.
(以上、引用)
以上、ごく一端ではあるが、韓国の雑誌「ハンギョレ21」誌の記者が「自ら取材し、掲載した」とされるの和訳記事から一部を紹介した。
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韓国の謝罪も補償も無し!
ベトナム戦争の「混血児問題」として知られている事実が、上述の「韓越混血児」がある。ベトナム戦争に参戦時に、韓国軍兵士や軍属の韓国民間人が「強姦」「非管理売春」「現地妻の保有」などにより、多くの混血児が生まれ、戦後に放置された問題である。
『現地妻との間に生まれた混血児の数は、2004年9月18日付の釜山日報の記事によれば、5千~3万人と推定されている』(Wikipedia) 。また。『現時点では、韓国政府から被害者や混血児に対する謝罪や補償は行われていないが、最近、韓国人(父親)が認知しない場合でも、写真など客観的に関係を立証する資料があれば国籍を付与する法案を積極的に検討する事にした』と(同)ある。実施ではなく「検討」である。
「謝罪と補償」。その見方にもよるが、速やかにそれらを実行する日本政府の対応とは雲泥の差がある。また、金大中氏(当時・大統領)が訪越(1998年)した折に、戦争当時に、ベトナム人に苦痛を与えたことに対して謝罪した、伝えられ、その折に、『ベトナムのチャン・ドク・ルオン大統領は、両国は未来志向的に関係を構築していかなければならない」と述べ過去には関心を示さなかった』(同)とあるが、韓国は、直後に謝罪を撤回している。
韓国にとっては、日本に対する“加害責任”を問い続ける立場から、金大中氏の「謝罪」は外交カード維持のためのポーズではないか、と認識されている。ゆえに、混血児を産んたベトナム女性は、韓国からは補償をまったく受けていない。自国民が犯した罪の謝罪と補償を果たさない韓国。このような国家が、日本に対して“従軍”慰安婦の難題を、しかも捏造をもとに延々と突きつけ、補償せよという権利はないのである。
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国際結婚「韓国人、女性を商品のように扱う」…ベトナム
昨年の中央日報の記事(2006年4月29日)だが、『結婚相手を探しにベトナムを訪れた韓国人男性たちがベトナム女性を商品のように扱っているとベトナム新聞が報道し、現地で「反韓」を買っている』との記事があった。
仲介業者を通じた韓国人男性とベトナム人女性の国際結婚のケースが多いようだ。韓国人男性に、『番号札をつけて集まったベトナム女性たちの顔写真を載せ「韓国の王子様、私たちを連れて行ってください」という説明をつけた』と。商品のようにあつかわれたと「反韓」を買っているとの記事である。
女性を「モノ」として見る傾向は、日本で多発している韓国人による性犯罪の事例を観ても、その傾向をはっきりと読み取ることができる。まして、ベトナム戦争における残虐。そこから遡及する朝鮮戦争時における残虐。その韓国の歴史にこそ、「従軍慰安婦」「性奴隷」が存在しているのである。
■ベトナムでの強姦虐殺をひた隠しにする、韓国政府の卑劣さ!
98年、金大中は訪韓したベトナム大統領ルオンに対し、謝罪の言葉を
口にしたものの、その言葉につづけて「未来志向」を説き、これ以上この
件について言及するべきではないと暗に釘を刺した。
このとき、退役軍人などは、「お前たちはベトコンと同じ共産主義者だ、戦場で
会っていれば殺すぞ」「国のために戦い、三万人以上、枯れ葉剤による後遺症
に苦しむ退役者がいる。孫の世代に『良民を殺した』と疑われるのは耐えられ
ない。二度と新聞にベトナム人虐殺の記事を載せるな」韓国軍の総司令官は
「償いは必要ないあれは戦争だった」と公式に発言した。
またベトナム戦争で韓国軍がベトナム人女性を強姦して生まれた混血子供が
3万5千人以上存在している、その子供は酷く差別され、社会問題化している。
韓国政府は、それに対する謝罪と反省を、今だ一度たりともしていない!
http://society6.2ch.net/test/read.cgi/korea/1174024996/l50#tag671
また、これら朝鮮人の残虐・卑劣極まりない行為を「日本が残していった悪い害毒」などと開き直り・責任転嫁し、中傷する卑しい人権団体が新宿区に存在している。資料も捏造、勝手な解釈でことさら日本を陥れる事だけに熱心であり、人権を語る資格の無い恥しらずと言うほかに無いと言わざるを得ない。