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戦前、満州国に移住して、日本が敗けてそこから追い出されて帰国した人たち
苦難と絶望の日々、
[スレ作成日時]2021-06-07 22:15:10
戦前、満州国に移住して、日本が敗けてそこから追い出されて帰国した人たち
苦難と絶望の日々、
[スレ作成日時]2021-06-07 22:15:10
戦後、日本の海外領土から続々と引き揚げた日本人は320万人、
台 湾 から。・・・・32万人、
中 国 から・・・・・49万人、
韓 国 から・・・・・41万人、
北朝鮮 から・・・・・29万人、
満州国 から・・・・100万人、
千島、樺太から・・・・70万人
■ 満州鉄道の機関車を動かした知葉幸雄さん(当時13歳)
知葉さんは満鉄の撫順・技術員要請所に入った。
鉄道の機関士になるのが希望だった。
★宝田明さん(映画俳優)が戦後70年を語る、(2015年8月6日)
満州で育った俳優の宝田氏が、そこでの生活や引き揚げ体験を語った。
▼戦後70周年特別番組 いま聞いておきたいあの日の記憶-
---------壊滅した商店街と満蒙開拓団-
「少年の眼に映った満州」 手島清美さん(戦争の記憶)
■ 満州国を知る 元・満州国総務庁官吏、先川祐次氏(101歳)
戦後76年、旧満州に送り込まれた10代の若者たち
『 見捨てられたという ヒト言に尽きる!』
生存者が語る 終戦後の「悲劇」
村尾孝さん(94歳)
1945年8月9日未明、 12歳だった土屋さんは寄宿舎で寝ていると、
「ドドーン」という突然の爆撃音で飛び起きた。
ソ連軍の攻撃だとわかったのは翌日のことだったが、との日を
堺に生活が一変した。
同級生らと一緒に運動場に防空壕を掘り、空襲に備えたが、2日後、
「ソ連軍が迫っている。すぐに逃げるように」と言われ、汽車に飛び
乗った。
>>8
汽車はソ連軍から遠ざかるようにスピードを上げた。 家族が
待つ公主嶺の駅で降りるつもりだったが、通り過ぎようとしたため
先輩が「汽車から飛び降りよう」と言い、スピードが少し緩んだ
時に、「思い切って飛び降りた」
ホームに転がり落ちたが、何とか家族と合流できた。
>>9
まもなく、ソ連軍が公主嶺にも侵攻してきた。
家の前をソ連兵が行進。近くの寺に一時避難する際には、道端に
いる大勢の住民らが手を伸ばして金目の物をはぎ取ろうとしてきた。
「戦争に負けるってこういうことなんだ」と痛感した。
>>10
その後、街中の日本人が集められ、監視下での集団生活が始まった。
日本人女性への乱暴事件もあったため、土屋さんは母によって髪の毛を
丸坊主にされた。
冬を越し、46年夏に引き揚げが始まったが、農事試験場再建の
ために残留を命じられた父は、4姉妹のうち長女の土屋さんと
すぐ下の7歳の妹に、「学校に行ったほうがいいから、札幌市の
祖父母の家に行きなさい」と告げた。
>>12
途中の錦州では、鉄条網でか囲まれた馬小屋にとどめられた。
外から「ライライ(来て)」 と中国語で住民に手招きされた。
肉まんのようなものを手に、子供を誘っている様子で、妹が
行かないように必死で手を引いた。 当時は日本人の子供は
安い金額で売買されていたという。
満州から追われる日本人の多くの家庭では幼い子供を満州人の家に
預けて逃げた。
戦後、多くの引き揚げ者たちが、子供を引取ってくれた満州国の
住民たちへの感謝の念を述べている。
子供たちを引取った中国人への感謝の実態は、厳密に言えば、あの
地域の満州系、朝鮮系の住民たちであって、民族的には中国人では
ない。
満州国は「五族共生」を理想として掲げたが、順番はあった
日本人が一番上、次が満州人で、朝鮮人、モンゴル人、中国人の
順だったそうだ。
日本人は総人口の3%ぐらいだから、格差社会もいいところだ。
英、仏、露、オランダなどのアフリカやアジア地域の植民地と
同様なものだ。
満洲事変 海外の反応
昭和6年秋から昭和7年10月(リットン報告書提出)までの
海外メディアの報道を引用。
■私に、輝きや翳りを刻んだ人生の物語、
忘れ去るにはもったいない邂逅と別離、
この歳だからこそ 気づいた人生の意味・・・・・・
『91歳5か月、いま想うあの人あのこと』
岸恵子著、
幻冬舎、
女優として作家として、母として
「豊穣な孤独」に生きる
女の悲喜こもごも、全18話。
あじゃぱ~
▼ 引き揚げによる犠牲者はどのくらい、いたのか?
全体を合わせると、約30万人、
圧倒的に多いのは、8月15日が過ぎて、ソ連軍が侵入した
満州、朝鮮北部、樺太(現在のサハリン)
このうちで、満州では24万5000人ぐらい。
満州での犠牲者は、ヒロシマの原爆犠牲者、 3月10日の
東京大空襲の死者、沖縄戦の民間人犠牲者より多い。
昭和20年に入ったら、こりゃもうどうにもならんとわかっただろうに
さっさと逃げないほうが悪い
「満州国」で起きた悲劇の証言
??戦後79年 ~経験者たちの証言~
-------満州・黒川開拓団の真実
ソ連兵の暴行、略奪
ソ連兵の軍紀は乱れていた、戦争は凄惨な殺し合いの現場に
立たされるから、兵士のモラルは壊されてしまう
戦争が長引くほど、モラルの崩壊もひどくなる
ベトナム戦争での米国兵たちも同じだった
>>22
満州国の日本軍の関係者は、敗戦日から早急に帰国したから
押し寄せるソ連軍の暴力の犠牲者はいなかっただろう
満州鉄道関係のヒト達も家族とともに帰国できた人が
多かったが、農業関係の移民だった「満蒙開拓団」の
人たちは、もろにソ連軍の攻撃にさらされた
満州での犠牲者の多くは、こういうヒトたちだった