いつかは内側さん
[更新日時] 2022-09-18 15:49:00
物件価格の高騰により、デベロッパーは都心の定義を拡げざるを得ない状況が続いています。理由はもちろん、買い手に都心だと思わせれば高値の言い訳になるからです。
さて、東京都によると都心は5区、故石原都知事が提唱したセンターコアは4区、不動産マーケットの指標となるレインズは都心を5区と定義しています。
いずれも文京区や江東区は含まないのが現状ですが、前述した理由により、文京区や江東区を都心に含めた都心6区・都心7区という商業的要素の強い造語がデベロッパーにより作られ、提示されることも出てきました。
他の区の話題でも構いません。このスレは、都心の定義をどこまで拡げてよいかを問うスレです。
[スレ作成日時]2022-04-16 10:43:31
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【城北】文京区・江東区は外周区?都心区?【城東】
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1901
匿名さん
これは地理的な位置関係からの想像だが、白山通りが通って掃除町、後の八千代町のディープな風俗街のあたりは道路になってしまったのではないかと思う。小石川のダイエーが建っているあたりが小石川柳町で、現代でも商店街として繁栄している。白山三業地のあった指ヶ谷も、今は静かな商店街になり、当時の痕跡はほとんど残っていない。なぜ無くなったのかといえば、そういう需要はここにはなかった、ということに尽きる。そもそもの始まりは陸軍造兵廠が関東大震災で大被害を受けて小倉に移転したことで若い工員がいなくなり、近隣の風俗産業は大打撃を受けたのではないだろうか。その後小石川が宅地化し工場が次々と郊外移転していき静かな住宅街に変貌したことも大きいだろう。戦後進駐軍相手の売春で稼ごうとしたようだが性病が流行するなどうまくいかなかったようだ。この時点でおそらく近隣に住む人は悪所として近寄りすらしなかっただろう。
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1902
匿名さん
往来の量からして、文京区では風俗産業は成立しにくいわな。白山で頑張ってたと思うと応援したいくらい。湯島に少し残ってるが上野という一大繁華街のお膝元だからね。
池袋、高田馬場、新宿、渋谷、恵比寿、五反田、新橋、神田、上野、鶯谷、巣鴨、大塚と山手線沿線はお盛んですな。基本低地の商業地だよね。
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1903
匿名さん
>>1902 匿名さん
巣鴨って結構高台にあるね。
大塚から行くと結構上りだもんね。
高田馬場も神田川からは少し上がってるか。
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1904
匿名さん
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1905
匿名さん
文京区民だから豊洲なんてと思ってたけど、私娼窟の否定の仕方を見てると豊洲の方がマシなように感じてきた。都合の悪いものは白山や西片に押し付けず、事実は事実として受け止めれば良いのに…都合の良いところだけ記事を拾ってきて。
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1906
匿名さん
昔から文京区はこういう民度なので特に驚かないです。
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1907
匿名さん
>>1905 匿名さん
被緑率や三井不動産のデータを持ち出して文京区をけなす書き込みだって、都合がよくデータを読み取ったとしてに批判されていました。お互いさまではないですか。
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1908
匿名さん
>>1905 匿名さん
三業地があったことは否定していないが、明治大正の頃の文献に書かれている事を素直に読む限り小石川一丁目の後楽園近辺には大きな商店街はあっても風俗街はなかったと言っているだけなんだがなあ...。
まあしかし平成の半ばごろに白山三業地はシンボルの火伏不動の社や創業者の息子の銅像とかも綺麗さっぱり取り壊されてしまった。守れという声はなかったように思う。どこかうら寂しい最後だったな。
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1909
匿名さん
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1910
匿名さん
ちなみに小杉天外が小説「初すがた」で描いた柳町の裏通りというのはおそらく暗渠化されて道ができた現在の千川通りのことだと思う。書かれているようにその通りの奥には銘酒屋があると記録されている掃除町があり、当時からあったかどうかは不明だが小説「太陽のない町」の舞台となった白山御殿町などの不良住宅地につながっている。多分その辺には矢場も銘酒屋もあったんだろう。柳町ではなく、柳町の裏通りをいくとそういう場所なので間違いではないが、誤解を招く表現ではあったかもしれない。
確かに小石川区の北の方には貧しい人がたくさん住んでいたという事実はあるが、だからといって全体が貧しいというのは大袈裟な話。こういう話をすると隠蔽だなんだと言われるかもしれないが、事実なんだからしょうがない。
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1911
匿名さん
ちなみに掃除町はその後大正期に他の地域とあわせて八千代町と改名した。今は小さな印刷工場が点在するいかにも準工の住宅街となっていて風俗店があった痕跡は一切消え失せている。当地にはワインの旨いミシュラン掲載店なんかがあるんだが、もちろん当時の工員相手の安酒場とは何の関連もない。
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1912
匿名さん
>>1910 匿名さん
柳町二十二番地の一角に銘酒店遊戯所が三四軒開業したと記載されていますので、高い確率で小石川柳町にも銘酒店があっんだと思います。
私も別に全員が貧しい人とは思ってませんが、樋口一葉のような人々が今の西片一丁目、小石川一丁目あたりで暮らしてたということは容易に推測されます。
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1913
匿名さん
>>1909 匿名さん
少し長めに引用しようか
「明治廿七八年頃よりは、指ヶ谷町一四六番地の一角に、俗称八軒矢場と称する銘酒店遊戯所十数軒散 点、孰れも相応の繁昌を来し、尚同所より南へ約三丁を隔てた柳町二十二番地の一角にも三四軒の開業を見たが、上記八軒矢場の繁昌に及ぶ可くもあらず、何時の間にか其影を失ひ、八軒矢場のみ依然として隆盛を極め、不頼の徒、不良の徒の横行闊歩を見るに至ったのである。」
要するに柳町近辺に住んでいる人はそういう変な店には行かないし、白山近辺にあった低所得者向けの集合住宅に住んでいる人もそういう金持ちが住んでいるキラキラしたところは遠慮して近寄ろうとしなかったってことだよ。アンダスタン?
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1914
匿名さん
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1915
匿名さん
>>1912 匿名さん
まあ全くなかったとはいえないかもしれないが、少なくともすぐに潰れたという事実を見る限り、柳町がその手の風俗営業には適さない町であったことは間違いないな。
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1916
匿名さん
>>1914 匿名さん
その表現は他の一次資料と矛盾すると思うけどね。
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1917
匿名さん
まとめると、主に軍人相手の商売として、後楽園近くの歓楽街として丸山福山町とその流れにある小石川柳町あたりまでが私娼窟として繁栄したんでしょう。ただ、小石川柳町は歓楽街の中心ではなく、あくまで外れであったので廃れて行った感じですね。
そして、その後、白山三業地として正式に整備されたという流れですね。
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1918
匿名さん
長文だらけでよく読んでないのですが、
三業地、娼窟、という言葉の意味がわかりません。
小石川にあったと皆さんが仰っているようですが、
これは一体何をするところですか?
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1919
匿名さん
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1920
匿名さん
>>1917 匿名さん
>丸山福山町とその流れにある小石川柳町あたりまでが
それなんだけどね、明治40年の東京名所図会には丸山福山町は邸宅が建ち並んでいるという表現で、近年漸く町家と化せし所あり、と書かれていてねえ、とてもにごりえの舞台とは思えないんだよね。(実は私も丸山福山町の私娼街ではないかと思ってたので意外)
樋口一葉のにごりえの舞台は指ヶ谷の八軒矢場と東京名所図会にも銘酒屋の記載がある掃除町の指ヶ谷よりの地域がそれなのかなあ、と思ってます。
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