777
[更新日時] 2024-11-15 16:44:08
越後湯沢・苗場のリゾートマンションは買ってはいけない?
藻谷 湯沢のいくつかのマンションでは、水回りが老朽化しているために、蛇口から出る水道水も飲用には堪えず、住民はペットボトルの水を買っていると聞きます。
「空き家大国ニッポン」のゾッとする近未来?首都圏でさえこの惨状… 無計画な開発の果てに
2017.03.10 藻谷 浩介,野澤 千絵 現代ビジネス
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/51118
ベストセラー『里山資本主義』の著者・藻谷浩介さんと、『老いる家 崩れる街』の著者・野澤千絵さんのおふたりが明かす日本の惨状――。
藻谷 浩介(もたに・こうすけ)1964年、山口県生まれ。日本総合研究所主席研究員。主な著書に『デフレの正体』『里山資本主義』『しなやかな日本列島のつくりかた』『和の国富論』などがある
野澤 千絵(のざわ・ちえ)兵庫県生まれ。東洋大学理工学部建築学科教授。著書『老いる家 崩れる街――住宅過剰社会の末路』(講談社現代新書)が話題を呼び、累計5万5000部を超えている
藻谷 戦後の日本の住宅業界は、「供給を増やせば市場価値も上がる」という、市場経済原理とは真逆の、謎の信念によって支えられてきたのです。原理的には、供給を増やせば値段は下がるのが当然なのですが。
今から20年以上も前、日本開発銀行で地域振興の調査をしていた時分に、大阪の街づくりコンサルタントと話をしていて、初めてそのことに気づきました。
私が「容積率を上げると供給が過剰になってテナントの家賃も下がるし、地価も下落しますから、やめたほうがいいですよね」と言ったら、「はぁ? 容積率を上げないと地価が上がらないだろうが!」と激怒されたんです。
私は「供給を増やすと値段が上がる」と大真面目な顔で言う人がいることにひどく驚いたんですが、それ以来出会った不動産業界、住宅業界の人はみな同じ考えだったんです。
野澤 たしかに、同じ広さの土地を開発する場合、容積率を上げればより多くの住戸が作れますから、その土地の価値は上がりますが……。
藻谷 これは典型的な「合成の誤謬」です。その土地だけみれば確かにその時には価値は上がるのですが、そうなると隣の土地でも同じことを始めます。つまり、エリア全体で見ればあっという間に供給過剰になって地価が下がるんです。
湯沢町(新潟県)が典型ですね。都市計画もないスキー場エリアで、バブルの頃に林立した超高層のリゾートマンションの部屋が、今は超格安で売りに出ています。
野澤 そうですね。あのリゾートマンションはいまや100万円でも売れない状態でしょう。結局、持ち主にしてみれば資産価値は暴落しても、古くなった家電製品のようにどこかに廃棄することもできない。
所有権がある以上、固定資産税や管理費・修繕積立金という支出だけは負担しなければならない。ものすごい重荷になっているはずです。
藻谷 湯沢のいくつかのマンションでは、水回りが老朽化しているために、蛇口から出る水道水も飲用には堪えず、住民はペットボトルの水を買っていると聞きます。
野澤 えーっ!
住宅業界の人が買わない物件
藻谷 実際には開発業者はそんな超高層住宅の末路は知っているのです。でも「買う奴がいるのだから、今売れればいい」という「売り逃げの論理」で突っ走っているんです。
東京都心に急増している分譲タワーマンションの多くは、近い将来、高齢者が詰まった「新・山村」になって、その処理は大きな社会問題になります。その頃になって製造物責任を問われるのは、売り逃げを図った不動産会社ですよ。
野澤 だから、建築や住宅業界の人はほとんど、タワーマンションを買ってないですよね。
藻谷 そう、住宅業界の人は超高層物件を買わない。私も家は買っていない。首都圏の家を買うリスクは大きすぎます。
野澤 タワーマンションは修繕コストも膨大になります。大規模修繕や建て替えの際に住民の意見をまとめなくてはならないけれど、何百世帯もの合意を得るのは非常に難しい。
藻谷 消防車の梯子が届かないような高さの建物の修繕はかなり技術的にハードルが高い。湯沢町のように、十分な修繕ができない「立ち腐れ超高層」が激増するでしょう。そして、劣悪な状態になったマンションであっても、居住者は税金や管理費・修繕積立金を負担し続けなければならない……。
野澤 戸建てもタワーマンションも大量に余る時代になってきているのは予想ではなく現実です。こうなった以上、今すでにある空き家を中古住宅として流通できる建物にして売買・賃貸したり、古い空き家は解体・除却することが一般化するような仕組みを整えつつ、都市計画を厳格にし、規制を強化すべきだと思います。
藻谷 高さ制限の厳格な国立市(東京都)では、高層マンションを建設した業者に、住民が訴訟を起こし、一審では20メートルを超える部分の撤去を命じた。地元の不動産業者が「不当な判決だ。これで国立の地価は暴落する」と言っていましたが、現実には国立の地価は今でも上がっている。
野澤 「地区計画」という都市計画制度による規制で、実質的に住宅の供給が一定程度制限されているからですね。住宅過剰時代には、自分の家があるまち自体の資産価値を上げるよう、ひとりひとりが行政に働きかけることが、ますます必要となってくるのでしょう。
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/51118?page=4
[スレ作成日時]2017-05-27 20:04:01
[PR] 周辺の物件
|
分譲時 価格一覧表(新築)
|
» サンプル
|
分譲時の価格表に記載された価格であり、実際の成約価格ではありません。
分譲価格の件数が極めて少ない場合がございます。
一部の物件で、向きやバルコニー面積などの情報に欠損がございます。
|
|
¥1,100(税込) |
欠品中 |
※ダウンロード手順は、
こちらを参照下さい。
※クレジットカード決済、PayPal決済をご利用頂けます。
※購入後、72時間(3日)の間、何度でもダウンロードが可能です。
越後湯沢・苗場のリゾートマンションは買ってはいけない?
-
1
777
湯沢・苗場に限らず、築30年以上の中古マンションを買うと水道が出なかったり、スラム化が進んでいたり、***が出入りしていたり、売りたくても売れなかったりするので注意して下さい:
【戦慄のルポ】いま全国の「限界マンション」で起きていること 建物と住民の老化でスラム化
2016.12.31 週刊現代 :現代ビジネス
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/50483
■白骨化した変死体が…
福岡県・福岡市博多区。JRの博多駅から徒歩10分ほどの裏通りに面した、築40年超のAマンション。
年季が感じられる灰色の壁と、塗装が剥がれて何が書いてあるのか判別しにくいマンション名のプレートを除けば、一見、どこにでもあるような古びた建物に見える。だが、ここは、「スラム化マンション」として全国的に有名になった物件だ。
近隣の不動産を取り扱う業者が言う。
「かつて、このマンションは中流の家庭が入居するごく普通の物件でした。それが、地上げ屋と住民の対立から、入居世帯の過半が不在となり、結果的に管理組合の機能が麻痺してしまった。
共用部の電気代の支払いが止まって、エレベーターは動かなくなり、屋上の貯水タンクへの水の供給が停止。居住が不可能になりました。
多くの住民が出ていってしまい、浮浪者や不審者のたまり場となり、荒れに荒れた。不審火による火災が発生して全焼した部屋が丸焦げのまま放置されていたり、白骨化した変死体が発見されたりと、酷い有り様でした。
経済的な事情で出ていくことのできなかった高齢の住民は為す術もなく、相当な苦労をされたと思います」
いまでこそ、外壁は塗り直されているが、かつては一面がペンキの落書きだらけだった。混乱に乗じて暴力団事務所が入居したという部屋のドアには、発砲事件の弾痕がいまも残る。
現在は、全住戸の半分ほどに住民がいるとはいえ、屋上には今もゴミが散乱し、壁のところどころには、また新たな落書きがなされている――。
にわかには信じがたい光景。だが、今後、こうした管理不全による「スラム化マンション」が、日本全国で急増する可能性が高い。
『限界マンション』などの著書がある、富士通総研の米山秀隆氏が言う。
「マンションには2つの『老い』があります。建物と、居住者(部屋の持ち主)の高齢化です。この老いの過程で、空室化や賃貸化が急速に進み、維持管理や建て替え対応が難しくなっていく。
こうして管理不全の状態になった分譲マンションがいつからか『限界マンション』と呼ばれるようになりました。
日本に分譲マンションが登場したのは、'50年代の終わり頃で、高度成長期にはさらに増加した。そうした初期のマンションは、現在、築年数で50年から60年を迎えています。
管理組合が存在しないところも多く、いつしか日常的な管理すら行われなくなり、あらゆるところに不具合が出ている。『いまにも倒壊しそう』というほどの例は、都内ではまだありませんが、今後20年でどんどん増えていくでしょう」
■管理組合が自然消滅
現在、全国のマンションのうち、世帯主の年齢が60歳以上のものは約5割を占め、マンション住民の高齢化は急速に進行している。
住民の高齢化が進むと、どうなるのか。そのモデルケースが、東京・新宿区の高田馬場駅から徒歩15分程度のところにある大規模な都営B団地だ。
ここは、総戸数約2300戸のうち65歳以上の住人が過半数を占める。都が、単身での入居は60歳以上と制限していることが高齢化に拍車をかけたこともあり、大都会の「姥捨て山」と揶揄する者すらいる。
エレベーターのない5階建ての棟に住む、70代の男性が言う。
「昔は子供もいっぱいいたけど、いまはもう年寄りばかり。ここ数年で知り合いだけで十数人が亡くなった。なかには、部屋の中で倒れて、死後2週間以上経ってから発見された人もいた。
団地全体だと孤独死の話はしょっちゅう聞きます。皆どこかしら体を悪くして、病院に行く以外は家に引きこもっている。自治会の役員もなり手が少なく、あと5年もしたら、運営が成り立たなくなりますよ」
このB団地は、あくまで都営であるため、設備の維持管理は都が担っているので、仮に自治会が組織できなくなっても、一定の環境は維持されるかもしれない。
だが、民間マンションの場合、同様に住民の高齢化が進み、管理組合の機能が果たされなくなれば、もはや誰も面倒を見てくれなくなる。
老朽化マンションの問題に詳しい、高崎健康福祉大学元教授の松本恭治氏が言う。
「以前私は、自宅のある都内の多摩地区から、大学のあった群馬県高崎市の近辺までに建つ約250件のマンションを、数年かけてしらみつぶしに調査しました。
結果、その1割、25件のマンションが住民の高齢化による管理組合の機能停止や、管理費積立不足による修繕不可能などの『管理不全』に陥っていたのです。
調査から数年が経ち、その数はもっと増えているはず。こうした足を使った調査はほとんど行われていないから見過ごされがちですが、東京周縁部での管理不全のマンションの増加スピードは、想像を遥かに超えるものがある。
私が実際に赴いて調査しただけでも、埼玉県の所沢市や新座市、熊谷市、茨城県の取手市などで、管理不全マンションの増加が目立っています」
■いきなり廊下が崩落
建物と住人の2つの老い。その進行がとりわけ顕著なのが、'81年の6月以前に建設された旧耐震マンション(築35年以上)と、そのさらに前、'71年以前に建てられた旧々耐震マンション(築45年以上)だ。
日本全国で、旧耐震は約106万戸、旧々耐震は約18万個が現存しており、両者を合わせた数は、多い順に東京、神奈川、大阪、千葉、兵庫、埼玉、愛知と続く。
そのうち東京には、旧耐震が36万戸、旧々耐震が7万戸現存。次ページの表を見れば分かる通り、世田谷区や渋谷区、港区、新宿区など、人気住宅地とされる地域に多い。
都下に目を移せば、多摩ニュータウンに代表される大規模団地を抱える多摩市や八王子市、町田市に多く残る。
この状況に危機感を覚えた東京都は、今年3月「良質なマンションストックの形成促進計画」を策定。マンションと各管理団体を登録させ、都の側で老朽化の状況を把握する試みをはじめた。
都は、8割以上のマンションの登録を目標に掲げるが、前出の米山氏は、その効果に懐疑的だ。
「そもそも、こういう仕組みにすぐに反応して登録できる時点で、それなりに管理が行き届いている証なんです。問題なのは、管理組合が機能していないマンション。そうしたところは、手間が増えるのを嫌がり、登録しないのが目に見えている。
あるいは、そもそも組合がないマンションの場合、こうした計画の存在そのものを住民が把握できない。老朽化物件の増加は避けられない現象なので、行政は早晩、マンション解体の問題に本腰を入れて向き合う必要に迫られるでしょう」
老朽化したマンションの不利益を被るのは、当該マンションの住民たちだけではない。
「修繕がおろそかになっていたマンションの外壁コンクリートがボロッと剥がれて、歩道に落下したなんていう事故は、全国各地で毎日のように起こっています。取り返しのつかない大事故がいつ起きてもおかしくない」(前出・松本氏)
実際'09年には、沖縄県浦添市の住宅街にある築35年(当時)の老朽化マンションで、長さ約15メートルの廊下が崩落する事故が起きている。早朝5時という時間帯だったため、けが人はいなかったが、下敷きになった軽自動車はペシャンコにつぶれ、大惨事になる恐れもあった。
これも、管理組合がきちんと機能し、定期的な検査や保全が行われていれば、事前に対策の打てた事故だった。
こうした管理組合の機能不全に加えて、外国人の賃貸利用者増加が「スラム化」に拍車をかけるケースもある。
神奈川県横浜市中区・関内。最寄りの市営地下鉄の駅から徒歩5分ほどの好立地に、Cマンションがある。周辺にはコンビニエンスストアや大規模スーパーもある便利な場所。
高級マンションが林立する一帯にぽつりと佇む、くすんだ外壁が、物寂しい雰囲気を醸す。壁にはひび割れが目立ち、バルコニーの手すりのまわりのコンクリートは崩れ、いつ手すりが外れて人が転落してもおかしくない状態だ。
このマンションは築40年程度の9階建てで、総戸数は40弱と規模が小さいこともあり、地主が自主管理をしていたが、5年前、地主が亡くなったのを機に、状況が一気に悪化した。
一室を所有している70代の女性住民が嘆く。
「建物の老朽化が進んでいるのに、修繕の手立てがなかった。あちこちで起こる水漏れなどに耐えられなくなり、住民有志であわてて管理組合を立ち上げました」
そこで衝撃の事実が発覚する。地主が生前に徴収していた管理費を使い込み、残高が0になっていたのだ。
あわてて修繕費積立金を集め出したものの、予想外の出費は高齢の住人たちには荷が重く、瞬く間に滞納者が増えた。なかなか積み立てが進まず手をこまねくうちに、生活に大きな支障をきたすレベルの不調が、マンションのあちこちで起こりはじめた。
「まともなマンションなら年に数回は行われる給排水の高圧洗浄ができなかったので、しょっちゅう水が詰まるようになりました。屋上にある受水槽の清掃もしておらず、水質検査が必要なのですが、その費用さえなかった」(前出・女性住民)
■地獄のような悪臭
悪化する状況に、賃貸住民が逃げ出し、オーナー所有者たちが空室をなんとかしようと借り手を選ばなくなったことで、中国人の居住者が一挙に増えだした。
「彼らは、料理で使った油を普通に排水口に流して捨てるんです。もともとサビやゴミで詰まり気味のところに油を流し込むから、排水管の中で固まってしまう。水が流れないので洗い物はおろか、洗濯もまともにできない。
組合理事が抗議をしに行っても、『何が悪いんだ』と開き直られ、話し合いにすらならない。そのうち下水も詰まって、汚物が逆流し、お風呂場に溢れるようになった。悪臭なんてもんじゃない。
もう地獄です。仕方がないから、吐き気を抑えながら、誰のものかもわからぬ汚物を風呂桶ですくってはゴミ袋にためて捨てに行く。この歳になってなにをしているんだろうと、涙が出ました。
結局修理してもらうために、業者を呼ぶことが決まったのですが、長年の老朽化で、『洗浄時に破損するリスクがあるから』といってほとんどのところに断られてしまい、途方に暮れました」(前出・女性住民)
このマンションは粘り強い交渉を経て、これからようやく修繕の第一歩を踏み出すという。だが、取材時もちょうど配管にひびが入り、ガス漏れが発生。住民たちの悩みは尽きない。
こうした、管理不全の老朽化マンションの救済業務に特化した企業も出てきている。
そのひとつ、横浜サンユーの利根宏代表が言う。
「うちは、20年ほど前からこうした業務に取り組んできましたが、管理不全物件の数は年を追うごとに増えています。立地が良いから大丈夫、などという考えはまったくの幻想。
いまのままでは、所有者の多くが亡くなり修繕の手もつけられず、買い手もつかないマンションが日に日に増えて行く。国や自治体が解体するにしても、膨大なお金がかかる。一体どうしたらいいのか……」
前出の米山氏が続ける。
「結局、マンションは自分たちのものなので、他人が助けてくれることを期待してはいけません。行政が支援するといっても、出来ることは限られる。他の住人に任せきりにするのではなく、早いうちから管理組合の状況を把握した方がいい。
マンションを売却して老人ホームなどに入居することを考えても、資産価値を下げないために積極的に管理組合に関与することが、ひいてはスラム化を防ぐ第一歩です」
「限界マンション」の現実は、決して他人事ではない。
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/50483
-
2
777
無料でもいらない湯沢町のリゾートマンション 2017/2/11
若いころは憧れの対象だったリゾートマンション
昨日(2月10日)のTV朝日スーパーJチャンネル内の特集「冬は誤算!?…夢の終の住処・有名リゾート地=越後湯沢で」を観て、いろいろ考えることがありました。
この番組の趣旨は、リタイア後に都内などから越後湯沢へ移住してきた何名かの夫婦や独身男性を取材して、移住後の生活を密着取材したものです。
移住にある程度満足している人もいれば、移住を後悔している人もいて、これから移住を考えているものにとっては非常に参考になる番組内容でした。
さて、新潟県南魚沼郡湯沢町と言えばバブル時代(1980年後半~1990年前半)に高級スキーリゾート地として大変賑わった場所です。
当時20代だった私は、スキーが大好きで都内から毎週のようにクルマで苗場スキー場を目指したものです。映画「私をスキーに連れてって」の影響もあり、当時の若者がスキーをするのはファッションの一部だったんですよね。
それで貧乏会社員の私は苗場に続々と建設されていたリゾートマンションを観て「いつかお金持ちになって苗場にリゾートマンションを別荘として買ってやる!」と心に誓ったものです。当時お金が無かった私は、会社が終わって夜中にクルマで苗場まで行き、車中泊をして朝一番からスキーを楽しんでいました。狭いクルマの中で寝るのは大変苦痛でしたが、若かったので大した睡眠時間を取らなくても大丈夫でしたね。まあ必ず女の子が一緒に居ましたし楽しかったので疲れも吹き飛んでいたんでしょう(笑)
そんな思い出の湯沢町ですが、近年バブル当時に建設されたリゾートマンションが売れているそうです。
主に高齢者が終の棲家として都内などから移住されるパターンが多いとのこと。
しかも購入したマンションの価格が激安!
調べたら1部屋10万円のマンションが沢山あります。
上記のマンションは苗場スキー場から徒歩圏内の西武グループ管理物件の1つです。
まさに私が27年前に「このマンション、いつか買うてやる!」と誓った物件…
「今なら1棟ごと買えるがな」
ネットオークションでマンションを購入した50代男性
番組内で50代独身男性の1人を取材しておりました。
湯沢町の中古マンションをネットオークションで落札し、1LDKの部屋を19万1000円で購入。2年ほど独りで住んでいたが、大阪のご両親の世話をするため実家へ戻ろうと検討。
不動産会社に部屋の買い取りを依頼したところ新たな買い手を見つけるには3年かかると判断され、買い取りには管理費、修繕積み立て、固定資産税などを含め200万円以上の支払いが必要と言われた…
この部屋が最終的に売れたのかは分かりませんが、安いのは理由があるんですよね。
築30年のマンションを10万で買えても、維持費が毎月3~4万、固定資産税が毎年10万程度掛かります。途中で売却したくても次のオーナーが見つかるまで何年も待たなければならない…
普通の物件ならば値段を下げればいつかは売れますが、10万程度で売られている物件はこれ以上値下げしようが有りません!
(無料でも良いんでしょうが、不動産屋の仲介料が全く取れないので仲介しない)
昔夢見ていたリゾートマンションがこんな姿になってしまって複雑な心境になった番組でした。
じゃあ今このリゾートマンションを買うか?と問われても
タダでもいらねー
______
10万円で買えても、売ろうとしたら 200万円は出さないと引き取ってもらえない?
メディカル&リゾート・ソリューション株式会社
http://www.mrs-japan.jp/
メディカル&リゾート・エステート株式会社にて、利用しなくなったリゾート物件があれば、利用できる物件への乗り換えや、単純に売却処分(買取)も承ります。
メディカル&リゾート・エステート株式会社は単にリゾート物件の仲介や売買をするのではなく、廃墟化・老朽化・衰退化した物件の再生や運用など資産の有効活用を基本とし、より美しく楽しく夢のあるリゾート物件であることをベースに業界再生を目指していきます。
メディカル&リゾート・ソリューション株式会社による買取りの条件について
http://mrs-japan-estate.jp/d-mansion
1、 買い取り対象のリゾートマンション
① 全国(北海道~沖縄まで)の物件を買取します。
②ハワイなど海外の一部物件も買取します。
③流通性が極めて乏しい物件でも買取します。
④昭和40年代竣工の老朽化した物件でも買取します。
⑤廃墟化した物件でも買取できる物件があります。
2、買取りに掛かる費用について
①取得費用
通常の不動産取引では、取得費用については買主が負担となるのが通例ですが、弊社による買取りでは、その費用(移転登記費用・不動産取得税など)の相応額全額を売り主様にご負担いただきます。
②維持費
通常の不動産取引では、取得後の維持費は当然に買主が負担していきますが、弊社による買取りでは、その費用(管理費・修繕積立金・固定資産税など)の1年~3年相応額を売り主様にご負担いただきます。
リゾートマンションの相場をインターネット等で調べると、容易にその物件価格が確認できますが、その価格のほとんどは、実態相場ではなく、売り主及び仲介業者の希望価格であり表面相場ともいいます。売却希望者は売買の交渉にあたり、まずは希望価格からスタートし、交渉に応じて減額していきます。
実際の売買価格は、概ね表面価格の半値八掛けです。仮に、500万円の希望価格であっても、実態価格が200万円以下になること珍しくありません。さらに仲介業者(不動産業者)は、流通性が乏しく、かつその売買価格が低額の場合は、手数料も少額となり、商いとしては採算が取れないために、仲介の依頼は受け付けても、1年どころか3年・5年~待っても売れないというのが現実です。
場合によっては、費用を負担してもよいから手放したいというニーズが近年は顕著に増加しています。このような現状を考えると上記の条件は、買主(弊社)の都合のよい条件ばかりとも言えません。売主様の立場に立って考えれば、使用しなくなったマンションであっても。
①維持費(概ね年間30万円~100万円)を支払いしなければならい。
②大規模修繕費用の支払いをしなければならない。
③将来の取り壊し費用分担金の支払いをしなければならない。
④誰が相続するのか、また相続にかかる費用の支払いをしなければならない。
そうなると、過去売れなかった事実を踏まえて、将来を予測した場合、利用しないにもかかわらず、その維持費の負担は高額になります。ならば、一時的に費用は必要だけれど、現時点で処分(弊社による買取)したほうが良いという結論も売主様にとってのメリットも大きく、検討に値すると考えております。
流通市場で動きのある物件であれば、高価買取、全国の物件買取強化中です。
直ちに処分の、ご希望があれば・・・買取査定でお申し込みいただけます。
http://mrs-japan-estate.jp/d-mansion
ファミール・ヴィラ苗場の掲示板
http://6030.teacup.com/fvnaeba/bbs
Re: 名簿流出していませんか? 投稿者:406号室 投稿日:2017年 3月18日(土)01時39分49秒
taityoさんへのお返事です。
いつも情報ありがとうございます。
> 最近、リゾートマンション処理業者から手紙が来るようになりました。
> 管理組合、もしくは管理会社しか知り得ない個人情報が記されています。
> ちょっと心配しています。
それは、1月配布の総会議事録と共に、「リゾートマンション買い取り業者に関するご注意」を配布しているものの内容と関係した業者と思います。
会員権なども扱っているようですが、ダイヤモンドソサエティ
http://www.diamond-s.co.jp/company/about/index.html
では、相手名を挙げて、注意喚起の文書を出しています。
『緊急のお知らせ
オーナー各位におかれましては、時下益々ご清祥の事とお慶び申し上げます。
また平素は各ソサエティおよび弊社の運営に対し、格別のご厚情を賜りまして、心より厚
く御礼申し上げます。
さて、先般来下記の会社よりソサエティオーナー各位に対し、高額な会員権処分費用等
が列挙された上に、自社の運営する会員組織への入会を提案する文書等が送り付けられて
いる旨、複数のオーナー様よりお問い合わせ等を頂戴しております。
その書面の骨子は、会員の権利の買取りと交換の提案ですが、2つの提案のいずれもが、
会員各位が会員の権利を上記会社に売却するに当り60万円近い金額を上記会社に支払うと
いう内容です。つまり、不動産の持分を移転するのに、そのような多額の処分費用がいる
という非常に不条理な話であります。特に移転登記費用(通常の不動産売買では買主側が
支払う)や権利移転後の年会費(管理費)まで売主に負担させるという内容は、常識に外
れた内容であります。
弊社と致しましては、お問い合わせを頂戴したオーナー様へ個別にご説明申し上げた上、
充分にご注意いただくようご案内を申し上げる一方で、業界団体の一般社団法人日本リゾ
ートクラブ協会へも事態を報告したところ、同協会にも加盟各社から同様の申し出がある
ため、各社に対しては注意を促しつつ、目下その対処法につき同協会顧問の弁護士へ相談
しているとの事でした。
しかしながら、ここ最近になりオーナー各位からのお問い合わせが急増している事から、
弊社と致しましては事態をより重く受け止め、従前来のホームページにおけるお知らせに
加え、オーナー各位がこのような文書に惑わされる事のないよう、改めまして注意喚起を
させていただく次第です。
記
対象の会社:メディカル&リゾート・ソリューション株式会社
(本社:大阪府吹田市。他に東京,札幌に営業所等があります)
以 上 』
http://www.diamond-s.co.jp/pdf/1609_info.pdf
>その書面骨子は、会員の権利買取りと交換提案ですが、2つの提案いずれもが、会員各位が会員の権利を上記会社に売却するに当り60万円近い金額を上記会社に支払うという内容です。つまり、不動産の持分を移転するに、そのような多額処分費用がいるという非常に不条理な話であります。……
うちの管理会社の情報によると、買い取り後も、所有権移転や名義変更がなされず、結果的に旧オーナーが継続して管理費を支払うことになるなどの例もあるようです。
怪しい手紙などは、スキャンして、管理会社へのお問い合わせフォームから、画像添付等で情報提供していただくとありがたいと思います。
また、このような業者は、各地で似たようなことを行っていますから、特にうちの管理組合で、情報流出したということは、ないと思います。
その証拠として、たまたま私は自宅を転居しているのですが、苗場の方は、登記名義人住所変更登記をしていません。ですから、そうした類いのダイレクトメール等は、一切来ないのです。
大抵の場合、そういう業者は、登記簿を閲覧して所有者情報を得ていて、それは、防げないのです。
いずれにしろ、うちの場合は、地元の仲介業者さんが確実な仕事をしてくれるので、転売等でも心配ないと思いますが、処分に困っているようなところでは、こうした悪徳業者に引っかかってしまう例もあって、こうした事象が発生しているものと思います。
http://blog.goo.ne.jp/fv-naeba
-
3
777
苗場にリゾートマンションを買ってもスキーはできない?
苗場地区のスキー場は
ゲレンデ廃止 : 三国スキー場、二居スキー場、浅貝ゲレンデ、浅貝の隣のファミリーゲレンデ、白樺平ゲレンデ
リフト運行中止: 苗場スキー場内のリフトは半分廃止
苗場スキー場は元々傾斜がきつく、初心者は一番下でしか滑れなかったのですが、
・最近は初心者用コースは中国人が占拠
・初心者がその上までリフトで上がっても傾斜がきつ過ぎてスキーでは降りてこれない
Re 苗場地区の将来は? 投稿者:タワー引退者 投稿日:2016年 8月31日(水)12時22分29秒
私は苗場スキー場に絶望してタワーを売却しました。
毎年いるとわかるのですが、経営が傾斜した時から、
・コースの廃止(火打ゲレンデはかなりコース廃止されましたね)
・コース整備の手抜き(コースは存在しても滑れない。大斜面も迂回くねくねが存在して、初中級者でも上から下まで何とか降りてこれたはず)、
・ロープウェイ・ゴンドラがすぐに運休(強風とか視界不良とかの理由ですぐ1日運休する)
・平日はさらにコースも縮小
・プリンスホテル内の店が穴あき状態(行くと営業してないとか)
・プリンスホテル自体が季節営業に以降(今は夏はやっているようですが、冬しか営業せず)
など、スキー場としてまともではなくなりました。
子供と外国人だけ相手して、下の方で滑ってろと言わんばかり。
子どももちょっと滑れるようになると、満足せず田代や湯沢まで遠征してました。
さらにスキーシーズン以外で営業していたゴルフ場も廃止されましたしね。
プリンスホテルだけのせいにするつもりは無いです。
地元も浅貝ゲレンデもM選手の仲間内だけでの営業(レストハウスで仲間内だけでの盛り上がりで営業しているのかどうかもわかず、地元のホテル・ペンションとの連携もなし)で、M選手がスキー選手のせいかスノボパークもなくなり、地元もやる気なし(浅貝と温泉のセットでもやればいいのに)
タワーは気に入ってたのですが、手放しました。
苗場は温暖化で雪質も悪くなり、さらに奥の三国スキー場があれば雪質の良さは多分売りになると思うんですけど、地元もこうじゃ難しんでしょうね。残念です。
http://8601.teacup.com/naebatower/bbs/983
“苗プリよ! 頑張る気はあるのかい?”
アラフォー以上の世代には特別な存在に感じる方も多い苗プリ。
当時は私もだいぶ通いました。
その後も何度か泊まっていますが、先日6、7年ぶりに宿泊しました。
今回はとてもお得なパックがあって急遽苗プリに久々行ってみるかーっとなったのですが、結果はタイトル通り、昔の巨大リゾート苗プリ時代の遺産を食いつぶしているような印象。
立地、知名度、施設、客層全てを手に入れてるだけに、本気でやったらもっと素敵な施設として今も1位で有り続けられるだろうに・・・残念です。
ゲレンデ。
まー言わずもがなの苗場ですが、相変わらずゴンドラ上は滑りにくいので中上級限定、下の方はだらーっと初級コースが横に広がっています。
なにより今回ショックだったのは、リフトが止まりまくっていて動いていない。
ゴンドラも2本のうち1本のみの営業。
初日は苗場で滑りましたが二日目は田代へ行きました。
すっごく利用客が多いので初級コースは平日でも大混雑。
賑わってるのはありがたいですが、じゃあリフト動かしてよって感じです。
ゴンドラで上がっても初級者が迂回コースで降りられれば、ばらけるのでしょうけど。上にはいけないから下に溜まる。
中間のコブ、非圧雪バーンはほとんど人がいないって感じ。
施設。
宿泊は4号館のツイン部屋。
ソファーベットを使えば3人もOKなタイプなので、狭小ほどではなく、許せる範囲の広さです。ただプリンスは基本狭いので、他のホテルに慣れてるとちょっとねえ。今時ベッド幅がシングルサイズ、長さもむかしのタイプなので短め。硬いスプリング式。空調は壁付のメモリを動かすタイプ。これ最近の若者使い方知らないんじゃない?という旧式。冬は暖房のみです。ユニットバスタイプで洗面台は外に出てます。
アメニティ?
聞いちゃあいけません。いたって普通です。
ここまでは、まーねええという印象ですが、掃除、メンテがひどい。
壁紙が至るところ破れています。汚れてるではなく、破れたままです。
部屋の中だけでなく、廊下やレストラン、ロッカーなどあちこちがそんな状態。
特に苗場温泉の大浴場の脱衣所はひどかった。苗場は巨大ホテルなので、どの部屋に泊まるかで状況も変わるでしょうが、いわゆる大浴場が有料の小さな内風呂1箇所のみ。露天もありますが、3月は土日しかやってませんって!
おいおい。こんなデカイホテルにただでさえも大浴場が少ないのになぜ平日やらないという発想になるのか・・・・
次はレストラン。
何件ものレストランがあります。
繁盛期はお客さんが大量にいるので予約殺到大混雑ですが、平日なのでそこそこでした。
どこも夕食は5500円くらいから。居酒屋風の店や単品の定食なんかは1000円ちょっとで食べられるものもあります。ピザハットが一番安いのかな?まープリンスなので割高ではありますが、選べるくらいの食事処はあります。プリンスといえば昔から中華のイメージなので中華を選択。店内の雰囲気も落ち着いていて美味しかったですよ。
昼食のレストランはアゼリアでしたがメニューを工夫していたり華やかなバブル時代風?苗場らしさを感じさせてくれました。
次はソフト面。
スタッフの対応は・・・・超大型ホテルなのでまーホスピタリティなんて言葉はありません。てきぱきと対応することを第一目標に置いてる接客です。
クロークのお姉さんは荷物はロッカーに入れて下さい。とかなり上から目線。
フロントは必要最低限の説明でさばく。
レストランのスタッフは割と感じよかったですが。
一番良かったのは苗場浴場のおばちゃま。唯一温かい笑顔と元気な声かけ、懸命にお掃除してくれてました。
客層は 若者がとにかく多くてテンションが高い。若い人が沢山来てくれるのはありがたいですので、いいことですが、渋谷や池袋を歩くときのようなストレスが伴います。
あとは3世代などのファミリー層。この客層にはとっても向いているホテルですね。
ゲレンデ目の前の部屋から孫が滑る姿を眺められますし、レストランやカフェもありますので過ごしやすいでしょう。おじいちゃん世代も苗場ならどんなところか知っていますしね。そういった常連さんらしきファミリーが沢山いました。
滞在した結果の感想は、なんか疲れたね。という一言がつい出ました。
イライラするのは覚悟して行きましたが、やっぱり疲れました。
総合的に、苗場人気は健在なようで良かったですが、ホテル側に努力は見られません。
壁紙の破れなんて他の旅館やホテルなら悪評が沢山ですよね。
料金も通常期は決してお安くないし。
巨大リゾートも最近は北海道のリゾートホテルに慣れてしまってるので感動はないし、小さな子供や年配な方や休みが取れなくて北海道はいけないという方にはいいかもしれませんが、わざわざ苗プリに泊まる理由は感じられませんでした。
ホテル側がお客様に喜んでもらいたいという気持ちを持ってくれれば、素敵なリゾートして君臨し続けられるのではないかと思いますが・・・
やはり苗プリがなくなってしまったら寂しいですからね。頑張って欲しいです。
でも当分行きませんw
2015年 3月に、カップルで訪問(体験)
https://www.tripadvisor.jp/ShowUserReviews-g1119245-d301350-r260646159...
-
4
777
買い手が見つからないスラム化したリゾートマンションを処分する方法は?
真偽はわかりませんが掲示板でこういうのを見つけました:
60 :名無しさん@ゲレンデいっぱい。:2015/08/18(火) 19:40:34.93
リゾートマンションなんて買うと後悔するぞ。
何が困るって、管理費/共益費/修繕積立費、それに将来の建て替え費用が出てくる場合も。
年に半分ぐらい、そっちに住むならまだしも冬に時々行くぐらいなら
普通にホテルに泊まったほうがよっぽど良い。
64 :名無しさん@ゲレンデいっぱい。:2015/08/18(火) 19:47:57.72
>>60
賃貸にすればそれらのリスクは全て回避可能。
家賃なんて家族が余裕を持って過ごせる広さでも5~7万円だから、月に1~2泊するならホテルより全然お得。
ホテルより部屋は広いし温泉は空いてるし、何より荷物を置きっぱなしにできる。
66 :名無しさん@ゲレンデいっぱい。:2015/08/18(火) 19:49:28.0
湯沢は新幹線があるから、ここにすんで時々東京に新幹線でいけばいいや、くらいの人もいるからね
でも、調べると、せめて300万で眺望のいい角部屋とか買っておかないと
あとでババ抜きのババ状態で永久に手放せない
やるとしたら、ダミー会社たちあげてその名義だね
最後捨てるときは、管理費も固定資産税も、会社倒産手続きしてすべて終了。
246 :名無しさん@ゲレンデいっぱい。:2015/08/23(日) 15:16:08.82
リゾマンはただの消費財じゃなくて、維持費が掛かるのに捨てられない(売れない)消費財だから性質が悪い。
満足できる物件が賃貸で出ているなら、賃貸のほうがいいと思うけどな。
自分から進んでババ抜きに参加したくない。
249 :名無しさん@ゲレンデいっぱい。:2015/08/24(月) 03:36:48.83
>>246
知識なさすぎ。
高齢で財産ない人に譲渡する、ダミー法人作って偽装売却する、
無限に方法あります。
捨てるのは簡単だよ
今現在管理費滞納して放置されているのは、その人(法人)自体が実質的に破産、夜逃げ状態で、もう終わっているケース。
まだ本人元気なら、「切り捨て」は極めて簡単。
75 :名無しさん@ゲレンデいっぱい。:2015/08/18(火) 20:17:42.00
利便性考えると、湯沢でしょうが、永住老人が居ないという意味では苗場もいいかもね。
ただし、夏いったことある人はわかっているだろうけど、フジロック以外は、完全なゴーストタウン
寂しいを通り越して、恐怖を感じる
千と千尋の神隠しみたいな感じ
82 :名無しさん@ゲレンデいっぱい。:2015/08/18(火) 20:27:56.31
ぶっちゃけ、苗場はスラム化へのカウントダウンが始まっているけど、
あと何年もつか、それだけが問題。
仮に3年もつとして、ガンガン使いまくって捨てるなら、損はない
「財産」なんて考えると大間違い。使って捨てるティッシュペーパーみたいなもの
あと、スラム化して、どうなるかだね。
仕事場がないから、アジア系外国人の犯罪の温床にはならないでしょう
どちらかというと、地元民の普通のマンション化か、それとも老人ホームか。
ご近所つきあいとかしてしまうと、怪我、病気で車運転できない老人の介護、買い出しやらされるから、 絶対に近所つきあいはやってはいけないね。可愛そうだけど、高齢者がいたら完全無視。これを貫く。
86 :名無しさん@ゲレンデいっぱい。:2015/08/18(火) 20:39:13.89
>>82
いくらなんでも3年はもつでしょ。
維持のモチベーション以外はw
使い捨てられるといいんだけど、投げ捨て禁止だからなあ。
91 :名無しさん@ゲレンデいっぱい。:2015/08/18(火) 20:50:15.92
>>86
個人名義で買うのは危険すぎ。
3年であぼんと予測したなら、やっぱり法人ダミーで最悪倒産手続き
http://hayabusa6.2ch.net/test/read.cgi/ski/1434758230/
-
5
777
日本人はこの映画を見て、そして島村のモデルが川端康成自身である事を知って、湯沢の事を買い被ってしまったんですね:
映画「雪国」1957 動画
豊田四郎/監督
川端康成/原作
出演: 池部良, 岸恵子, 八千草薫, 森繁久彌
http://www.bilibili.com/video/av8295567/
http://freemovie.nekomoe.net/2017/0130211343.html
一夜一話 - 映画「雪国」 1957年 監督:豊田四郎 出演:岸惠子、池部良
原作が川端康成の「雪国」だからといって、文学作品拝読の構えで観ると損をする。
芸者・駒子を演ずる岸惠子が、思いの外に色っぽいと読み解けたら、この映画、一段と面白くなる。セックスシーンこそ無いが、島村(池部良)を前にした駒子は可愛く濡れている。
画家の端くれと言う島村は、この雪国にスケッチのため、一人東京からやって来た。そして宿で芸者の駒子と出会う。出会ってすぐに互いの心はひとつとなった。そんなふたりの気配が部屋に満ちる様子を、酒を持ってきた宿の女中役・浪花千栄子が的確に演じてみせる。
翌日の夜、宿の大広間の宴会は地元の芸者衆で盛り上がっていた。助っ人の駒子は酔っぱらっている。酔わないと島村の部屋に行く勇気が出ない。そんな一方的な熱い心を抱えて駒子は宴会を抜け出し島村の寝ている部屋へ入った。そこでのふたりのやり取りは、この映画で一二の見せ場だ。大胆な一方でその気持ちを自身の心の内に引きもどす駒子と、小悪魔的魅惑に翻弄されていく受け身な島村。そしてふたりは夜明けを迎えた。
そんな回想シーンを懐かしく思い返すふたりは、年の瀬迫る炬燵に入っている。そのうち島村が、「風呂に入ってくる」と、ひとり廊下を伝い脱衣所で帯を解こうとするその時、後ろから突然に駒子が、「あたしも入る」と言うやいなや帯を解き始める。驚く島村。風呂に入ってからの駒子も艶めかしい。
初めて島村がここを訪れた時に、山で取って来たアケビを部屋の花瓶に生けるが、初対面の駒子がこのアケビの実を少し食べる。このアケビの実の隠喩・・・。またそのあと、紅が付いた盃を美しいと言い、それを厭わず口紅が付いたままの盃で駒子の酌を受ける島村、その態度にドギマギする駒子。ことほどさようにこの映画には、そんな色っぽいシーンがある。
ところが、「あんたなんか、東京へ帰っちゃいなさい」と駒子はたびたび島村に言う。年に一度の逢瀬。ふたりの愛は結ばれない。島村は東京に妻がいる。駒子の事はばれている。
だが、「雪国」は島村と駒子の愛を描くだけではない。
駒子と年下の葉子(八千草薫)は、それぞれ貧しい農家の子であったが、共に三味のお師匠の養女として育てられた。
その後、駒子は芸者見習いから芸者となり、年配の旦那を持つ身となった。それは年老いてしまった養母と病を患うその息子の行男を養うため。養母と行男が住む家も、旦那の世話によるものだった。背負うものが多い駒子であった。
幼なじみの行男は駒子のことが好きだったが、駒子はそうでもなく、むしろ密かにだが葉子の方が彼を愛していた。だから葉子は駒子を憎んでいた。島村を駒子から奪ってしまいたい、そんな邪念を葉子は抱くようになって行った。
駒子の妊娠と旦那からの離縁、芸者としての独り立ち、行男の容体悪化、火事と葉子の火傷、そして島村と駒子の別れ。島村は最後まで駒子に対する態度が煮え切らない。
岸惠子のぶりっ子なまでの艶めかしさ、池部良演ずる逡巡するつれない男、絶たない逃げ道。
脇役では、宿の女中役の浪花千栄子がダントツに光る。田舎芸者を演ずる市原悦子と島村のシーンは喜劇だ。また、盲目の按摩マッサージ指圧師を演ずる千石規子が、なにやら異彩を放つのに魅かれる。最後に、音楽担当の芥川也寸志が、欧米映画音楽の弦楽をよく勉強しているのが聴ける。
監督:豊田四郎|1957年|133分|
原作:川端康成|脚色:八住利雄|撮影:安本淳|音楽:芥川也寸志|
出演:
島村(池部良)
駒子(岸惠子)
葉子(八千草薫)
葉子の弟・佐一郎(久保明)|師匠(三好栄子)|その息子・行男(中村彰)|宿の女中おたつ(浪花千栄子)|同じく・おりん(春江ふかみ)|同じく・おとり(水の也清美)|宿の主人(加東大介)|宿のお内儀(東郷晴子)|県会議員・伊村(森繁久彌)|駒子の母(浦辺粂子)|番頭(東野英治郎)|万吉(多々良純)|女給・花枝(中田康子)|芸者・菊勇(万代峯子)|同じく・勘平(市原悦子)|駅長(若宮忠三郎)|女按摩(千石規子)|宿の女中きみ子(加藤純子)|小千谷の番頭(桜井巨郎)|
http://odakyuensen.blog.fc2.com/blog-entry-1257.html
Amazon 雪国 [DVD] 池部良 (出演), 岸恵子 (出演), 豊田四郎 (監督) カスタマーレビュー
思わず、これが同じ日本なのか?!と目を見張った逸品 投稿者 へいたらう 投稿日 2007/11/5
この作品は、言うまでもなく、ノーベル賞作家・川端康成の名作を映画化したものだが、大家が描く男女の心の機微よりも、むしろ、私には昭和初期の習俗を余すことなく映し出したことの方が印象深かった。
即ち、「同じ日本なのか?!」とさえ思わせられるほどに衝撃的であると同時に、新鮮でもあったのである。
見上げるほどに降り積もった雪。
その雪の中に、多くの人たちが暮らし、多くの子供たちが、見たこともない祭りに興じている。
その一方で、男がふらりと田舎町の宿屋に宿泊すれば、いきなり、「芸者を呼んでくれ」と言って普通に女を抱けるという現実と、自分の想いとは別に、生きていくためには心を切り離さねばならないヒロインの現実・・・。
作品自体は、後半、少々、間延びしたような観がなきにしもあらずだったが、それらの悲哀を余すことなく描きったという点では十分に堪能できたように思う。
配役陣という点では、何と言っても大女優・岸恵子の、「可愛い」駒子役が圧巻であったろう。
役柄、酔っぱらう姿が多かったが、本当に酔っぱらっているようにしか見えなかったし、自分の感情と、どうにもならない現実との間で身を焦がす姿も他の女優とはひと味もふた味も違うものがあったように思う。
島村役は池部良でも佐田啓二でも大差なかったかもしれないが、岸恵子の駒子役だけは、圧巻であったように思える所以である。
__
駒子役の岸恵子の演技力が光る最高の名作
投稿者 島村 良 投稿日 2008/1/18
この作品は日本映画史上屈指の名作であると思う。
出演者は言うまでもなく、監督、脚本、映像、音楽等全てがすばらしい。
その中でも特筆すべきは、やはり駒子役の岸恵子の存在感であろう。
駒子は実はなかなかに演じるのが難しいキャラクターの持ち主。
芸者に出るような身でありながら純粋さを失わない可愛い女だが、感情の起伏の激しさ、情の深さ、時に見せる弱さ、嫉妬心、そういうものを複雑に併せ持つ女性である。
岸恵子はその駒子が到底成就するはずもない恋に身をやつす様を、これ以上ないと思えるほどの卓越した演技力で見せてくれているのだ。
小説を映画化し、多くの人の賛意を得るのはとても難しいことだと思う。
前もって本を読んでいた人々には、それぞれにその作品に対する強いイメージが心に焼き付いているものだ。だから他人の手によって映画化されたものには、たいていの場合失望感を持つケースがほとんどであるだろう。しかしながらこの作品はそういった違和感なりを遠くへふっとばしてしまうほどの圧倒的な臨場感をもって我々の心に迫ってくる。
島村役の池部良、葉子役の八千草薫他脇役陣もそれぞれにその役柄に応じた最高の演技である。又、白黒の映像が雪という幽玄な世界をより魅力的なものにさせている。なかでも鳥追い祭りの雪と火が織り成すシーンは、来るはずであった島村に裏切られた駒子の哀しくしかし美しい表情ともあいまって芸術作品を見るかのごとくである。さらに全編を流れる團伊玖磨の音楽はあたかもハリウッド映画のそれを思わすすばらしい効果をあげている。
しかしながら何といっても最高なのは「岸恵子の駒子」である。もとより大女優だけに数多くの作品に出演してはいるが、これがおそらくベストパフォーマンスだと個人的には確信している。彼女を超える駒子役はおそらくもう出ないことだろう。50年ほど前の映画だが、その演技にまったく古くささは感じない。現代を生きる若い方々にも是非見てもらいたいと思う。
きっとその魅力が時代を超えて伝わってくることだろう。
ただひとつ残念に思ったのは、切なく美しいラストシーンの直前の場面、火事で顔に醜い火傷を負った葉子の顔のアップ(一瞬ではあるが・・)を見せる必要があったのかどうか。
せめて包帯を巻くとか何とかできなかったものか、この映画をTVで始めて見た高校3年のときにはその悲惨さがショックでなかなか寝つかれなかったことを思いだす。
それがあるために、ラストのやや重苦しい感動が、必要以上にその度合いを増してしまったように思うのは私だけであろうか。
https://www.amazon.co.jp/%E9%9B%AA%E5%9B%BD-DVD-%E6%B1%A0%E9%83%A8%E8%...
-
6
777
日本最悪の温泉 湯沢
客観的に判断すると
スキーをやりたいなら白馬、志賀高原かニセコ、富良野
風光明媚な所なら山中湖、軽井沢・菅平か蓼科・八ヶ岳
温泉なら草津、北海道の川湯温泉かニセコ
街の雰囲気や洗練度では軽井沢か湯布院
食べ物が美味しい所なら北海道
海が見たいなら伊豆、白浜か沖縄
東京に近い温泉地なら熱海か箱根
湯沢に人気が無いのは
温泉最悪、風景全然ダメ、街並みのセンス最悪、雪質平凡、食べ物平凡
でマンション価格が安い以外には良い所が一つも無いからなのですね。
何でそんな何の取り得も無い所に高層の大型リゾートマンションを 58棟も建てまくったかというと、湯沢は川端康成の『雪国』のお蔭で有名になっていたので何か勘違いしてしまったんでしょう。
『雪国』というのは、名も無い場末の田舎町で働く訳有り田舎芸者(今のピンク・コンパニオンに相当)と川端康成との情痴関係を描いた私小説 (小説の細部もノンフィクションに近かったので関係者を激怒させた様ですね)
『雪国』の中にはそもそも湯沢という地名自体が全く出てきません。
川端康成自体、雪国が売れて儲けた金で軽井沢に別荘を建てた位ですから、湯沢はちっぽけな共同浴場が一つ有るだけの何の取り得もない場末の田舎町としか認識していなかったのですね。
当時の文学者は伊香保、水上温泉や法師温泉には良く行っていても、湯沢温泉はその名前すら聞いた事もなかったのです。
_______
愛のゆくえ 「雪国」 - 魔界の住人・川端康成 森本穫の部屋
愛のゆくえ「雪国」その1
越後湯沢へ
1932、3年(昭和7,8年)ころ、川端康成はしばしば上州(群馬県)の温泉へ原稿を書きに行っていた。
その前、昭和6年には、直木三十五に連れられて、池谷信三郎と3人で、上州の法師温泉へも出かけている。
法師温泉は三国(みくに)峠の麓で、直木が特に好きな温泉だった。
その昭和6年には清水トンネルが開通し、越後がぐっと近くなった。
「雪国」を書く前私は水上(みなかみ)温泉へ幾度か原稿を書きに行つた。
水上の一つ手前の駅の上牧(かみもく)温泉にも行つた。(中略)水上か上牧にゐた時私は宿の人にすすめられて、
清水トンネルの向うの越後湯沢へ行つてみた。水上よりはよほど鄙(ひな)びてゐた。それからは湯沢へ多く行つた。
上越線で湯沢は越後の入口になつたが、清水トンネルの通る前は、三国越えはあつても、越後の奥とも言へたのである。
(「独影自命」6ノ2)
昭和9年6月初旬、康成は上牧温泉の大室旅館に滞在して原稿を書いていた。
6月8日附で群馬県利根郡桃野村(上越線上牧駅前)大室温泉旅館の康成から、東京下谷上野桜木町36の川端秀子に宛てた書簡が遺されている。
11日、12日には、同じく上牧駅前利根川向岸大室温泉旅館から秀子に手紙を出している。
11日の手紙には、「明日改造すめば、どこかへ遊びに行つて来る。ここは配達1回しかないので、まだ杉山の手紙を貰つただけ、さつぱり様子分らず閉口だ。/文学界はどうかしらん。」と書いてある。
原稿に追われつづけ、ここらで「どこかへ遊びに行つて」心身の回復をはかりたかったのだろう。また上牧の郵便事情の不便なことをも嘆いている。
12日のには、「新潮と文藝7月号送れ、/なぜ報告の手紙をよこさんのだ、馬鹿野郎、手がくさつたつて代筆されることも出来るだらう」と癇癪を起こしている。
改造の仕事で疲れ、気をまぎらす術なく、婆さんのやうな顔になつた。
これだつて、原稿受けとり、改造に渡し、間に合つたと、電報でもくれたら、どれだけ安心して、仕事疲れの翌日が眠れるかしれん、僅か30銭ですむぢやないか。
それくらゐの心は配れ。
と、八つ当たり気味の手紙である。疲れてもいたのだろう。
そのころは、車掌にチップを出して鉄道便の上野駅止めで原稿を送り、秀子に電報を打って上野駅で受け取らせ、出版社に直接持参させていたようだ。
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/38bdc6f0c695da88fc77ee638f489c...
愛のゆくえ 「雪国」その2
越後湯沢の初印象
6月14日附(づけ)で新潟県南魚沼(みなみうおぬま)郡越後湯沢高半(たかはん)旅館より上野桜木町36の秀子に宛てた書簡(15)は、冒頭に、越後湯沢の印象が書いてある。
文学界の原稿を出しかたがた、水上駅に来たついで、一休みに、清水トンネルを越え、越後湯沢に来た。戸数四百ばかりの村、湯の宿も13,4あり、水上のやうになにか肌あらいところなく、古びてゐてよい。この宿は部屋も40ある。
この旅館が越後湯沢随一の、主人が代々高橋半左衛門を名のる高(たか)半(はん)旅館である。
康成はこの宿が気に入ったのだろう、こののちずっと、この宿を定宿とすることになる。
ちなみに、康成に与えられた部屋は、清水トンネル開通のあと、新築された「長生閣」の二階「かすみの間」である。「雪国」作中では、「椿の間」として描かれる。
なお14日附の秀子宛て書簡15は長いもので、途中「13日 康成」と記したあとに、翌朝書き加えた文言がある。
つまり、康成が初めて湯沢に来たのは6月13日、翌14日に書簡を投函したことが明かとなる。
このことは、当時、中央公論の編集者であった藤田圭雄(たまを)宛ての書簡にも明記してある。煩雑になるが資料として貴重なので、引用しておこう。
第4次37巻本『川端康成全集』補巻2(新潮社、1984・5・20)の藤田宛て書簡1(昭和9年6月14日附 新潟県魚沼郡湯沢温泉高半旅館より東京麹町(こうじまち)丸の内ビルヂング中央公論編輯部宛て)
拝啓、
水上の1つ手前の駅の大室温泉に1週間ほど滞在の後、今日清水トンネルを越えて越後湯沢に参りました。古ぼけた村です。でもこの宿は客室が40ばかりもあります。(中略)21日頃までここに滞在いたします。(以下略)
14日 川端康成
藤田圭造(ママ)様(正しくは、藤田圭雄)
この書簡の日付が14日となっているのは、到着の翌14日に大室温泉に荷物をとりに戻り、14日にあらためて高半旅館に腰を落ち着けたからであろう。すなわち、康成が初めて越後湯沢に来たのは、1934(昭和9)年6月13日、腰を落ち着けたのが翌14日と確定してよいだろう。
ちなみに、この点はつとに平山三男が「雪国」論(『川端康成 作家・作品シリーズ6』東京書籍、1979・4・日付記載なし)において指摘している。
この気晴らしの旅で、康成はひとりの女とゆくりなくもめぐり逢い、もう1度その女に逢いにゆくために、その年の12月初旬、今度は上野から汽車に乗って越後湯沢の駅に降りた。
やはり夫人宛て書簡によって、それが12月6日のことであるとわかる。
康成はこの宿に籠もって、『文藝春秋』と『改造』の新年号2つの原稿を書く予定であった。もっとも、このとき、何を書くか、内容は、まったく頭の中になかった。ただ、6月の旅でめぐり逢った女と再会すれば、何か書く材料ができるだろうという、ぼんやりした期待があるばかりだったろう。
「雪国」初出(はじめて雑誌に発表されたもの)
「雪国」が昭和9年末から書き始められ、いろいろな雑誌に分載されて、最初に創元社から昭和12)年6月12日に刊行され(旧版『雪国』)、それからさらに書きつがれて、戦後の1948(昭和23)年12月25日に、あらためて同じく創元社から刊行され、これが〈決定版『雪国』〉と呼ばれていることは、よく知られている。
その後、20年あまりたって、すこし手を加えられて、1971(昭和46)年8月15日、牧羊社から『定本雪国』が刊行された。
康成が、これを『定本』にすると宣言し、以降、新潮社の第3次全集、第4次全集も、また新潮文庫103版以降も、この牧羊社版を底本にしていることは、平山三男の指摘によって、よく知られているとおりである。
しかしやはり重要なのは、初出としてあちこちに分載された文章が、大幅に手を入れられて昭和12年の創元社版、あるいは昭和23年の決定版になった、その経過である。
そこに、『雪国』にこめた康成の渾身の努力が刻印されているからである。
さて、その最初の分載が「夕景色の鏡」と「白い朝の鏡」であることも、読者はよく御存知のことであろう。康成は、この2作のできた由来を、〈決定版『雪国』〉の「あとがき」で語っている。
「雪国」は昭和9年から12年までの4年間に書いた。(中略)
はじめは「文藝春秋」昭和10年1月号に40枚ほどの短篇として書くつもり、その短篇1つでこの材料は片づくはずが、「文藝春秋」の締切に終わりまで書ききれなかつたために、同月号だが締切の数日おそい「改造」にその続きを書き継ぐことになり、この材料を扱う日数の加はるにつれて、余情が後日にのこり、初めのつもりとはちがつたものになつたのである。
このことばを裏づけるように、1934(昭和9)年12月7日附で上越線越後湯沢高半旅館より秀子に出した書簡には、
斎藤君(注、『文藝春秋』の記者)は9日中にくれといふ。やはり正月で校了が2日早い由、9日は日曜。9日の汽車で全部送れるといいが、10日にまたがるだらう。(中略)
もつとも何枚かけるかまだ分らぬが。
しつかりした材料を持つて来ず、例によつて、夢のやうなつくりごとなるが厭(いや)である。 (補巻2の21)
とあり、さらに10日の書簡には、次のような一節がある。
文藝春秋の小説は書き切れず尻切れとんぼ。
(10日夕方の)今から改造にかかる。
綱渡りのような、あやうい売文生活をつづけていたのである。もっとも、補巻に収められた書簡を見ると、このころの康成には『モダン日本』『婦人倶楽部』『若草』『行動』『中外新報』『中央公論』などから注文が殺到していて、それを1つ1つこなしてゆくのは、並大抵のことではなかっただろう。
――このような状況で初出「夕景色の鏡」は書かれた。
よく知られているように、第1作「夕景色の鏡」の冒頭は、現在の「雪国」の有名な文章とは異なっていた。
濡れた髪を指でさはつた。――その触覚をなによりも覚えてゐる。その一つだけがなまなましく思ひ出されると、島村は女に告げたくて、汽車に乗つた旅であつた。
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/1ff09e0b54d8d44a456a67455ef79b...
愛のゆくえ 「雪国」その3
連載第一回「夕景色の鏡」の冒頭
濡れた髪を指でさはつた。――その触覚をなによりも覚えてゐる。その1つだけがなまなましく思ひ出されると、島村は女に告げたくて、汽車に乗つた旅であつた。
この部分は〈決定版『雪国』〉では完全に消滅しているが、視点人物島村を雪国に導くものが何であったかを明確に語っている。それは女――駒子の思い出であり、それも単なる情緒的なものではなく、指の触覚というきわめて官能的なものであった。
冒頭では、指の触れたのは単に「髪」となっているが、少しあとに駒子の心理の説明として「まだ16,7の頃に、自分がどんなにいい女であるかを、男から噛んでふくめるやうに教へられ、その時はそれを喜ぶどころか、恥ぢるばかりだと……」とあることからも、それが駒子の肉体的な魅力を暗示していることは明らかである。
もっと具体的にいうと、島村が左指で覚えていたのは、のちに出て来る表現ではあるが、駒子の「みうちのあついひとところ」の生ま生ましい触感だったのである。
島村は駒子、というより駒子の肉体に再会しようとして、雪国に向かう汽車に乗った。そしてその車中で葉子に出会うのである。
もう三時間も前、島村は退屈まぎれに、彼を女のところへ引き寄せてゆくやうな、左手の〈人指指〉をいろいろに動かして眺めてみたり、鼻につけて匂ひを嗅いでみたりしてゐたが、ふとその〈指〉で窓ガラスに線を引くと、そこに女の片目から片頬がはつきり浮き出たのだつた。
(初出では、〈 〉の中は伏せ字になっている。)
この車窓の鏡に浮かび出た女が葉子であり、島村はやがて窓外の夕景色と二重写しになった葉子の顔の非現実な美しさに胸がふるえるのであるが、ここに短篇「夕景色の鏡」の意図はあらわになる。
すなわち、前の旅でなじんだ女との再会を胸に描いて官能の思い出の世界にただよっていた島村が、眼前に現出した「この世ならぬ象徴の世界」の美に陶然となるのである。〈官能的な世界〉と〈象徴的な美の世界〉が、ここでは鮮やかに対比されている。
康成の「はじめは……40枚の短篇として書くつもり」が、この対比を描くことであったことは、明かである。
はたして、『改造』新年号に発表されたのは、「白い朝の鏡」であった。「夕景色の鏡」と対比する意図はよく現れている。
ところがこの「白い朝の鏡」のなかに、その題名に相応する内容は登場してこないのである。
それが発表されるのは、それから10ヶ月もたった『日本評論』11月号に「物語」と題して発表された作品の末尾においてである。
第三回「徒労」
つづけて『日本評論』の12月号に「徒労」が発表されているのは、翌年の1935(昭和10)年の秋、蛾が卵を産みつける時期に10ヶ月ぶりに湯沢をおとずれた康成の身に、駒子のモデルとなる女性との再会があって、「余情」が深まるような出来事が生じたためであろう。
実際、作品の中で女が「駒子」と名づけられて登場するのは「徒労」からで、それまでは、単に「女」と呼ばれているに過ぎないのである。
1、2回の短篇で終わるはずだった素材が内容の濃いものとなり、続編を書き継ぐ意志の生じたことが、そのような変化をもたらしたといってもいいだろう。
これを裏づけるように、ずっとのちの1959年(昭和34年)になって、康成は「『雪国』の旅」と題するエッセイを発表していて、その中に、1935(昭和10)年秋の日記を公開している。
1935年(昭和10年)秋とは、「雪国」作中では、島村が3度めに湯沢をおとずれて、長い逗留をすることになっている。しかし現実の康成はこの昭和10年の秋、この湯沢で「物語」「徒労」を書いたのである。
そのときに、駒子のモデルとの濃い接触のあったことが、この日記に記されている。きわだったところだけを写す。なお、( )の中の説明は、康成が付したものである。
昭和10年9月30日
「少女倶楽部」、書き終る。1時55分の汽車で湯沢に行く。駒。(註、駒子が宿へ来たことである。)
10月1日
午前より宿の子供を部屋に呼ぶ。(註、「雪国」に書いてある。)3時過ぎ帰る。(註、駒子が。)
10月2日
朝、7時ごろに起される。(註、駒子が来て。)夜、駅まで行く、宴会の後で。
10月4日
西川博士よりレントゲン写真の結果の手紙。夜中11時に。(註、駒子が来る。)
10月5日
「讀賣(読売)」の原稿終り。10時より。(註、駒子が来る。)
十月十一日
「日本評論」のための「物語」(註、「雪国」の一部)、18枚で打切り、その原稿を送る。
このように、ほとんど毎日、駒子が時ならぬ時刻にやって来ている。そしてこれらの素材を康成は「雪国」作中に書きこんでいる。そういう、ただならぬ状況のなかで、「物語」は短いながら完成し、これを康成は『日本評論』に送っているのである。
「夕景色の鏡」
では、「雪国」最初の2つの短篇のなかでは、何が語られたのであろうか。
まず「夕景色の鏡」から見てゆくことにしよう。
「夕景色の鏡」では、冒頭の2行で、先ほど紹介したように、島村のこの旅が、その触感だけがなまなましく思い出されると女に告げたくて汽車に乗った旅であったことが書かれる。
ついで、
「あんた笑つてるわね。私を笑つてるわね。」
「笑つてやしない。」
「心の底で笑つてるでせう。今笑はなくつても、後できつと笑ふわ。」
と、最後までは拒み通せなかつたことを、その時女は枕を顔に抱きつけて泣いたのだつたけれども、彼はやはり水商売の女だつたと笑つて忘れるどころか、それがあつたために反つて、いつも女をまざまざと思ひ浮かべたくなるのだつた。
と、回想の核心部分が書かれる。それから、現在の「雪国」冒頭の原型にあたる1行が登場する。
国境のトンネルを抜けると窓の外の夜の底が白くなつた。信号所に汽車が止つた。
ちなみに、現行の「雪国」冒頭は、以下のようになっている。
国境の長いトンネルを抜けると雪国であつた。夜の底が白くなつた。信号所に汽車が止まつた。
そこから一転して現在の車中の光景となり、向こう側の座席から娘が立ってきて、島村の前のガラス窓を落して、身を乗り出し、駅長を呼ぶのである。
駅長の応える言葉で、この娘の名が葉子であることは、すぐ読者に伝えられる。
そのやうな、やがて雪に埋れる鉄道信号所に、葉子といふ娘の弟がこの冬から勤めてゐるのだと分ると、島村は一層彼女に物語めいた興味を増した。
こうして、娘が病人連れで、甲斐々々しく世話をしていること、もう3時間も前、窓ガラスに葉子が映って驚いたこと、それ以来彼がずっと鏡の中の彼女を注視していて、娘の顔に野山の火が重なったとき、胸がふるえたこと……と、この作品の頂点が記されるのである。
さうしてともし火は彼女の顔のなかを流れて通るのだつた。しかし彼女の顔を光り輝かせるやうなことはなかつた。冷く遠い光であつた。小さい瞬きのまはりをぽうつと明るくしながら、つまり娘の眼と火とが重つた瞬間、彼女の眼は夕闇の波間に浮ぶ、妖しく美しい夜光虫であつた。
半時間後、葉子達も島村と同じ駅に下りたので、彼はまたなにが起るかと自分にかかわりがあるかのようにやうにあわてたりするが、宿屋の客引きの番頭と出会って、「お師匠さんとこの娘はまだいるかい」と尋ねる。
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/9987e54b50d12c1dce54bc68a1d42a...
愛のゆくえ 「雪国」その4
再会
前に泊まった温泉宿に落ちついた島村は、内湯に行く。そして長い古びた廊下を部屋へ戻ってゆくとき、女と再会するのである。
その長いはづれの帳場の曲り角に、裾を黒光りの板の上へ冷え冷えと拡げて、女が立つて待つてゐた。
と(ママ)うとう芸者に出たのであらうかと、その裾を見てはつとしたけれども、こちらへ歩いて来るでもない、體のどこかを崩して迎へるしなを作るでもない、その立ち姿から、彼は遠目にも真面目なものを受け取つて、急いで来たが、女の傍(かたわら)に立つても黙つてゐた。(中略)
手紙も出さず、会ひにも来ず、踊の型の本など送るといふ約束も果さず、女からすれば笑つて忘れられたとしか思へないだらうから、先づ島村の方から詫びかいひわけを云はなければならない順序だつたが、顔を見ないで歩いてゐるうちにも、女は彼を責めるどころか、體いつぱいになつかしさを感じてゐることが知れるので、彼は尚更、どんなことを云つたにしても、その言葉は自分の方が不真面目だといふ響きしか持たぬだらうと思つて、なにか彼女に気押される甘い喜びにつつまれてゐたが、階段の下まで来ると、
「こいつが一番よく君を覚えてゐたよ。」と、人差指だけ伸した左手の握拳を、いきなり女の目の前に突きつけた。
女との再会は、このように印象的にはたされる。
しかし同時に、男の不誠実もまた、しっかり刻印される。
その不誠実を徹底するように、男は「こいつが一番よく君を覚えてゐたよ」と人差指を女の面前に突きだすのである。
だが女は怒らない。
「さう?」と、女は彼の指を握ると、そのまま手を離さないで手をひくやうに階段を上つて行つた。
そうして彼の部屋に来ると、女はさっと首まで赤くなって、それを誤魔化すためにあわてて彼の手を拾いながら、「これが覚えてゐてくれたの?」「右ぢやない、こつちだよ」と、女の掌の間から右手を抜いて、炬燵に入れると、改めて左の握拳を出した。彼女はすました顔で「ええ、分かつてるわ」と、ふふと含み笑いしながら、島村の掌を拡げて、その上に顔を押しあてるのである。
「ほう冷い。こんな冷い髪の毛初めてだ。」
「東京はまだ雪が降らないの?」
「君はあの時、ああ云つてたけれども、あれはやつぱり嘘だよ。さうでなければ、誰が年の暮にこんな寒いところへ来るものか。」
ここで文章は冒頭につながり、また、最初の出会いへと回想に移るきっかけとなるのだが、じつは、この前に、重要な記述が20行ばかり、初出にはあった。
女の體(からだ)の秘密
それは、たった1度の出会いで、女がどうしてこの男を忘れられないようになったか、という女の微妙な心理の説明である。
この心理の説明が消去されてしまった現在の「雪国」では、読者は、どうしてああも簡単に女が島村に恋心を抱いてしまったのか、理解できないのである。
初出で康成は、女の心の秘密を、こんなに克明に説明していた。
それではこの男も、私をほんたうに知つてくれたのだつたか、それにひかれて遙々来たのだつたか、どこを捜しても私のやうな女はさうゐないので忘れなかつたのかと、彼女はなんだか底寂しい喜びに誘ひこまれた。ほつと安心したやうな親しさで、心が男に寄り添つて行つた。許されたやうな思ひだつた。かういふ男は彼女にとつて逆らひ難い誘惑だつた。
と云つたところで、彼女はまだ水商売が身にしみてゐるわけでなし、多くの男を知つてゐるわけでもないが、まだ16、7の頃に、自分がどんなにいい女であるかを、男から噛んでふくめるやうに教へられ、その時はそれを喜ぶどころか、恥ぢるばかりだと、男はいよいよむきになつて褒めちぎつたので、やがて男の云ふことが彼女の頭の底に宿命のやうに沈みついてしまつたのだつた。
けれども、それが彼女自身ではつきりと分るやうになつた後まで、天刑をあばかれたやうな初めの悲しみは消え残つてゐるのだつた。余りに早く愛なくして知つたためであったらう。
島村といふ男は1週間も山登りをして来たほどで、よく整つた體はさう弱さうに見えなかつたけれど、肉附の色白い円みがいくらか女じみてゐるし、まして道楽した風はなく、女のあつかひが淡白なところから考へても、あの時彼女のほんたうが分つてくれたとは、たうてい思へなくて、それが後々まで未練のもとのやうでもあり、また反つてそのきれいさが愛着の種ともなつてゐるのだつた。彼女の幾人かの男のうちで、彼だけはそれを知らない。
けれども、あの時自分は酔つてゐたから、男を見抜くことが出来なかつたのだらうか。さうではない、気は確かだつた。そんなら、この人を初めてほんたうに愛したゆゑの迂闊だつたのだらうかといふ結論に辿りついて、女はふふと含み笑ひしながら、島村の掌を拡げて、その上に顔を押しあてた。
この長い引用は、駒子の心理を知るには欠かせない部分なのだが、現在の「雪国」では、削除されてしまった。
女は16、7のころ、男に教えられて、自分が女として類稀(たぐい、まれ)な肉体を持っていることを知ってしまった。
だから最初に思ったことは、島村が自分のほんとうの肉体の秘密を知って、それにひかれて遙々(はるばる)来たのだったか、ということだった。底寂しい喜びに誘われ、ほっと安心したような親しさを感じた。
しかし次に考えたことは、島村は女のあつかいも淡白であったから、彼女のほんとうの秘密を知ったとは到底思えず、それが後々までの未練のもとであり、またそのきれいさが愛着の種ともなっている、ということだった。「彼女の幾人かの男のうちで、彼だけはそれを知らない。」
彼に肉体の秘密を悟らせないままに終わったのは、「この人を初めてほんたうに愛したゆゑの迂闊だつたのだらうか」、最後に女はそう考えて、ふふと含み笑いするのである。
さて、男は掌に顔を押しあてられて、女の髪の冷たさに驚く。
「ほう冷い。こんな冷い髪の毛初めてだ。」そう言って、女に「東京はまだ雪が降らないの?」と訊かれても、それには応えず、言おうと思っていた言葉を口にするのである。
「君はあの時、ああ云つてたけれども、あれはやつぱり嘘だよ。さうでなければ、誰が年の暮にこんな寒いところへ来るものか。」
この言葉をきっかけに、「あの時は――雪崩の危険期が過ぎて、新緑の登山季節に入つた頃だつた。」と、最初の邂逅を振り返る回想場面――第1の旅へと、叙述は戻るのである。
無為徒食(むいとしょく)の島村
「無為徒食の島村は」と、その冒頭で島村の人物像が提示される。
無為徒食とは、定まった職業も持たず、親から遺された財産でもあって、それをいたずらに喰いつぶしている、生活に責任を持たぬ男、というほどの意味であろう。
少し後に、「白い朝の鏡」のところで、島村が西洋舞踊を趣味にしていて、時々西洋舞踊の研究や紹介を書くので、文筆業者の片端に数えられているが、島村みずから、それを「机上の空論」と冷笑し、そこに虚無の匂いを嗅いでいる、との説明がある。
このほか、東京に妻子があることがのちに説明されるが、「雪国」の中で島村について読者が具体的に与えられる知識はこれだけである。
そんな島村はしぜんと自分に対する真面目さも失いがちになるので、それを呼び戻すために、よく一人で山歩きをするが、その夜も、国境の山々から7日ぶりで温泉場へ下りて来ると、芸者を呼んでくれと云った。
ところがその日は道路普請の落成祝いで、12、3人の芸者は手が足りなくて、とうてい貰えないだろうが、三味線と踊りの師匠のところにいる娘なら、来てくれるかも知れぬ、ということだった。
その娘は、芸者ではないが、まったくの素人ともいえない、という女中の説明だった。
怪しい話だとたかをくくつてゐたが、1時間ほどして女が女中に連れられて来ると、島村ははつと唇を結んだ。(中略)
女の印象は不思議なくらゐ清潔であつた。足指の裏の窪みまでぬかりなくきれいであらうと思はれた。山々の初夏の風景を見て来た自分の眼のせゐであらうかと、島村は疑つたほどだつた。
女はこの村から眺められる山々の名もろくろく知らなかったけれど、自分の身の上話は案外率直に話した。19であるともいった。また歌舞伎の話をしかけると、女は彼よりも俳優の芸風や消息に精通していた。そういう話相手に飢えていたのか、夢中でしゃべった。
その夜は何事もなく過ぎ、女は帰っていった。
そして翌日の午後、宿へお湯をもらいに来るついでに彼の部屋に遊びに寄った。
ところが女に、島村はいきなり、芸者を世話してくれ、と云った。女が怒ると、
「友だちだと思つてるんだ。友だちにしときたいから、君は口説かないんだよ。」
「夕景色の鏡」は、ここで突如、終わる。康成が妻への手紙に、
「文藝春秋の小説は書き切れず尻切れとんぼ。」と書いたとおりである。
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/4510ff64754c3b064cd14671dbf6ce...
愛のゆくえ 「雪国」その5
「白い朝の鏡」
つづけて『改造』に書かれた続編では、はじめに、読者を面食らわせないないためだろうか、芸者代わりに呼んだ女とのいきさつが少し書いてある。
それから、つづきがあって、間もなく来た芸者を一目見ると、「島村の山から里へ出た時の女ほしさは、味気なく消えてしまった」ので、郵便局の時間がなくなるという口実をもうけて芸者を返す。そして、若葉の匂いの強い裏山へ登ってゆく。ほどよく疲れて、駈け下りてくると、
「どうなすつたの?」と、女が杉林の陰に立つてゐた。
「うれしさうに笑つてらつしやるわよ。」
「止めたよ。」と、彼はまたわけのない笑ひがこみ上げて来て、 「もう止めだ。」
「さう?」と、女は表情のなくなつた顔であちらを向くと、杉 林のなかへゆつくり入つた。彼は黙つてついて行つた。
神社であつた。苔のついた駒(ママ)犬の傍の平な岩に、女は腰を下 して、
「ここが一等涼しいの。真夏でも冷い風がありますわ。」
ここでふたりは会話をかわしながら、夕暮れまでの時間を過ごす。島村のとらえた女の特徴も書きこまれている。
「少し中高の円顔は平凡な輪郭ながら、白陶器に薄紅を刷いたやうな皮膚で、首のつけ根も肉づいてゐないから、美人といふよりもなによりも、清潔だつた。」
自分の男を呼ぶ声
それから問題の場面が登場する。
その夜の10時ごろ、女が廊下から島村の名を大声で呼んで、ばたりと倒れるように彼の部屋へ入ってくる。宴会の途中だった。
「悪いから行つて来るわね。後でまた来るわね」と、よろけながら出て行く。
一時間ほどしてまた廊下にみだれた足音で、
「島村さあん、島村さあん。」と、助けを求めるやうに叫んだ。それはもうまぎれもなく、酔つたあげくの本心で、女が自分の男を呼ぶ声であった。それは島村の胸のなかへ飛びこんで、むしろ思ひがけないほどだつたが、宿屋中に聞えてゐるにちがひなかつたから、当惑して立ち上がると、女は障子紙に指をつつこんで桟(さん)をつかみ、そのまま……〈伏せ字8字〉倒れかかつた。
「女が自分の男を呼ぶ声」とは、女が自分の好きな男を呼ぶ声、の意味だろう。
ちなみに、現行の定本では、この箇所はみごとに彫琢されて、こんなに簡潔な文章に変わっている。
一時間ほどすると、また長い廊下にみだれた足音で、あちこちに突きあたつたり倒れたりして来るらしく、
「島村さあん、島村さあん。」と、甲高く叫んだ。
「ああ、見えない。島村さあん。」
それはもうまぎれもなく女の裸の心が自分の男を呼ぶ声であつた。島村は思ひがけなかつた。
女は酔って、本心から、「自分の男」を呼んだのである。
だが、女はいつのまに、島村を「自分の男」と思うようになったのか。
さきほどの夕暮れの杉林の中での会話からだろうか。前夜、芸者の代わりに呼ばれて、島村と話が合ったからであろうか。それとも、今日の午後、芸者を呼んでくれと、失礼なことを云われたことが、かえって女の心を刺激したのか。
いずれにしても、前夜、ふたりの話の合ったことが基本であろう。だからこそ好意を抱いて、女は翌日の午後、島村の部屋を遊びに訪れたのである。それなのに芸者を世話してくれといわれて、女の心は傷ついた。しかしこの危機は、女の素直な心によって回避された。
しかし、それでもなお、女がここまで深く島村を思ってしまった心の因はわからない。
女の心はわからないままに、物語は進行する。
島村の部屋で、女は酔ったままにさまざまな姿をみせるが、結局、島村に抱かれることになる。しかしその時になっても、「お友達でゐようつて、あなたがおつしやつたぢやないの」と、幾度繰り返したかしれなかった。
島村はその言葉の真剣な響きに打たれ、また、固く渋面をつくつて自分を抑へてゐる意志の強さには味気なくなるほどで、女との約束を守ろうかとさえ思うのである。
この場面の初出は伏せ字だらけで、意味が通らないので、定本によって補正すると、
「私はなんにも惜しいものはないのよ、決して惜しいんぢやないのよ。だけど、さういふ女ぢやない。私はさういふ女ぢやないの。きつと長続きしないつて、あんた自分で言つたぢやないの。」(中略)
などと口走りながら、よろこびにさからふために袖をかんでゐた。
女はこんなに簡単に男に身を任せることで、男が誤解することを恐れているのだ。好きな男にあげる。だから惜しいんじゃない。だけど、あなたは誤解する。あたしが、こんなふうに誰にだって簡単に身を任せてしまう女だと誤解する。それは違う!
女は、よろこびがこみ上げてくるなかで、それに逆らいながら、必死で言いつのっているのだ。
……しばらく気が抜けたみたいに静かだったが、女はふと突き刺すように、
「あなた笑つてるわね。私を笑つてるわね。」と言って、泣くのである。旅の男に簡単に身を任せた、男からすれば、据え膳喰わぬは……と、そんな女を安っぽい、尻の軽い女として馬鹿にするだろう。女は、そう思われることを避けようと、必死で男を刺すのである。
この場面は、女が行きずりの島村に本気で惚れて身を任せ、その自分の気持ちを軽いものと誤解されることを恐れていると、読者に繰り返し訴える。女の真剣な好意がつよく印象づけられるシーンである。
それとともに、そのように言わねばならぬほど、男に容易に身を任せてしまった女の哀れが読者に迫ってくる。
「白い朝の鏡」は、それから女が夜が明けるのを恐れて、宿の人が起きる前に帰ってゆくところで閉じられる。
「夕景色の鏡」との対照は、この作品では書かれずじまいだったのである。
「物語」
「夕景色の鏡」「白い朝の鏡」と1935年(昭和10年)の新年号に発表されたまま、作品は1年ちかく放置される。
次に第3作「物語」、第4作「徒労」が発表されるのは、同年11月号、12月号のことである。
先にも指摘したように、その秋の康成の3度目の越後湯沢への旅が、「余情」を後に残す契機となったのである。
「物語」も、読者にこれまでの経緯を説明するところから始まっている。女が夜明けに宿を抜け出して帰っていったあと、「その日島村は東京へ帰つてしまつた。女の名も聞き忘れたほどの別れやうであつた。」
それから、新しい「物語」が始まる。
女はしきりに指を折って勘定している。島村が問うと、「5月の23日ね」といい、今夜がちょうど「199日目だわ」と応えるのである。
ここは、これまでいくつもの論考で指摘されてきたように、平安の昔に、深草(ふかくさ)の少将が小野小町を99夜たずねた、その故事「深草少将の百夜(ももよ)通い」に関連づけているのであろう。女は、自分たちの関係に何か意味を見出そうとしているのである。
それから、この「物語」の中心となる、女の生きる姿が示される
「だけど、五月の二十三日つて、よく覚えてるね。」
「日記を見れば、直ぐ分るわ。」
「日記、日記をつけるのか。」
「ええ、古い日記を見るのは楽しみですわ。なんでも隠さずその通りに書いてあるから、ひとりで読んでゐても恥しいわ。」
「いつから?」
「東京でお酌に出る少し前から。(以下略)」
これだけでも島村を驚かすには十分だったが、島村をもっと驚かせたのは、女が、読んだ小説を1つ1つ雑記帳に書きつけている、ということだった。
日記の話よりも、尚島村が意外の感に打たれたのは、彼女は十六の頃から、読んだ小説を一一書き留めておき、そのための雑記帳がもう十冊にもなつたといふことであつた。
「感想を書いとくんだね?」
「感想なんか書けませんわ。題と作者と、それから出て来る人物の名前と、その人達の関係と、それくらゐのものですわ。」
「そんなものを書き止めといたつて、しやうがないぢやないか。」
「しやうがありませんわ。」
「徒労だね。」
「さうですわ。」と、女はこともなげに明るく答へて、しかしぢつと島村を見つめてゐた。
全くの徒労であると、島村はなぜかもう一度声を強めようとした途端に、しいんと雪の鳴るやうな静けさが身にしみて/それは女に惹きつけられたのであつた。
島村は、女の意外な一面を知って驚く。山深い田舎のひとりの無名の女が、読んだ小説の題名をノートにつけたとて、いったいそれが何の役にたつというのだろう。
彼女にとつては、それが徒労であらうはずがないとは彼も知 りながら、頭から徒労だと叩きつけると、なにか反つて彼女の 存在が純粋に感じられるのであつた。
このとき初めて、島村は女に惚れたのである。あるいは、女の一生懸命に生きている姿を知って、そこにひとりの女の生きる息づかいを感じて、女に対する心からの愛情が湧いてきたのである。
……その夜、つまり再会の最初の夜も、女は島村の部屋に泊まって朝を迎える。
部屋が明るんでくると、女の赤い頬があざやかに見えてくる。寒いせいだろうと島村が訊くと、白粉(おしろい)を落としたからだ、と女は答える。
「寒いんぢやないわ。白粉を落したからよ。私は寝床へ入ると直ぐ、足の先までぽつほ(ママ)して来るの。」と、島村の枕もとの鏡台に向つて、
「たうとう明るくなつてしまつたわ。帰りますわ。」
島村はその方を見て、ひよつと首を縮めた。鏡の奥が真白に光つてゐるのは雪である。その雪のなかに、女の真赤な頬が浮んでゐる。なんともいへぬ清潔な美しさであつた。
この場面でようやく、康成の初めの構想――「夕景色の鏡」と、人差指が覚えていた女の「白い朝の鏡」との照応が完成するのである。
1つの短篇で終わるはずだった作品が、3作めの「物語」の最後になって、やっと当初の目的を完成したのである。康成は、ここでこの連作を終わってもよかった。
それがさらに次の「徒労」へとつづいてゆくのは、この「物語」の中で、日記をつけているばかりか、読んだ小説を雑記帳に書きとめているという、ひとりの女の、徒労の生を懸命に生きている姿を知って、男の内部に、遊びごとではない、女への真剣な思いが芽生えたからである。
これが「余情が後に残って」の意味であろう。ここから、作品は真剣な愛を抱いた男と女の物語へと変貌してゆくのである。
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/2e44c3f542df85f121f5b87a87d3c7...
愛のゆくえ「雪国」 その6
「徒労」
「雪国」のプレオリジナル(初出)第4作目にあたる「徒労」は、かなり長い。作者の興がのっているからだろう。
ここでも、作品をたどりながら、ふたりの移りゆきを、細かく見ていこう。
……昼すぎ、島村が温泉宿からの坂道を歩いてゆくと、軒かげに芸者が5、6人、立ち話をしている。そのなかに駒子もいた。
島村が通りすぎると、駒子が追ってくる。「うちへ寄つていただかうと思つて」という。その家は、前日、汽車で乗り合わせた病人のいる家だった。駒子の師匠の家である。
その2階、というよりも屋根裏部屋に、駒子は住んでいた。もとはお蚕(かいこ)さまの部屋だったという。
その古びた部屋の、障子は貼り替えられ、壁にも丹念に半紙が貼られて、古い紙箱に入ったようだった。壁や畳は古びているものの、いかにも清潔であった。蚕(かいこ)のように、駒子も透明な體で、ここに住んでいるかと思われた。
駒子は、階下の病人を、腸結核で、もう故郷に死にに帰って来たのだと話した。三味線と踊りの師匠であるひとの、ひとり息子であると、これまでのいきさつも話した。けれども、この息子――行男を連れて帰った娘がなにものであるか、どうして駒子がこの家にいるのかということは、一言も話さなかった。
やがて、澄み上がった、悲しいほど美しい声が聞こえる。葉子である。だが葉子は島村をちらっと刺すように一目見ただけで、ものも言わずに通り過ぎた。
島村は表に出てからも、彼女の眼つきが彼の額の前に燃えてゐさうでならなかつた。
島村が、駒子とこういう仲になりながらも、頭の片隅で、この葉子を意識していることが、ここで期せずして語られている。
島村は、通りかかった按摩(あんま)を宿の部屋に呼んで、その按摩の口から、師匠の息子である行男と駒子がいいなづけであり、行男の療養費をかせぐために駒子が芸者に出たのだ、という消息を聞く。
その夜、宿の宴会が果てて島村の部屋に来た駒子は、島村の来なかった八月いっぱい、神経衰弱でぶらぶらしていたと話す。また浜松の男に言い寄られたことも告白する。
そして「私妊娠してゐると思つてたのよ。ふふ、今考へるとをかしくつて、ふふふ」と含み笑いする。
もちろん、島村の子を宿したと思ったのである。
それから島村の追求に答えて、行男とのいきさつを語る。
「はつきり云ひますわ。お師匠さんがね、息子さんと私といつしよになればいいと、思つた時があつたかもしれないの。心のなかだけのことで、口には一度も出しやしませんけれどね。さういふお師匠さんの心のうちは、息子さんも私も薄々知つてたの。だけど、二人は別になんでもなかつた。ただそれだけ。」
けれどもまた、「東京へ売られて行く時、あの人がたつた一人見送つてくれた。一番古い日記の一番初めに、そのことが書いてあるわ」ともいう。
駒子の三味線
宿へ葉子に持たせてきた三味線を、駒子が弾き、唄う。
忽ち島村は頬から鳥肌立ちさうに涼しくなつて、それが腹まで澄み通つて来た。たわいなく空にされた頭のなかいつぱいに、三味線の音が鳴り渡つた。全く彼は驚いてしまつたと云ふよりも、叩きのめされてしまつたのである。敬虔の念に打たれた。悔恨の思ひに洗はれた。自分はただもう無力であつて、駒子の力に思ひのまま押し流されるのを、快いと身を捨てて浮ぶよりしかたがなかつた。(中略)
勧進帳が終ると、島村はほつとして、ああ、この女はおれに惚れてゐるのだと思つたが、それがまた情なかつた。
「こんな日が音がちがふ」と、雪の晴天を見上げて、駒子が云つただけのことはあつた。
それからは、泊ることがあっても、駒子はもう強いて夜明け前に帰ろうとはしなくなった。
2、3日後、月の冴えた夜、空気がきびしく冷えてから、午後11時近くだのに、駒子は散歩をしようといってきかなかった。
駅へ行く、という。
「あんたもう東京へ帰るんでしょう。駅を見にゆくの」という。
駅から帰ると急にしょんぼりして、島村の要求に、「ううん、難儀なの」という。月経中という意味である。「なあんだ、そんなこと。ちっともかまやしない」と島村は笑って、「どうもしやしないよ」という。
「つらいわ。ねえ、あんたもう東京へ帰んなさい。つらいわ」といって炬燵(こたつ)の上に顔を伏せる。
「もう帰んなさい。」
「実は明日帰らうかと思つてゐる」
「あら、どうして帰るの?」と、駒子は目が覚めたやうに顔を起した。
「いつまでゐたつて、君をどうしてあげることも、僕には出来ないんぢやないか。」
ぽうつと島村を見つめてゐたかと思ふと、突然激しい口調で、
「それがいけないのよ。あんた、それがいけないのよ。」と、じれつたさうに立ち上つて来て、いきなり島村の首に縋りついて取り乱しながら、
「あんな、そんなこと云ふのがいけないのよ。起きなさい。起きなさいつて云へば。」と口走りつつ自分が倒れて、物狂はしさに體(からだ)のことも忘れてしまつた。
月経中であることも忘れてしまった、というのである。駒子の方から身を投げだしたのだ。
それから、温かく潤んだ眼を開くと、
「ほんたうに明日帰りなさいね。」と、静かに云つて、髪の毛を拾つた。
見過ごすことのできぬ言葉があった。それは島村の、「いつまでゐたつて、君をどうしてあげることも、僕には出来ないんぢやないか」という言葉である。
島村は東京の人であり、東京には妻子がある。それを捨ててまで駒子との愛をつらぬこうとは、初めから考えていない。
では、駒子との愛は、どうなるのか。
島村は、駒子を愛しても、それ以上、どうしてやることもできないのである。この点に、駒子の哀切さが浮かび上がる。どんなに島村を愛しても、島村はその時点では愛し返してくれても、それだけである。つまり、ふたりの愛の行く末はない。
――島村は次の日の午後三時の汽車で立つことになる。
駅の前で
その日、ふたりが駅まで来たところへ、あわただしく葉子が駈けてきて、「ああっ、駒ちゃん、行男さんが、駒ちゃん。」と駒子の肩をつかんで、「早く帰って、様子が変よ、早く」とすがる。
駒子は肩の痛さをこらへるかのやうに、目をつぶると、さつと顔色がなくなつたが、思ひがけなく、はつきりかぶりを振つた。
「お客さまを送つてるんだから、私帰れないわ。」
島村は驚いて、
「見送りなんて、そんなものいいから。」
「よくないわ。あんたもう二度と来るか来ないか、私には分りやしない。」
駒子は極度の葛藤(かっとう)のため、げえっと吐き気を催すが、口からはなにも出ず、目の縁(ふち)が湿って、頬が鳥肌立つ。
葉子が島村にも必死で頼んで後向いて走り出したのを見送った島村は、「なぜまたあの娘はいつもああ真剣な様子なのだらうと、この場にあるまじき不審」が心を掠めて、「遠ざかる後姿は尚更寂しいものに見えた。」
さらに、
「葉子の悲しいほど美しい声は、どこか雪の山から今にも木魂(こだま)して来さうに、島村の耳に残つてゐた。」とある。
こんな場合なのに、島村の頭には、葉子にたいする関心がつよく尾を曳いているのである。
それに対して、駒子は島村のために、他のすべてを捨てる。
島村は駒子に、帰ってやるように説得するが、駒子は聞き入れない。
いや、人の死ぬの、見るなんか。
ここは、どう解釈すればいいのだろう。
駒子の決断
駒子にとって、島村は、今度汽車に乗ったら、いつまた来てくれるかわからない男である。だからここで見送っておかないと、一生後悔する。
これに対して、行男は過去のひとである。今の駒子にとっては、もう一度逢えるかどうかわからぬ島村を見送る方が大切なのである。駒子は決然と、島村を選んだ。
島村は、それを受け入れるしかない。
……やがて改札が始まる。駒子は、フォームには入らないといって、待合室で島村を見送る。汽車が走り出すと、駒子の姿はたちまち見えなくなってしまう。待合室のガラスが光って、駒子の顔はその光のなかにぽっと浮ぶかと見る間に消えてしまう。それはあの雪の朝、雪の鏡の時と同じに真赤な頬であった。
またしても島村にとつては、現実といふものとの別れ際の色であつた。
汽車に乗って東京に帰ってゆく島村には、夕闇に浮かんだ葉子の目も、駒子の赤い頬の色も、現実との別れの色だった、と康成は書いているのだ。つまり、雪国の現実と別れて、彼はふたたびトンネルの向こうの世界へと帰ってゆくのである。
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/f0071e44892b2506824a7246bc34d0...
愛のゆくえ「雪国」 その7
川端書簡
――ところで、「徒労」をめぐって、川端康成書簡に、面白いものがあった。封筒が欠けていて、1935(昭和10)年10月末と推定されるものだが、越後湯沢から、妻・秀子に宛てたものと思われる。
それは、そのころ『日本評論』社とは、原稿と引き替えに必ず稿料を渡すという約束があったのに、秀子夫人が持参しても、どうしても金を渡さなかったのである。それで、原稿を渡さず、持ち帰った秀子から、康成に、どうしたらよいかと指示を乞うたらしい。
康成は、次のように書いている。
日本評論デクレヌノカ。
日本評論デクレヌノナラ、原稿取リ戻シ、火急他ヘ売ツテ貰フヨリ仕方ナイト思フガ。
コノ手紙ツクノハモウ三日ダカラ、評論社ノ方ハドウカトキメテ貰(もら)ツテ下サイ。
他ヘ売ルナラ中央公論デモ改造デモヨイガ、中央公論ノ方ヨカロウ。他ヘ売ル時ハ、題ハ「徒労」、続キナレド、独立シテ少シモ差支(さしつかえ)ナク、チヤントマトマリ、相当面白イモノダト云ツテ下サイ。枚数は七八十枚。後直グ届ケルト。
「徒労」について、「続キナレド、独立シテ少シモ差支ナク、チヤントマトマリ、相当面白イモノダ」と康成が珍しく自信を持って語っているところに注目したいのだ。この挿話は、秀子夫人の『川端康成とともに』にも書かれている。秀子も「自分の作品についてこうはっきりと言うことは滅多にないことですから、この作品にはよほど自信があったのだと思います」と書いている.。
同時代評
結局、「徒労」は、「物語」に引きつづいて日本評論社が引き取ったが、同時代評は、この作に高い評価を与えた。
林武志『川端康成作品研究史』(教育出版センター、1984・10・10)の「雪国」評価を見ると、作品が、あとになるほど評価がますます高くなり、「徒労」「火の枕」などは、ほぼ絶讃されていることが印象深いのである。
ここで少し前戻りするが、「夕景色の鏡」「白い朝の鏡」から、同時代評を、前引の『川端康成作品研究史』から引用させていただこう。いずれも、抄出である。
☆深田久弥「〈新年雑誌文芸時評(3)受難期の一群―川端氏の作品を推す」(『読売新聞』、1934・12・27)
川端氏の「白い朝の鏡」及びその続編「夕景色の鏡」は傑作である。小説の理屈はともかく、お終ひになるのを惜しみながらたのしみ読めたのは、新年号幾十の小説のうちこれだけであつた。
☆正宗白鳥「〈新年号の創作評(終)稚気と匠気―川端氏の短篇二つ」(『東京朝日新聞』1935・1・6)
川端康成氏の「夕景色の鏡」は、何の事やら腑(ふ)に落ちなかつたが、「改造」所載の「白い朝の鏡」を読んで、やうやく得心が行つた。この二篇は必ず併(あわ)せ読まなければならぬのである。(中略)二つの小篇に含まれてゐる事実をそのまゝに見ないで、鏡に映して見たところに、芸術としての異つた色彩が豊かに現れてゐる。
☆上林暁(かんばやし・あかつき)「〈文芸時評〉『文藝春秋』―旅情について」(『作品』1935・2・1)
東京は遠い、と田舎に居てこの頃思ひつづけてゐる僕は、「比叡」(横光利一)、「夕景色の鏡」(川端康成)の二作を読んで、焼きつくやうな旅情を感じた。(中略)ただ作者横光氏は、旅の風光の中にあつて、風光を睥睨(へいげい)(へいげい)し、考察し、時に子供のやうに風光の中に身を構へてゐるに反し、作者川端氏は、旅から湧く感情に身も心も焦がしてゐる相違が感じられた。(中略)
「夕景色の鏡」は未完であるらしい。雪に埋れた信号所に汽車が停つて、汽車の中の娘が、窓の外を通る駅長と言葉を交はすので、僕の感は極まつた。僕たちが文学の修業をしてゐるのは、こんな美しい情景を探り当てるためだ。
「「徒労」の同時代評
何の用意もなく、時間もないまま書き出したというのに、「夕景色の鏡」「白い朝の鏡」は、いずれも好評である。康成が続編を書きつぐ気になった原因の1つは、この好評にあったかもしれない。
しかし「徒労」以下になると、同時代評は、さらに絶讃の傾向をおびる。
☆青野季吉「文学と方法―川端氏の『徒労』に就て」
川端康成の「徒労」(日本評論)はこれまでの言葉で云へば、清純なること珠玉の如き作品である。またじつさい私には、この田舎芸者の姿態を描いた作品をよみ耽りつつ、そういふ古い讃美の言葉が、思はず頭にうかんで来たのであつた。またそれと同時に、至芸といふやうな、旧い言葉も思ひ出された。(中略)
またこの作品には、謂ゆる心理をとり出した描写といふものが、ぜんぜん無い。女のその場その場で男にしめす姿態と言葉のうちに心理の内容と変化とを見てとるより外はない。そして作者は執拗頑強にこの方法を守り通してゐるのである。しかも作者によつて捉へられた女の姿態と言葉のうちに、いかに精妙に心理の内容と変化が「表現」されてゐることであらうか。驚歎するばかりである。
「徒労」の文学としての独自の性格は、まさにかくの如きものである。複雑なものが、その複雑さを失はずして、単純化され、圧縮され、すべての含蓄によつて答へられてゐる。而(しこう)して、雪の山地の自然と、人間の在り様とが、渾然(こんぜん)とした一致のなかにおかれ、空間、時間の正確な感じまでが、そこに精細に盛り込まれてゐる。これを絵画にたとえ(ママ)れば巧緻な写生と見へ(ママ)て、さうでなく、既に凡(すべ)てをふくむ写意の妙境に達してゐるものと云つてよいかも知れない。
☆河上徹太郎「文芸時評」(『新潮』1936(昭和11)・1・1)
(上略)然し今月の傑作はと問はれたなら、私は躊躇(ためらい)なく川端康成氏の「徒労」(日本評論)を挙げる。実際此の一篇があつただけで、お勤めで数十篇の小説を読まされた労を悔いないのであつた。
「萱の花」
「雪国」の第5編「萱(かや)(かや)の花」は、1936(昭和11)年8月の『中央公論』に掲載された。
2度めの旅から東京へ帰ってゆく車中から書き出される。
国境の山を北から登つて、長いトンネルを通り抜けてみると、(中略)こちら側にはまだ雪がなかつた。
上野(こうずけ)と越後の国境を隔てる山塊の底を、1931年(昭和6年)に開通したループ式の長い清水トンネルが通りぬけてゆくのだ。その間に、雪国という現実から離れて行く。
車中で、島村は放心状態になる。
島村はなにか非現実的なものに乗つて、時間や距離の思ひも消え、虚しく體を運ばれて行くやうな放心状態に落ちると、単調な車輪の響きが、女の言葉に聞えはじめて来た。
それらの言葉はきれぎれに短いながら、女が精いつぱいに生き
-
7
777
それらの言葉はきれぎれに短いながら、女が精いつぱいに生きてゐるしるしで、彼は聞くのがつらかつたほどだから忘れずにゐるものだつたが、かうして遠ざかつて行く今の島村には、旅愁を添へるに過ぎないやうな、もう遠い声であつた。彼はすつかり安心して、別離の情に溺れるばかりだつた。
それから、ふたりがはじめて会ったときから、これまでのいきさつが語られる。そして、三度めの旅について、次のように説明される。
来年の2月の13、4日頃スキイに来ると、島村は約束して置きながら、3度目に来たのは、まる1年以上を過ぎた10月の初めだつた。
2度目は12月だったから、2月には来ると約束しておいて、それをすっぽかし、10ヶ月もたって、彼はこの土地に現れるのである。
その10月の初め、3度目の旅は、蛾の精細な描写から始まる。
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/f74b0abbc30ea2dd9df645c2d2313c...
愛のゆくえ「雪国」 その8
2度目は12月だったから、2月には来ると約束しておいて、それをすっぽかし、10ヶ月もたって、彼はこの土地に現れるのである。
その10月の初め、3度目の旅は、蛾(が)の精細な描写から始まる。
蛾(が)の精細な描写
蛾が卵を産みつける季節だから、洋服を衣桁(いこう)や壁にかけて、出しつぱなしにしておかぬやうにと、出がけに細君が云つた。
いかにも、、宿の部屋の軒端に吊した装飾燈には、玉蜀黍(たうもろこし)色(とうもろこしいろ)の大きい蛾が六七匹もぢつと吸ひついてゐた。次の間の3畳の衣桁にも、小さいくせに胴の太い蛾がとまつてゐた。
以下につづく蛾の描写は、康成の技量を示して、すさまじいばかりの迫力である。さらにこの章の中ほどに、秋が深まって昆虫どもの死んでゆく場面が描かれる。見過ごすことのできない描写だから、ここに引用しておこう。
彼は昆虫どもの悶死するありさまを、つぶさに観察してゐた。
秋が冷えるにつれて、彼の部屋の畳の上で死んでゆく虫も、日毎にあつたのだ。翼の堅い虫はひつくりかへると、もう起き直れなかつた。蜂は少し歩いて転び、また歩いて倒れた。季節の移るやうに自然と亡びてゆく、静かな死であつたけれども、近づいて見ると、脚や触覚を顫(ふる)はせて悶(もだ)えてゐるのだつた。それらの小さい死の場所として、八畳の畳はたいへん広いもののやうに眺められた。
わたくしたちはここに、「禽獣」に描かれた数々の鳥や犬や人の死の姿を思い出す。「禽獣」の「彼」の冷酷非情な眼が、ここには存分に発揮されているのだ。そしてこの眼はそのままに、駒子や葉子を映しだす冷え冷えとした眼である。島村は、「禽獣」の「彼」のまぎれもない後身である。
鳥追い祭
駒子は少し後れて来た。
廊下に立つたまま、真向に島村を見つめて、
「あんた、なんしに来た。こんなとこへなんしに来た。」
「君に会ひに来た。」
「心にもないこと。東京の人は嘘つきだから嫌ひ。」
そして坐りながら、声を柔かに沈めると、
「もう送つて行くのはいやよ。なんともいへない気持だわ。」(中略)
「あんた二月の十四日はどうしたの。嘘つき。ずゐぶん待つたわよ。もうあんたの云ふことなんか、あてにしないからいい。」
2月の14日には、鳥追い祭がある。雪国らしい、子供の年中行事である。その頃は、雪もいちばん深い時であろうから、島村は鳥追い祭を見に来ると約束しておいて、すっぽかしたのだった。
駒子は、二月は商売を休んで実家に帰っていた。そこへお師匠さんが肺炎になったという知らせが来た。駒子は看病に行っていたのだが、14日には、島村が来ると思って、わざわざ看病を途中にして、この温泉に帰ってきたのだった。
この作品のところどころに出て来る「港」とは、駒子のモデル松栄の生まれ故郷、三条市を想定しているのであろう。
湯沢から近くに、港に該当するような町はない。新潟も直江津も遠すぎる。湯沢からほどよい距離で、少し整った町、というと、三条市がいちばん適切である。
駒子は師匠の看病を途中で放棄して湯沢に帰ってきたのだった。それなのに、島村は来なかった。お師匠さんは死んだ。
島村の不誠実が、かえって駒子を惹(ひ)きつける一例である。
二十一歳の意味
駒子は、「胃が痛い」といって島村の膝へ突っ伏す。襟をすかして、白粉の濃い首が見える。
首のつけ根が去年より太つて、脂肪が乗つてゐた。二十一になつたのだと、島村は思つた。
この作品の構造を考える上に、無視できぬ1行である。
島村とはじめて会ったとき、駒子は19であった。もちろん戦前の数え方であるから、数えである。
島村が二度目に来たのは、その年の12月、そして3度目の今回は、それから10ヶ月後の10月である。
だから当然ここは、「二十」とあるのが正しい。この年立ての乱れを論じた平山三男は、作者の錯誤であるとする。
しかし作品をここまで読んできた読者は、その濃密な連続する空気から、島村と駒子とは、はじめて会ってから、かなり長いように錯覚している。それほどに濃密なのである。
2月の鳥追い祭に来ないで10月に来た、と書いた川端康成は、もちろんここが正しくは「二十」と書くべきであることをよく知っていただろう。しかも康成は、あえてここを「二十一になつたのだ」と書いたのである。
「雪国」全体を通して、この3度目の逗留が長くなり、次の年の2月ごろになるのではあるけれども、実際は、島村は都合3度しか雪国に来ていない。
駒子とはじめて会ってから、雪中火事の場面まで、実際には2年足らず、1年と7、8ヶ月程度である。しかしその事実を読者に自覚させると、せっかくの作品の厚みが薄っぺらなものになってしまう。
康成は、濃密な内容に合わせて、島村と駒子の仲が3年も4年もつづいているかのように読者を錯覚させなければならないのである。
そこであえて、ここを正しく「二十」とは書かずに、「二十一」と書いて読者を欺いたのである。作品として、その方がいい、とわたくしは考える。
雪国の現実
しかし、3度目の訪問で、雪国の現実が大きく変貌していることも事実である。
駒子が姉のように慕う芸者菊勇は、好きな男に騙(だま)されたために、せっかく旦那に建ててもらった店を手放し、別の町に新しく稼ぎに出ることになる。
行男はもちろん、駒子のお師匠さんも死んだ。
駒子も、置屋(おきや)が変わって、新しく4年の年季奉公に出るようになっている。
容赦(ようしゃ)ない現実の波が、この雪国の世界にも押し寄せているのである。変わらないのは、駒子の島村に寄せる一途の愛だけである。
「あんた私の気持分る?」
「分るよ。」
「分るなら云つてごらんなさい。ね、云つてごらんなさい。」と、駒子は突然思ひ迫つた声で突つかかるやうに云つた。
「それごらんなさい。云へやしないぢやないの。嘘ばつかり。あんたは贅沢に暮して、いい加減な人だわ。分りやしない。」
さうして声を落すと、
「悲しいわ。私が馬鹿。あんたもう明日帰んなさい。」
(中略)
「一年に一度でいいからいらつしやいね。私のここにゐる間は、一年に一度、きつといらつしやいね。」
何と哀切な、美しい言葉であろう。男が不誠実であることを百も承知しながら、1年に1度でいいから来てほしい、と女はいうのである。
ところで、次の1節も、この作品の構造に関係がある。
「私がここへ来てから4年だもの初めは心細くて、こんなところに人が住むのかと思つたわ。汽車の開通前は寂しかつたなあ。あんたが来はじめてからだつて、もう3年だわ。」
その3年の間に3度来たが、その度毎に駒子の境遇の変つてゐることを、島村は思ひ出した。
汽車の開通とは、もちろん1931(昭和6)年に開通した清水トンネルを指している。上越線は、この開通によって東京から新潟県まで楽に来られるようになり、越後湯沢の湯治客も桁(けた)違いに殖えたのだ。
「その3年の間に3度来たが」は、正しくは「2年の間に3度来たが」である。あるいは、「2年ちよつとの間に」とすべきところを、康成は強引に「3年の間に3度」と、あえて錯誤を犯したのである。さきに述べたのと同じ理由からである。
また「萱(かや)の花」では、駒子に旦那のいることがはじめて明かされる。その人は「港にゐる」という。芸者松栄(まつえ)の旦那は東京にいた。が、この作中では「港」とされている。「親切な人だのに、一度も生き身を許す気になれないのは、悲しい」と駒子はいう。
じつは、ずっとのちに駒子のモデル芸者松栄に会って取材した和田芳恵によれば、松栄には、まだこのほかに意中の人がいた。しかしこれは、のちに述べることにしよう。
「火の枕」
「雪国」の第6篇「火の枕」は、1936(昭和11)年10月号の『文藝春秋』に発表された。
その冒頭近くに、駒子の言葉に触発されて、島村が人間の官能について考える場面が登場する。康成の、男女のあり方についての考えの示された、重要な一節である。
「人間なんて脆(もろ)いもんね。すつかりぐしやぐしやにつぶれてたんですつて。熊なんか、もつと高い岩棚から落ちたつて、體(からだ)はちつとも傷がつかないさうよ。」
と駒子が云った。岩場でまた遭難があったのだ。このことばを聞きながら、島村は次のように思う。
熊のやうに硬く厚い毛皮ならば、人間の官能はよほどちがつたものであつたにちがひない。人間は薄く滑らかな皮膚を愛し合つてゐるのだ。
島村のこの感想には、自分が官能というものに深くとらわれていることを痛感した上での、そのようなものにつき動かされて生きてゆかねばならぬ、自分や駒子を含めた人間のあり方に対する限りない愛惜がある。
人間がたとえば熊のように逞しく荒々しいだけの官能を与えられているのなら、人間の生存様式はおのずから別のものとなっていただろう。けれども人間に付与されたのは、「薄く滑らかな皮膚」であった。そのような脆い繊弱な肌を与えられた結果、人間は舐めるようにささやかに、互いの肌を愛しあいながら生きてゆかねばならぬ。そこに人の世のさまざまの哀歓も生じてくる。……
「雪国」の本質を示唆したような一節である。
葉子の登場
これまでも、葉子は時々、いろいろなところで登場していた。そしてそのたびに島村は、その一挙一動が心に残るのであった。
しかし「火の枕」の後半では、葉子が大きく迫るように前面に出て来る。
そのピークは、島村の留まっている宿で土地の人の宴会があり、さすがの駒子も「今日は来られないわよ、多分」と云った夜である。
駒子の結び文をことずかって葉子が来たあと、酔って島村のところへ来た駒子のことばは異様である。
「あの子なんて云つた? 恐しいやきもち焼きなの、知つてる?」
「誰が?」
「殺されちやい(ママ)ますよ。」
「あの娘さんも手伝つてるんだね。」
「お銚子を運んで来て、廊下の陰に立つて、ぢいつと見てんのよ、きらきら目を光らして。あんたああいふ目が好きなんでせう。」
ここで「恐しいやきもち焼き」と言われているのはもちろん葉子のことであり、やきもちを焼いている相手は駒子である。しかし何故に葉子は駒子に嫉妬し、「きらきら目を光らして」駒子の座敷を見ているのだろうか。
「殺されちやい(ママ)ますよ。」――これも素直に読めば、島村が葉子に殺されかねないと駒子は言っているのである。前後から考えると、駒子と島村の仲を葉子が嫉妬している、それも島村を殺しかねないほど激しく、ということになる。
この時点まで、島村は葉子を遠くから凝視していたばかりであり、葉子とことばを交わしたことも、二度めの旅の終りのあわただしいやりとりだけであった。だから、葉子が島村を恋しているとも受けとれるこの場面は唐突である。
あるいは葉子は、島村自身を恋しているのではなく、激しい恋愛をしているということ自体で駒子を嫉妬しているとも考えられるが、しかしそれにしても葉子のこの感情は異常であり、読者は意表をつかれた思いがする。
けれども不思議なのは、この場面が意外であるにもかかわらず、いやむしろ、意外である故にかえって、読者は、この妖しい心理の交錯に惹きこまれるのである。
この緊張は、次の場面でさらに高まる。ふたたび駒子の結び文を持ってきた葉子に、島村が話しかけた部分である。
「あの人は(中略)君の話をするのをいやがるくらゐだよ。」
「さうですか。」と、葉子はそつと横を向いて、
「駒ちやんはいいんですけれども、可哀想なんですから、よくしてあげて下さい。」
早口に云ふ、その声が終りの方は微かに顫(ふる)へた。
「しかし僕には、なんにもしてやれないんだよ。」
葉子は今に體まで顫へて来さうに見えた。危険な輝きが迫つて来るやうな顔から、島村は目をそらせて……。
葉子が「そつと横を向いて」「駒ちやんはいいんですけれども」と言ったのは、駒子の自分に対する態度を受けとめて、微妙な心の波立ちをおさえ、それは赦してもいいと答えたのであるが、しかし次の「可哀想なんですから、よくしてあげて下さい」と頼んだのはわかるとして、「早口に云ふ、その声が終りの方は微かに顫へた」というのは、何を意味するのだろう。
心の表層では駒子が島村に愛されることを願いながら、本心はそれに烈しい悋気(りんき)の焔をもやし、自分の方が島村に愛されることをひそかに希っている――そう考えなければ、次に「體まで顫へて来さうに」なる葉子の内面は理解できない。さらに「危険な輝きが迫つて来るやうな顔」とは、葉子が今にも自分を愛してくれと言い出すかもしれぬ、きわどい瞬間がおとずれていたことを示唆しているとしか考えられない。
つまりここでは、それまで島村から見られるばかりの存在で、あたかも影のようであった葉子が、いつのまにか島村に愛を訴えかねない危険な存在になっているのである。
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/e57427e059a851b111e57c77fbf903...
愛のゆくえ「雪国」 その9
激しい謝罪の方法
この場面はさらに発展して、
「早く東京へ帰つた方がいいかもしれないんだけれどもね。」
「私も東京へ行きますわ。」
「いつ?」
「いつでもいいんですの。」
「それぢや、帰る時連れて行つてあげようか。」
「ええ、連れて帰つて下さい。」と、こともなげに、しかし真剣な声で云ふので、島村は驚いた。(中略)
「あの人に相談した?」
「駒ちやんですか。駒ちやんは、憎いから云はないんです。」
さう云つて、気のゆるみか、少し濡れた目で彼を見上げた葉子に、島村は奇怪な魅力を感じると、どうしてか反つて、駒子に対する愛情が荒々しく、燃えて来るやうであつた。得体の知れない娘と、駈落ちのやうに帰つてしまふことは、駒子への激しい謝罪の方法であるかとも思はれた。
「雪国」後半の山場の1つである。それまで背景にちらちらと影を見せた葉子が前面に出て来て、島村の言葉に誘発されるように「ええ、(東京に)連れて帰つて下さい」と、こともなげに言う。
もしこの得体の知れぬ娘を連れて、駈落ちのように東京に帰ったら、それはもちろん、駒子への最大の裏切りである。駒子が気にしている葉子を連れて帰ることは、駒子にいちばん傷を与えることである。
それを島村は、「駒子への激しい謝罪の方法であるか」とも思うのである。駒子の一途に慕い寄ってくる愛を、島村は十分に自覚している。しかも、そんな駒子に対して、自分は何もしてやれないという呵責(かしゃく)が島村には深くある。そんな駒子への最大の謝罪が、思い切った裏切りであると、島村は考える。それほどまでに、駒子の愛の深さを知り、追いつめられているのだ。
こんな島村に呼応するように、少し後のところではあるが、駒子がこう言う一節がある。
「あの子を見てると、行末私のつらい荷物になりさうな気がするの。(中略)私の荷を持つて行つちやつてくれない?」(中略)
「あの子があんたの傍で可愛がられてると思つて、私はこの山のなかで身を持ち崩すの。しいんといい気持。」
駒子には、島村がそれほど遠くない先、自分を捨てて雪国を去るという予感がある。それを、自分の最もつらい方法で実行してほしい、その方が自分は捨てられたことが身にしみて、気が楽になる、というのである。
あの子があんたの傍で可愛がられてると思って、私はこの山のなかで身を持ち崩すの。――それは、駒子の何と哀切な愛情であろう。
そのように駒子の愛を牽制する存在として、葉子は描かれているのだ。
なお、初出にはないが、1937(昭和12)年に刊行された〈旧版『雪国』〉では、
「得体の知れない娘と、駈落ちのやうに帰つてしまふことは、駒子への激しい謝罪の方法であるかとも思はれた。」のあとに、「またなにかしら刑罰のやうでもあつた。」の1行が加えられている。定本も、加えられたままである。
「謝罪」「刑罰」――島村の、駒子に対する自責の感情を重く引きずった気持ちがよく表れている表現である。
小林秀雄の「文芸時評」
小林秀雄は、「火の枕」を、「作家の虚無感―川端康成の『火の枕』」と題して、「報知新聞」の「文芸時評」(1)で評した。単にこの作品だけを論じたというよりも、「雪国」論、川端康成論としても、その本質を射抜いた言葉と思われる。これについては、のちにもう1度考える予定であるが、とにかくその核心部分をここに引用しておこう。
しかし、この作品も、氏の多くの作品と同時に、その主調をなすものは氏の抒情性にある。ここに描かれた芸者等の姿態も、主人公の虚無的な気持に交渉して、思ひも掛けぬ光をあげるといふ仕組みに描かれてゐて、この仕組みは、氏の作品のほとんどどれにも見られるもので、これはまた氏の実生活の仕組みでもあるのだ。
氏の胸底は、実につめたく、がらんどうなのであつて、実に珍重すべきがらんどうだと僕はいつも思つてゐる。氏はほとんど自分では生きてゐない。他人の生命が、このがらんどうの中を、一種の光をあげて通過する。だから氏は生きてゐる。これが氏の生ま生ましい抒情の生れるゆゑんなのである。作家の虚無感といふものは、ここまで来ないうちは、本物とはいへないので、やがてさめねばならぬ夢に過ぎないのである。
「火の枕」につづく第7篇「手毬(てまり)歌」は、1937(昭和12)年5月号の『改造』に発表された。
「駒子が憎いつて、どういふわけだ?」
「駒ちやん?」と、そこにゐる人を呼ぶかのやうに云つて、葉子は島村を刺すやうに睨んだ。
「駒ちやんをよくしてあげて下さい。」
「僕はなんにもしてやれないんだよ。」
葉子の目頭に涙が溢れて来ると、畳に落ちてゐた小さい蛾を掴んで泣きじやくなりながら、
「駒ちやんは、私が気ちがひになると云ふんです。」と、ふつと部屋を出て行つてしまつた。
最後の1行は、「雪中火事」の終幕の伏線ともいうべき部分である。
――連載はここで終わって、翌6月に、創元社から、いわゆる〈旧版『雪国』〉が刊行される。
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/88be5ad7261da1dda852fbb933b679...
愛のゆくえ「雪国」 その10
「いい女」の意味
種々の雑誌に気随気ままに分載された「雪国」は、1937(昭和12)年6月12日、創元社から刊行された。いわゆる 旧版『雪国』である。
第7篇「手毬歌」までを加筆削除し、さらに八頁ばかり書き加えられている。
物語の冒頭は、現在も人口に膾炙(かいしゃ)する、次の名文に変わっている。
国境の長いトンネルを抜けると雪国であつた。夜の底が白くなつた。
この加筆のなかで、最も重要な箇所は、「いい女」をめぐる言葉のやりとりだろう。
その一人の女の生きる感じが温く島村に伝はつて来た。
「君はいい女だね。」
「どういいの。」
「いい女だよ。」
「をかしな人。」と、肩がくすぐつたさうに顔を隠したが、なんと思つたか、突然むくつと肩肘立てて首を上げると、
「それどういふ意味? ねえ、なんのこと?」
島村は驚いて駒子を見た。
「云つて頂戴。それで通つてらしたの? あんた私を笑つてたのね。やつぱり笑つてらしたのね?」
真赤になつて島村を睨みつけながら詰問するうちに、駒子の肩は激しい怒りに顫へて来て、すうつと青ざめると、涙をぽろぽろ落した。
「くやしい、ああつ、くやしい。」と、ごろごろ転がり出て、うしろ向きに坐つた。
島村は駒子の聞きちがひに思ひあたると、はつと胸を突かれたけれども、目を閉ぢて黙つてゐた。
「悲しいわ。」
駒子はひとりごとのやうに呟いて、胴を円く縮める形に突つ伏した。
島村は、単純に、駒子をいろいろの面から「いい女」と言ったのである。ところが駒子は、その意味をとり違えた。男に快楽を与える生まれつきの體をもっている女、という意味に受けとめた。
だから、「それで通つてらしたの?」「やつぱり笑つてたのね」と言い、「くやしい」と、ごろごろ畳を転がるのである。
駒子が部屋を出ていったあと、「島村は後を追ふことが出来なかつた。駒子に云はれてみれば、十分に心疚(やま)(やま)しいものがあった。」と考えるのである。
この箇所は、駒子について読者に新しい知識を与えるものであるが、以前、「夕景色の鏡」のところで大きく削除した部分を補った、とも考えられる。
まだ16、7の頃に、自分がどんなにいい女であるかを、男から噛んでふくめるやうに教へられ、その時はそれを喜ぶどころか、恥ぢるばかりだと、男はいよいよむきになつて褒めちぎつたので、やがて男の云ふことが彼女の頭の底に宿命のやうに沈みついてしまつたのだつた。
この削除した一節を、「いい女」という表現で補ったのではなかろうか。
「雪国」は、このあと、その次の朝、駒子が早くから島村の部屋に来て謡をうたうところで終幕を迎える。
今年初めての雪が降りはじめたのだ。紅葉の季節はもう終わりである。
島村は去年の暮のあの朝雪の鏡を思ひ出して鏡台の方を見ると、鏡のなかでは牡丹雪の冷たい花びらが尚大きく浮び、襟(えり)を開いて首を拭いてゐる駒子のまはりに、白い線を漂はした。
駒子の肌は洗ひ立てのやうに清潔で、島村のふとした言葉もあんな風に聞きちがへねばならぬ女とは、到底思へないところに、反つて逆らひ難い悲しみがあるかと見えた。
紅葉の銹(さび)色(にびいろ)が日毎に暗くなつてゐた遠い山は、初雪であざやかに生きかへつた。
薄く雪をつけた杉林はその杉の一つ一つがくつきりと目立つて、鋭く天を指しながら地の雪に立つた。
〈旧版『雪国』〉は、ここで閉じられる。紅葉の季節が終わり、初雪が降ったという季節の変わり目である。
作品集として少し頁が足りないので、「父母」「これを見し時」「夕映少女」「イタリアの歌」の四編が加えられている。いずれも、1936(昭和11)六年に各誌に発表されたものである。
「あとがき」はない。ただ各篇の初出が一覧として挙げられている。発行は1937(昭和12)年6月12日、定価1円70銭である。版元は、創元社。
このほか、この初版には、各誌に挙げられた讃辞・批評を集めたパンフレットがついていた。
「雪中火事」「天の河」
それから3年たった1940(昭和15)年、『公論』という雑誌の12月号に、突然「雪中火事」という川端康成の作品が掲載された。
はじめは、これまでの「雪国」とは少し趣きが変わって、「昔の人の本」が長々と紹介されているが、読んでゆくと、明らかに「雪国」の続編である。
旧版『雪国』は、3度めの旅の、季節が紅葉から初雪の降る場面で終わっていた。いわば終わりともいえない終わり方だった。
それに対して、この作品は、3度目の旅のつづきと思われる。
ふたりの愛の行く末がもう見えている、という書き方だった。
また駒子とかうしげしげ会ふにつれて、島村は動くのがいやになつた。うちへ帰るのも忘れた長逗留だつた。別れともないからではない。つかれてものういからでもない。いはば自分のさびしい姿を見ながら、ただぢつとたたづ(ママ)んでゐるのだつた。
駒子がせつなく迫つて来れば来るほど、島村は自分が生きてゐないかのやうに思はれ出した。駒子の熱い火に身のまはりをつつまれて、島村は自分のなかにも一点の小さいともし火が見えて来たが、それはなぜか死の象徴を感じさせた。駒子を愛する術さへ知らぬことが情なくてならなかつた。
駒子のすべてが島村に通じて来るのに、島村のなにも駒子には通じはしない。このやうな島村のわがままはいつまでも続けられるものでなかつた。駒子が形のない壁に突きあたる音を島村は雪の夜空に聞いた。
島村はこの温泉場から出発するはずみをつけるつもりもいくらかあつて、縮(ちぢみ)の産地へ行つてみることにした。
ここには、ふたりの愛の行き違いが、はっきりと書かれている。
「駒子のすべてが島村に通じて来るのに、島村のなにも駒子には通じはしない。」それを康成は、「駒子が形のない壁に突きあたる音を島村は雪の夜空に聞いた」と表現する。
島村はもう、別れなければならない、と思っているのだ。この温泉場を自分が去るしかない、と思っている。そのはずみをつけるために、縮の産地へ行ってみようかと考えるのである。
雪中火事の構想
いったいなぜ、康成は続編を書くというような無謀を企てたのだろうか。
この点について康成は決定版『雪国』(創元社、1948〈昭和23)年12月25日刊行)の「あとがき」に、こう書いている。
昭和12年に創元社から出版し、その後改造社版の私の選集や1、2の文庫本にも入れた「雪国」は実は未完であつた。どこで切つてもいいやうな作品であるが、始めと終りとの照応が悪いし、また火事の場面は中頃前を書く時から頭にあつたので、未完のままなのは絶えず心がかりであつた。しかし、本にまでなつて1度この作品を片づけて立ち去つた気持も強く、残りはわづかながら書きづらかつた。
これによると、続きを書く気持になった原因は2つ――ひとつは、始めと終りとの照応が悪いこと、もうひとつは、雪中火事を書く構想が、かなり早くからあったことである。
この2つのために、康成はあえて、1度本に出したものの続編を書くというみっともないことに、踏み切ったのであろう。
このうち、後者については、すでに重要な指摘がなされている。
「雪国」について精力的な探求をつづける平山三男は、「『雪国』の虚と実――『雪中火事』の新資料報告――」(『解釈』1977・1・1)において、重要な資料を提示して解説を加えている。また『遺稿「雪国抄」――影印本文と注釈論考――』(至文堂、1993・9・20)でも詳しく述べられている。
平山によると、1935(昭和10)年10月22日、越後湯沢で火事があった。火が出たのは、「有限責任 湯沢乾繭(かんけん)場劇場 旭座」である。これは当時、湯沢村、神立村など5つの村の組合による共同経営がなされていたもので、集められた繭(まゆ)を乾燥するのが本来の目的だが、蚕(かいこ)の合間や冬期には劇場にも使われ、映画や素人歌舞伎・芝居などが演じられた建物という。
火事の当日は、神立村の青年会が、会の活動資金を得るため、長岡から映画の上映権を買ってきて映画を上映していた。
2巻目の「あゝ玉杯に花うけて」を上映中、夜9時ごろ、出火した。
その様子は、「雪国」の中で宿の番頭がいう「活動のフイルムから、ぼうんといつぺんに燃えついて、火の廻りが早いさ」という言葉どおりであったという。
1935(昭和10)年10月のこの時期、康成は、この湯沢に長期滞在していた。「物語」と「徒労」を書いたときである。まだ雪は降っていなかった。
この火事を目撃したことが、康成の「雪国」執筆に大きな波紋をもたらした。
平山は、その事実を証するため、第4次37巻『川端康成全集』補巻2に収録された水島治男宛て「昭和10年10月23日附」川端康成書簡(2の2)を紹介している。
(前略)この小説は「雪国」と題し、来年2月、もう1度ここに来て、最後を書きます。雪に埋もれた活動小屋の火事で幕を閉じやうかと、昨夜火事(繭の乾燥場に活動写真あつて焼けました。)を見て思ひつきました。
水島治男は『改造』の編集者であるが、注目すべきは、この時期、康成が「白い朝の鏡の続きを今書いてゐます」という点である。非常に早い時点で、雪中火事の構想が康成のうちに生じているのである。また作品も、「来年2月、もう1度ここに来て、最後を書きます」とあるように、決して長篇の構想があったのではなく、中編ぐらいの長さを康成が頭に描いていたことが推定されるのである。
このときの康成の湯沢滞在は1935年の9月30日から10月29日までの、1ヶ月に及ぶ長いものであった。
この時の日記が、以前に引用したように「『雪国』の旅」に掲載されているが、その掲載された期間は、同年9月25日から10月16日までである。
つまり康成は、「雪国」の手の内を読者に見せたふりをして、火事のあった22日以前の16日で、この日記を切っている。すなわち、絶好の素材となるであろう雪中火事の事実を、読者に知らせることなく、日記を打ち切っているのである。
鈴木牧之『北越雪譜』
書きおくれたが、「雪中火事」の冒頭は、鈴木牧之(ぼくし)の『北越雪譜』を引用したものである。
康成はこの書を、〈旧版『雪国』〉刊行後に知って読んだという。
ちなみに鈴木牧之は越後の商人で文人でもあった人(1770―1842)。『北越雪譜』は7巻から成り、越後の雪の観察記録を中心に、雪国の風俗、習慣、言語を記したもので、天保年間に刊行された。
康成はそのなかから、特に縮(ちぢみ)について書かれた部分を引用した。縮を織ることは、雪国の女たちの勤勉で我慢づよい性格をよく現し、それは駒子の美質に通じると考えたからであろう。また越後縮(えちご ちぢみ)の清涼な肌合いが駒子の清潔な気質にも通じると考えたからであろう。
縮の肌に涼しいのを書いたあと、「島村にまつはりついて来る駒子にもどこか根の涼しさがあつた。そのためによけいに駒子のみうちのあついひとところが島村にあはれであつた。」と記した1節が、そのことを語っているだろう。
もう1つ、以下の1節も、この作品に深いところで通じていると思ったに違いない。
しかしその無名の工人は無論とつくに死んで、その縮だけが残つてゐる。その暮しの苦しみはこの世に跡形(あとかた)(あとかた)もなく消えて、ただその美しいものだけが生きてゐる。なんの不思議もないことが島村はふと不思議であつた。
恋愛も、その過程のさまざまな葛藤(かっとう)は時間が過ぎるときれいに消えて、ただ恋愛の名残りだけがはかない美しさとして残されてゆく。あるいは、恋愛の実質は跡形なく消えて、あとにはなにも残らない。
その不思議が、縮(ちぢみ)の不思議と重なると考えられたからではあるまいか。
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/2b7102eebd22144442d2ba45201c22...
愛のゆくえ「雪国」 その11
「天の河」の構想
「雪中火事」の続編「天の河」は、それから8ヶ月たった1941(昭和16)年8月に、『文藝春秋』に発表された。
「雪中火事」の終わりでふと2行、天の河が描かれる。
「天の川、きれいねえ。」と駒子はつぶやきながら、また走り出した。
島村は空を見上げたまま立つてゐた。
「天の河」は、これを受けて書き出されている。
康成がおそらく渾身(こんしん)の力をこめて観察したに違いない天の河の描写が、描かれる。
ああ、天の河と、島村も振り仰いだとたんに、天の河のなかへ體(からだ)がすつと浮き上つてゆくやうだつた。天の河の明るさが島村を掬(すく)ひ上げさうに近かつた。旅の芭蕉が荒海の上に見たのは、このやうにあざやかな天の河の大きさであつたか。裸の天の河が夜の大地を素肌で巻かうとして、直ぐそこに降りてきてゐる。恐ろしい艶(つや)めかしさだ。
康成はここで、芭蕉が佐渡を詠んだ一句の大きさを思い出している。
荒海や佐渡に横たふ天の河
荒海を前景として、眼前に黒々と横たわる佐渡の島。その海と島のすべてを巻くように、全天に拡がる冴えわたった天の河――。
康成が島村に託して描いた、巨大な、荒々しい、それでいて艶めかしい天の河こそ、卑小な人間世界と対比される自然の広大さであった。
「ねえ、あんた私をいい女だつて言つたわね。行つちやふ人がなぜそんなこと言つて、教へとくの? 馬鹿。」
女のあたたかい哀しみが島村を絞めつけた。
「泣いたわ。離れるのこはいわ。だけどもう早く行きなさい。言はれて泣いたこと、私忘れないから。」
人間の世界の、小さな、だが何と一生懸命な、美しい言葉だろう。
この篇は、次の行によって終わりを告げる。
島村も新しい火の手に眼を誘はれて、その上に横たはる天の河を見た。天の河は静かに冴え渡つてゐた。豊かなやさしさもこめて、天に広々と流れてゐた。
ここで「天の河」、すなわち追加された「雪国」は結ばれる。素人にも、平凡すぎる終幕と思われる。
「雪国抄」「続雪国」
以上2編が発表されたのは、まだ太平洋戦争開戦以前の1940、41(昭和15、16)年のことであった。
それから5年後の1946(昭和21)年、戦争も終わった敗残の国土のなかで、康成は三たび筆をとって、「雪国」の続編を新しく書き直して発表した。
「雪国抄」は、『暁鐘』1946年5月号に発表された。
「雪国抄」の、冒頭は、『北越雪譜』を踏まえて、「雪中火事」と、ほとんど同文である。ただ途中から、引用部分を大幅に削って、引き締まった文章となっている。
また「雪中火事」で引用した、作品の核となる部分は、彫琢(ちょうたく)されて、珠玉のような名文へと変貌している。
妻子のうちへ帰るのも忘れたやうな長逗留だつた。離れられないからでも別れともないからでもないが、駒子のしげしげ会ひに来るのを待つ癖になつてしまつてゐた。さうして駒子がせつなく迫つて来れば来るほど、島村は自分が生きていないかのやうな呵責がつのつた。いはば自分のさびしさを見ながら、ただぢつとたたづんでゐるのだつた。
駒子が自分のなかにはまりこんで来るのが、島村は不可解だつた。駒子のすべてが島村に通じて来るのに、島村のなにも駒子には通じてゐさうにない。駒子が虚しい壁に突きあたる木霊に似た音を島村は自分の胸の底に雪が降りつむやうに聞いた。このやうな島村のわがままはいつまでも続けられるものではなかつた。
こんど帰つたらもうかりそめにこの温泉場へは来られないだらうといふ気がして、島村は雪の季節が近づく火鉢によりかかつてゐると、宿の主人が特に出してきてくれた京出来の古い鐵瓶(てつびん)で、やはらかい松風の音がしてゐた。(中略)
島村は鐵瓶に耳を寄せてその鈴の音を聞いた。鈴の鳴りしきるあたりの遠くに鈴の音にほど小刻みに歩いて来る駒子の小さい足が、ふと島村に見えた。島村は驚いて、最早ここを去らねばならぬと心立つた。
そこで島村は縮の産地へ行つてみることを思ひついた。この温泉場から離れるはずみをつけるつもりもあつた。
島村は汽車に乗って、さびしそうな駅に降りる。そうして雁木(がんぎ)の連なる、昔の宿場町らしい町通りを歩いて、また汽車に乗る。もう1つの町に降りる。寒さしのぎにうどんを1杯すすって、また汽車に乗り、駒子の町に帰ってくる。
車に乗って宿に帰ってゆこうとすると、小料理屋菊村の門口で立ち話をしている一人が駒子だった。
駒子は徐行した車に飛び乗って、窓ガラスに額を押しつけながら、「どこへ行った? ねえ、どこへ行った?」と甲高く叫ぶ。
「どうして私を連れて行かないの? 冷たくなつて来て、いやよ。」
突然擦り半鐘(すりはんしょう)が鳴り出した。
二人が振り向くと、
「火事、火事よ!」
「火事だ。」
火の手が下の村の真中にあがつてゐた。
「雪国抄」は作品が長くなって、「雪中火事」では、火事の発端だけだったのが、もう少しつづけて書いてある。
作品の終わりに、作者の言葉がある。
――10年前の旧作「雪国」は終章を未完のまま刊行し、折節気にかかつてゐたが、ここにとにかく稿を続けてみることにした。既稿の分も改稿して発表し得たのは本誌編輯者の雅量による。作者――
「続雪国」の新展開
つづけて、1年あまりを経た1947(昭和22)年10月、『小説新潮』に最終篇「続雪国」が発表された。
火事のつづきである。繭倉(まゆぐら)で映画のあったことがわかって、駒子のあとを追って島村も繭倉の方へ駆け出す。
「天の河。きれいねえ。」という駒子の声に誘われて、島村は空を見上げる。
1941(昭和16)年の「天の河」と同じく、芭蕉の見た天の河を連想する。
しかし次がこれまでと異なる。
あつと人垣が息を呑んで、女の體が落ちるのを見た。
やがて、それが失心(ママ)した葉子だとわかる。
――10年を経て、康成は葉子の失心と墜落という、物語の新しい展開、物語のフィナーレを思いついたのだ。
葉子はあの刺すやうに美しい目をつぶつてゐた。あごを突き出して、首の線が伸びてゐた。火明りが青白い面の上を揺れて通つた。
幾年か前、島村がこの温泉場へ駒子に会ひに来る汽車のなかで、葉子の顔のただなかに野山のともし火がともつた時のさまをはつと思ひ出して、島村はまた胸が顫へた。一瞬に駒子との年月が照し出されたやうだつた。なにかせつない苦痛と悲哀もここにあつた。
「幾年か前」という表現に注意したい。島村が葉子を初めて見たのは、2度めの旅、12月だった。3度めの旅は、それから10ヶ月後の10月から、この冬まで。長逗留で、今が1月とも2月とも判別しがたいが、いずれにしても、葉子を初めて見てから今まで、1年とちょっとである。
「雪国」の正確な年立(としだて)という問題からみれば、ここは明らかに作家の錯誤である。
だが、そうだろうか。
この濃密で緊張感にみちた島村と駒子の愛を読んできた読者には、ふたりの仲は3年にも4年にも、あるいは5年にも感じられる。
その読者の錯誤を考えると、ここは正確に「一年ちょっと前」と書いてはならないのである。「幾年か前」と朧化(ろうか)されることによってはじめて、島村と駒子の、のっぴきならぬ愛情の積み重ねが読者に納得させられるのだ。
もう1つ大切な部分は、「一瞬に駒子との年月が照し出されたやうだつた。」とある一行である。
「雪国」という作品にとって、葉子は重要な存在である。3度めの旅の紅葉の季節には、葉子は「東京に連れて行つてください」と島村に頼み、島村もこの「得体の知れない娘と駆け落ちのやうに東京へ帰る」ことは、駒子への最大の謝罪だと考えた瞬間もあった。
そのように葉子は、島村と駒子のあいだにあって、駒子と島村の愛の成り行きを、刺すような美しい目で、じっと観察する存在としても考えられた。
島村はいま、失心した葉子を見ながら、初めて葉子と会ったとき、汽車の夕景色の流れの中に映った、葉子の顔のなかにともったともし火を思い浮かべている。あれからの歳月、それは駒子と過ごした歳月でもあったのだ。
島村の内部に「なにかせつない苦痛と悲哀」が湧き上がるのに、何の不思議もない。
葉子の失心と墜落というアイデアが、駒子との歳月を写し出す鏡のような葉子の役割を、ふたたび思い出させたのである。
「この子、気がちがふわ。気がちがふわ。」
さう言ふ声が物狂はしい駒子に島村は近づかうとして、葉子 を駒子から抱き取らうとする男達に押されてよろめいた。
さあつと音を立てて天の河が島村のなかへ流れて来た。
康成は、最後に推敲して単行本にするとき、この最後の部分を、次のように改変した。
「この子、気がちがふわ。気がちがふわ。」
さう言ふ声が物狂はしい駒子に島村は近づかうとして、葉子を駒子から抱き取らうとする男達に押されてよろめいた。踏みこたへて目を上げた途端、さあと音を立てて天の河が島村のなかへ流れ落ちるやうであつた。
この最後の場面は、長い物語の終焉として、まことに劇的なものであろう。
駒子の愛の高まりと、それを受けとめる島村の追いつめられた意識が、物語の最後近くで、どうにも身動きできない状況になる。
島村が、この雪国を去るしか、とるべき道は残されていないのである。
物語のフィナーレに火事が起こり、その火事という非日常的な出来事の喧噪をはるかに見下ろすように、すべての人々を包み込むような壮麗な天の河が天空いっぱいに広がる。それに気づいた島村に流れ落ちるかと思われて、物語は結ばれる。
伊藤整は、新潮文庫『雪国』の解説(1947〈昭和22〉・7・16)において、次のように作品の終幕の必然性を説いている。
生きることに切羽つまつてゐる女と、その切羽詰りかたの美しさに触れて戦(をのの)いてゐる島村の感覚との対立が、次第に悲劇的な結末をこの作品の進行過程に生んで行く。そしてその過程が美の抽出に耐へられない暗さになる前でこの作品は終らねばならぬ運命を持つてゐるのである。
――11年間にわたる、康成の格闘がここに終わった。
この「雪国抄」「続雪国」の2編にさらに彫琢を加えて、1948(昭和23)年12月25日、創元社から〈決定版『雪国』〉が刊行される。
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/3c9d030fb609dbf9dfc7cdaab6f4e2...
愛のゆくえ「雪国」 その12(最終回)
「雪国」は、どのような作品か
……これまで、プレオリジナル(初出)を中心に、「雪国」の要(かなめ)となる部分を見てきた。そのつど、意味するところは書いてきたはずである。
しかし、それでは、「雪国」は、結局どのような作品なのか。
以下を書くために、わたくしはこれまで、作品の細部を見てきたといってもいいくらいである。
さて、「雪国」の本質を考えるとき、当然ながら、この作品の視点人物たる島村とは何者であるか、について考えさせられる。
この場合、かつて「火の枕」が発表されたとき、小林秀雄が「報知新聞」に書いた「文芸時評」の一節が、川端康成理解の有力な手がかりとなる。(「作家の虚無感―川端康成の『火の枕』」)
小林は、康成の抒情性の本質を、次のように喝破した。
しかし、この作品も、氏の多くの作品と同時に、その主調をなすものは氏の抒情性にある。ここに描かれた芸者等の姿態も、主人公の虚無的な気持に交渉して、思ひも掛けぬ光をあげるといふ仕組みに描かれてゐて、この仕組みは、氏の作品のほとんどどれにも見られるもので、これはまた氏の実生活の仕組みでもあるのだ。
氏の胸底は、実につめたく、がらんどうなのであつて、実に珍重すべきがらんどうだと僕はいつも思つてゐる。氏はほとんど自分では生きてゐない。他人の生命が、このがらんどうの中を、一種の光をあげて通過する。だから氏は生きてゐる。これが氏の生ま生ましい抒情の生れるゆゑんなのである。作家の虚無感といふものは、ここまで来ないうちは、本物とはいへないので、やがてさめねばならぬ夢に過ぎないのである。
この川端評は、そのまま「雪国」の島村に通じるのではないだろうか。特に後半の評言「がらんどう」は、「雪国」の本質をみごとに言い当てている。
この小林の言葉をわたくしなりに翻訳すると、まず、島村の胸底は、虚無という「がらんどう」である。「禽獣」の「彼」と同じ構造をもっている。その虚無の胸底を、彼の見た生命体の美しさが、「一種の光をあげて」通過する。それが「雪国」という作品である。
つまり島村は生きていながら、生きていない。彼はただそこに在るだけである。彼の眼に映じたもののうち、彼のうつろな胸底を、美しいと戦慄するように通り過ぎたものだけを、彼はすくい取り、それを彼は胸にしっかりしまい込むのだ。
読者は、その島村の厳しい眼を通過した美しいものだけを受け取り、それを美しいと感じることができるのである。
すなわち島村は胸底に虚無をたたえた冷ややかな感受性の持ち主であって、彼は蜘蛛が身のまわりに繊(ほそ)い糸をはりめぐらすように、
鋭い感受性をはりめぐらしていて、美しいものが通り過ぎるのを待っている。
駒子のさまざまな姿態や言葉も、葉子の刺すような目も澄んだ声も、すべて彼の蜘蛛の網にかかる。
それを彼は、こわれぬように繊細な手つきによって言葉に変え、そっと読者の前に提示するのである。
読者が享受するのは、そのようにして川端康成の胸底を通過した美しいものだけである。この場合、島村は、そのまま川端康成自身である。
伊藤整の島村観
戦前戦後にかけて、川端康成について最も多く発言し、またその理解が深いと思われるのは、前掲の『川端康成作品研究史』を執筆した林武志が指摘するように、伊藤整である。
その数々の文章のなかで、ここでは「川端康成の文学」(『作家論Ⅱ』角川文庫、1964〈昭和39〉年・12・10に収録。初出は『東京新聞』1953年2月とあるが、該当する文章は掲載されていない)の、「雪国」について述べた部分から、その核心となるところを引用してみよう。
主人公の島村は作者の説明では「自然と自身に対する真面目さも失ひがちな」無為徒食の人間で、山を好み、舞踊が好きだ、と簡単に書かれてゐる。しかし、それはどうでもよいことで、美と生命の燃焼を求める感受性の細い絃が島村といふ人物の中に縦横に張りめぐらされてゐるのである。
その絃に触れる美は悉(ことごと)く音を立てるが、生活そのものはその絃に触れることがない。だから、その生き方において悲しいまでに真剣な駒子のやうな存在、またその駒子よりももつと張りつめた生き方をしてゐる葉子の存在は、生活者としては島村に触れることなく、ただその張りつめた生き方の発する美の閃光(せんこう)としてのみ島村に把へられる。そこから島村と駒子の間、島村と葉子の間に、接近すればするほど行きちがふといふ悲劇が生れる。
島村が美の感受者として自分の周囲に独特の世界を見出して作つて行くさまは、光を持つた人間が闇の中を歩くのに似る。
この理解は、先述の小林秀雄の理解と相通ずるところがあると思われる。
伊藤整は別のところでも、島村を「美しく鋭いものの感覚的な秤(はか)り」と述べている。
山本健吉の「雪国」観
少し後れて、川端康成の文学に深い共感を示し、駒子と葉子を、能のシテとツレと見立てた山本健吉の「雪国」観も、見ておく必要があるだろう。
山本は『近代文学鑑賞講座13 川端康成』(角川書店、1959〈昭和34〉・1・10)の編著者であるが、この創見に満ちた1冊の書で、山本は次のように述べている。
……自分を全然人生の葛藤の渦中から外側に置いて、駒子や葉子のなかに瞬間的に現れる純粋な美の追究者として、人生的には非情の傍観者としてふるまうところに、この作品の世界が成立していると言えるのである。(中略)
このような純粋に審美的なものの追求、生活の塵埃(じんあい)から、雪国の別世界への感受性の逃避行そしてそのことによって、女心の哀愁と美とを捕えようとしたのが、この作品なのである。
……伊藤整や山本健吉から、以後、たくさんの研究者たちが出て、「雪国」や島村について、さまざまな考察を提示した。
しかしわたくしは、ここまで引用してきた小林秀雄、伊藤整、山本健吉らの考えを、「雪国」の本質を衝いたものとして、自分の「雪国」観を少しも改める気にはならないのである。
駒子のモデルと和田芳恵
……1957(昭和32)年の正月5日、評論家の和田芳恵は、写真家大竹新助とともに、新潟県南蒲原(かんばら)地方の三条市に、駒子のモデルとされる小高キクを訪ねた。雑誌『婦人朝日』に「名作のモデルをたずねて」を連載する、その第1回のためである。
途上の湯沢では、豊田四郎監督、池辺良、岸恵子主演で「雪国」がはじめて映画化されることになり、その撮影で大騒ぎの最中であった。
そのころ、かつて越後湯沢で芸者松栄として出ていたキクは、三条市の仕立物師・小高久雄の妻となって、小高キクとなっていたが、条理のわかった夫の協力もあって、この日の取材となったのである。
以下は、この和田芳恵の記述「名作のモデルをたずねて(一)」(『婦人朝日』1957〈昭和32〉・3・1)によったものである。
キクの本名は丸山きく。三条市島田に、1915(大正4)年11月23日、鍛冶屋(かじや)の長女として生まれた。兄がひとりあったが、十人兄弟の大所帯であった。
川端康成と出会った1934(昭和9)年には、ちょうど数え20歳であったことになる。
数えで10歳の7月15日に小学校をやめて、長岡市の立花家という芸者屋の下地っ子に出された。当時、南蒲原地方では、生活のために娘を芸者にすることを、さほど不思議と思わない風習があったという。
長岡には、下地っ子のための特殊な学校があって、きくはそこに通ったそうだ。
1928(昭和3)年、17歳になったきくは、湯沢の若松屋という芸者屋から松栄という芸名で出ることになった。年期は3年であった。
しかし和田芳恵のここの記述はおかしい。1928年なら、キクは14歳だったはずである。これは年号の方が不確かで、「17歳」の方が正しいと考えたい。
清水トンネルが開通した年(といえば1931〈昭和6〉年のはずだが、和田は1930年と書いている)、湯沢駅前の土産物店兼自動車屋に、峠(とうげ)豊作という運転手が雇われた。
豊作は、1912(大正元)年の生まれ。きくと3つ違いだ。新潟県東南部の織物で名高い塩沢の、うどん屋の息子であったが、蕎麦(そば)づくりの技術を覚えるため、1928(昭和3)年に上京、日本橋室町の更科(さらしな)に弟子入りしたのだが、その仕事がいやになり、自動車の運転手になった。当時、運転手は、はなやかな職業であった。
22歳の美貌の豊作と19歳のきくは、やがて深い恋仲となった。小説「雪国」は、この年から書き始められている。
この土地では、芸者の住んでいる部屋を「きりやど」という。たいてい置屋の母屋から廊下でつづいているが、母屋からは離れている。そこに客が泊まることもあった。
豊作は仕事がすむと、夜が更けたころ「きりやど」から、きくを呼び出し、ひっそりした湯舟につかって、あまい恋をささやいたという。「ふたりはしあわせに夢のような日をおくっていました」と和田は書いている。
きくは豊作と一緒になりたいと考えていたが、3年の年期を終えて家に帰ると、すぐ富山県の高岡に、また芸者として出なければならなかった。このときの身代金で、親は住む家を建てた。芸名は、いろは、だった。
しかし高岡では我慢のならないことがあった。それは、抱え主が芸者に客をとることを強要したことである。
1932(昭和7)年、18歳の松栄
きくは、「21歳になった昭和7年の8月に、湯沢へ住みかえました」と和田は書いている。(年齢か年代か、どちらかが間違っている。平山三男の調査によれば、数え18歳の1932(昭和7)年が正しい。
そのときの置屋が豊田屋で、抱えは三人いた。松栄(まつえ)という名が通っていたので、今回も松栄で出た。
豊作との仲は、この土地では誰知らぬ者はないほどであった。きくは、豊作の兄貴分であった人を通して、年期があけたら一緒になってほしいと申し入れた。豊作は喜んで、かたい約束をした。ふたりは夫婦きどりでつき合っていたが、1937(昭和12)年の秋、豊作に召集令状が来て、高田に入隊することになった。そこで双方の親を説得して仮祝言をあげた。
ところがじつは、きくには、東京に旦那がいた。60に近く、めったに来ることはなかった。その旦那が話を耳にして、どうしても手放さないと言い、きくは豊田屋をやめて上京し、旦那に囲われることになった。26歳のときだった。
豊作の部隊は中支の漢口に行き、豊作はここで3年の軍隊生活を送り、現地で2年、軍属をしてから陸軍病院の酒保に店を出した。生活が安定したので、きくを呼び寄せる手続きをして、このとき初めて、きくに長いあいだ裏切られていたことを知った。
和田芳恵は、峠豊作にも会って、取材している。この『週刊朝日』には、峠の近影も掲載されている。
峠は、和田芳恵に、きくと、結婚の仮祝言をすませた仲であることを認めた。また康成を定宿の「高半」へ幾度も送り迎えをしたことなども話したという。
1958(昭和33)年の取材の当時、峠は東京の八重洲口に近いところで料亭を営んでいた。
松栄のその後
一方、きく
-
8
777
-
9
777
-
10
777
2012.02.09 越後湯沢 ~川端康成の「雪国」~ (その1)
http://hobbyland.sakura.ne.jp/Kacho/tabi_yukeba/2012/2012_0209_Yuzawa/...
越後の雪景色を眺めて参りましたヽ(・∀・)ノ
北陸の雪が結構な積もり具合になっているそうなので、今年も越後湯沢に出かけてみた。
季節は厳冬期…雪の世界を味わうには丁度よい頃合である。ただし毎度毎度 「雪だ~ヤッホー」 で終わってしまうのもアレなので、今回は川端康成の 「雪国」 の雰囲気を味わいつつ、ゆるゆると巡ってみることとしたい。
今回のテーマがなぜ川端康成なのか…ということについては、実はたいした意味はない。たまたま湯沢に関連した有名人でもあるし、雪に絡んだ小説を書いているのでまあ取り上げてみようという程度の動機である。…といっても凡百の作家と違って 「日本人初のノーベル文学賞受賞」 という看板を背負っているだけに、その存在感には一定の重みと権威がある。日本人であれば教養のひとつとして知っておくべき作家といえるだろう。
…しかしながら筆者はこの作家の作品をちゃんと読んだことが実はなかったのである(笑 ^^;) 大慌てで書店で文庫本を買い込み、斜め読みで内容をチェックしたのは内緒だw
ちなみに筆者の購入した新潮文庫版は既に145刷。戦前の作品なのにいまだに現役で売れているというのはちょっと驚きで、新潮文庫の売れ行きランキングでもなんと歴代7位だそうである。…いったいどんな人が買っているのだろう。
※ちなみに 「雪国」 は有名な割に実際には読まれていない小説ランキング(なんだそりゃ)の上位にも安定して入っているらしい。往年の岸恵子目当てに映画だけ見て済ませた人も多いのではないかと思うのだが、当時筆者はまだ生まれていないので残念ながら映画の記憶というのはない。…かすかに覚えているのは、子供の頃に見たTV番組で川端康成の特集を放送していて、そこに雪の中を走る蒸気機関車のビデオ映像が流れていたことくらいである。
■越後湯沢への道
さてそんな訳で熊谷の秘密基地を発進し、花園ICから関越道に乗って関東平野をゆるゆると北上していく。
この日は冬の関東らしい良く晴れたカラカラの天候具合であった。日本海でたっぷりと水分を補給したシベリアからの季節風は、北陸の山岳地帯で大量の雪を降らせて水分を吐き出し空っ風となって関東平野に吹き降ろしてくる。
その境界線となっているのが向こうに見える谷川連峰である。標高2000mに満たない山々の連なりだが、これほどまでに劇的な気候区分を現出している山列というのも珍しく、律令の草創期からここは地域の境界区分として中央に認識されていた。即(すなわ)ち上野国、越後国の国境である。
かつてはこの山脈を越えるほとんど唯一の道(※)が、三国峠(みくにとうげ)を通っていた。現在では国道17号線となっている三国街道(みくにかいどう)である。急峻な谷川連峰のピークを避けて少しでも低くなだらかなルートを通るように作られた道で、その起源がいつごろまで遡るのかは定かではないが、万葉集(巻七、第一三六七首)に
三国山こずえに棲まふ
むささびの鳥待つ如く
我待ち痩せむ
と峠のある山が歌われていることから奈良時代には既に人の往来があったものと思われる。
ただし "街道" とはいっても実質的には登山道に毛の生えたような時代が長く続き、雪が降れば交通は途絶した。大量の物資を運べるほどの道幅もなく、道路整備が進んでクルマが峠を越えられるようになったのは時代が大幅に下って、なんと昭和も30年代になってからのことである。それまでの間、特に冬季の長期間の途絶は、長い歴史を通じて上州と越後の情緒の違いを醸成してきた。今筆者が湯沢に向かっているのもその情緒の残照のようなものを求めている訳で、この地方における雪の風情というのは今でも上質の吟醸酒の趣をもって我々を引き寄せている。
その一方で、近代になって造られた鉄道および高速道路は、最短ルートで谷川岳をぶち抜いて水上(みなかみ)から湯沢に抜けるコースをとっている。こちらは情緒だの歴史だのといった甘っちょろいものとは無関係に、費用対効果を算盤勘定して最も投資効果の高くなるように造られた。おかげで在来線、新幹線、高速道路がほとんど同じコースを通って谷川岳の山腹にトンネルを穿(うが)つことになり、人家の稀な山中で交通インフラの奇妙な密集状態を生じている。
これらの新・交通インフラの開通年代は、国鉄(当時)の上越線が昭和6年(1931)、上越新幹線が昭和57年(1982)、関越自動車道が昭和60年(1985)であった。国道17号線が自動車で通れるようになったのは昭和32年(1957)だが、当初は未舗装の隘路であり、苗場で開業したばかりのスキー場に群馬県側からクルマで乗り込むのでなければ、上越線で湯沢に抜けてそこからバスに乗ったほうがよほど快適に移動することができた。
※谷川連峰から福島県寄りの清水峠を通る古道もあったが、湯沢を経由しないルートなのでここでは言及しない。
※三国峠を車が通れるようになった最大の要因は、急峻な峠の頂上部をトンネルでショートカットしたことである。
川端康成が湯沢にやってきたのは昭和9年のことである。上越線の開通からわずか3年、まだまだ古い情緒を残していた湯沢の**に、当時最新の交通機関(電気機関車に牽引された旅客列車)でこの小説家はやってきた。
…が、残念ながらその季節は厳冬期ではなく6月だったそうで、小説の情緒とは微妙に一致しない。この初回の訪問で川端は鄙びた湯沢の風景を気に入り、その後何度も通うようになっていくのである。彼が雪を見たのはその年の3回目の訪問の時であった。
当初川端康成は群馬県側の水上温泉を訪れていたようで、宿の人に薦められてトンネルを越えた湯沢までやってきたらしい。「水上よりよほど鄙びていた」 と後に川端は好意的に述べているが、その後の展開をみれば水上温泉にとっては逃がした魚はピラルクー並みに巨大だったともいえるかもしれず、なんとも惜しいことをしたものである。
とはいえ水上温泉はほぼ同じ頃に太宰治や北原白秋、与謝野晶子、若山牧水などが逗留していて、谷川岳の関東側の山麓に開けた利便性から湯治場としては湯沢よりよほど発展していた。川端康成のノーベル賞のインパクトがなければ、関連する作家数の多い水上温泉のほうがよほど観光資源には恵まれているのである。
さて狭い山間の盆地でもあり、湯沢ICから降りるともう温泉街なのだが、今回はひとまず温泉はスルーして谷川岳に向かって逆走してみることにした。
どうしてそんな奇行(^^;)をするのかと言えば、せっかくの雪の季節なのだからミーハー路線全開であの 「トンネル」 を見てみたいと思ったのである。もちろん小説 「雪国」 の冒頭に出てくるアレのことだ。
それは土樽(つちたる)の最奥部にある。
■土樽へ
そんな訳で、湯沢**から離れて谷川岳側の土樽を目指すことにする。
土樽は狭い湯沢盆地にあって、谷川岳を背にした袋小路のような地勢にある小**である。その概要を湯沢側から俯瞰するとこの↑ようになる。
鉄道や高速道路が開通する以前の土樽は、この地域の主要幹線道路=旧三国街道からは外れた僻地であった。新潟から六日町を経由して湯沢までやってきた旧三国街道は、湯沢をすぎると三国峠を目指して隣の三俣盆地のほうに行ってしまう。山を越えて関東側に抜ける主要道は他にはなく、おかげでこの地区は人の往来からは外れて、近世まで辺鄙な山間**のまま昔の風情を保った。
ここが文明の恩恵に浴したのは(…などと書くと現地の人に叱られそうだけれども ^^;)、上越線が開通して清水トンネルから抜けてきた列車のために信号所が置かれたあたりからではないだろうか。信号所は後に土樽駅となり、越後国最奥部の駅として今も存続している。小説 「雪国」 の雰囲気を味わうのであれば、新幹線の巨大な駅を抱えて近代リゾートホテルの林立してしまった湯沢温泉街よりも、この土樽駅の周辺を散策したほうが良いという声は多い。
さて土樽は番地としてみると湯沢温泉街の数倍の面積を誇る非常に広い地区である。民家はまばらで、農村ではあるのだが樹林帯が多く、耕地化されている面積はそれほど広くない。湯沢に隣接する岩原スキー場のあたりは水田が広がっているようだが、越後中里のあたりからはそれもあやしくなってくる。
実のところ筆者はこの地区の10mメッシュマップを最初に見たとき、狭い山間地ということもありもっと限界近くまで開墾されているのではないかと想像していた。
ところが現地に入ってみると案外そうでもなさそうで、まるで昔話にでも出てきそうな風景が続いているのである。
やがて湯沢温泉街から7kmほど谷川岳に寄ったあたりで土樽**に至る。現在 「土樽」 の地名で呼ばれているエリアは合併前の旧土樽村に相当し、大雑把にいって10km四方ほどの広さがある。湯沢に近い順に 原、荻原、中里、古野、松川 と小**が点在し、一番奥まったところがこの土樽**となる。
近代的市町村制が施行される以前はそれぞれの**が独立した村であった筈で、ここより奥に村がないところをみると、人が日常生活を営むことの出来るぎりぎりの環境がこのあたりまでだったのだろう。
今回とりあえずのランドマークとして目指している土樽駅は、その最後の**からさらに1.6kmほど奥に入ったところにある。清水トンネルはさらに500mほど奥だ。
どうしてこんな民家から離れたところに駅を作ったのかというと、さきにも述べたように最初は信号所として作られた施設をそのまま転用したためで、つまり客の都合というのはあまり考えられていない。さらに言えばここは長さ10kmもある清水トンネルを抜けるために開通当初から蒸気機関車ではなく電気機関車が運用されていて、そのための変電所が併設されていた。鉄道としてはこちらのほうがよほど重要で、やはり客の都合は二の次といえる。
かつては東京方面から鉄道でやってくると、トンネルを抜けた列車はまずこの信号所で一旦停車した。上越線は開通当初は単線で、ここを使って長いトンネルの前後で上り/下り列車の行き違いを行ったのである。上越線は客車よりも貨物列車の往来が多く、行き違いの列車待ちは頻繁にあったらしい。
なお群馬県側では現在の土合駅が開業当時はやはり信号所であり、同等の役割を果たしていた。ただしあちらには雪はほとんどなく、小説の舞台装置として見栄えがするのはやはり土樽の方だろう。
※ところで小説では描写が抜け落ちているけれども、信号所を過ぎると奇妙なループを描く松川トンネルを経て列車は湯沢に向かうことになる。これは昭和初期の機関車の登坂力に合わせ、なるべくゆるやかなスロープで標高差のある谷間の地形を通り抜けようとした涙ぐましい努力の跡である。…が、この偉大なる鉄道工学の成果も小説家の目にはあまり好印象としては残らなかったようで、すっかりスルーされているのは不憫としか言いようが無い(^^;)
さてそんな土樽駅と清水トンネルを目指してさらに奥に進んでみるのだが…最後の**を過ぎると除雪もかなりテキトーになってクルマ一台が通るのがやっとという状況になった。
途中で分岐点に差し掛かり、近接する駅とトンネルとどちらを優先するか…という割とどうでもよい順位について5秒ほど逡巡した後にまずトンネルのほうに向かってみた。…が、清水トンネルのすぐ脇まで伸びている筈の道は、ほどなく行き止まりになっていた。
もう周囲には民家はなく、どうやら湯沢町はここから先は除雪の必要なしと判断しているらしい。雪壁で視界はさっぱり効かないのでトンネルがどのへんにあるのかは不明である。うーん…困ったな。
仕方がないので一旦引き返し、分岐部に戻ってみると向こうからクルマが一台やってきた。…ということは、駅はあの向こう側ということかな。とりあえず行ってみることにしよう。
スノートレンチな道路はまもなく関越自動車道の高架橋下をくぐる。
「大型車の通行なんて考えていないぜ!」 的な桁下の狭さがなんとも投げやりな感じで僻地感をそそる。高架橋直下は天井をクルマが通り抜けるたびに遠雷のような音がゴォォォン…ゴロゴロ…などと響いていた。
さてその先は…と進んでいくと…あれれ?(@_@;)
…なんと、スノートレンチはやはり途中で行き止まりなのであった orz
除雪されているのは一昨年に営業終了した山荘の玄関先までで、クルマが1台置いてあるところを見るとどうやらオーナー氏はまだここに住んでいるらしい。…ということは、駅の存在よりも "ここに住民がいる" という文脈で道路の除雪が行われていると理解すれば良いのだろうか。
ナビをみると目的地まではあと250mくらいであるらしい。
せめて駅までは通れるようにしておいて欲しいところだが…いずれにせよ土樽駅までの道筋は実際には通ることができない。割と有名な場所なのに、まさかこんな状況になっているとはちょっと意外だったな( ̄▽ ̄;)
山荘の主人らしきご老体が出てきたので 「駅までいけますかね?」 と聞いてみたところ、「あ~、この先クルマは通れないよ~」 との返事が返ってきた。「歩いてなら行けるよ~」 とも言ってもらえたけれど、さすがに2mを超える積雪を人力ラッセルしながら進むのはちょっと遠慮したい(^^;)
しかしそのままリターンではちょっと悔しいので、視界が通るあたりまで雪壁を登ってみた。正面に見えているのがどうやら上越線の変電施設らしく、駅舎はちょうど手前の樹木で隠れてしまっている。周辺にぽつり、ぽつりとある建物は山小屋だそうで、いずれも道が通じていない(=除雪されていない)ところをみると、もう使われていないようだった。
実はここにはかつて土樽スキー場というのが営業しており、それなりの賑わいをみせていた。
スキー場ができたのは昭和16年のことで、「雪国」 が書かれた昭和10年前後の寂しい風情は、なんとわずか5~6年後にはリゾート開発で賑やかに変貌していたのである。ちなみに土樽駅はほとんどこのスキー場の専用駅のような位置関係にあり、ホームから直接ゲレンデに出ることが出来た。土樽**までには遠い立地の駅だが、スキー客には便利であったに違いない。
この昭和10年代というのは湯沢駅周辺でもボーリングで新源泉が次々に掘り当てられやはり開発が急速に進んだ時期で、かつての古い宿場から新源泉の点在する西側斜面沿いに市街地が増殖していく途上にあった。新源泉は最終的に15箇所まで増え旧源泉を遥かに越える規模となり、付近の様相は一変してしまった。温泉街の中心が、大きく新源泉の区域=湯沢駅周辺側に移動したのがこの頃である。
…それを思うと、川端康成が湯沢に滞在した昭和9年~12年というのは、開発のまだ端緒の時期で昔の風情が壊されていないぎりぎりの時期だったといえそうだ。小説に描かれた湯沢の情景というのは、時代性からいえばには極めてピンポイントなものなのである。
ところで土樽スキー場に話を戻すと、「雪国」 の映画化や川端康成のノーベル文学賞受賞によるブームに乗って昭和の終わり頃までは順調に営業していたようだが、新幹線の開通で主要客を越後湯沢まで直通で持っていかれてしまうとたちまち寂びれ果て、週末限定の営業で細々と稼動を続けた果てに平成15年頃営業停止となった。
それ以降の状況は、今見ている通りである。…皮肉なことではあるが、おかげで2012年の我々はかつて小説に描かれた頃の静かな土樽の情景を、およそ80年振りに見ることができている。不思議といえば不思議な話である。
そのあたりの無駄話をもう少しばかりしてみたかったのだが、山荘の主人氏はそのままクルマで出かけてしまい、それ以上の質問はできなくなった。
…まあ、このあたりが引き返し時かな。むむむ。
http://hobbyland.sakura.ne.jp/Kacho/tabi_yukeba/2012/2012_0209_Yuzawa/...
2012.02.09 越後湯沢 ~川端康成の「雪国」~ (その2)
http://hobbyland.sakura.ne.jp/Kacho/tabi_yukeba/2012/2012_0209_Yuzawa/...
■されど、国境の長いトンネル
さてそんな次第で目的を果たせず失意120%で引き返してきたのだが、筆者の普段の行いが良いためか(ぉぃ ^^;)、ひょんなところからそれは見えた。場所は関越自動車道の高架橋下で、行くときには見えなかったものが帰りに目に留まったのである。
なんと国境の長いトンネルは、実はここから見渡せるのだ。
現在の上越線は複線化工事によってトンネルも2本になっている。昭和6年完成の清水トンネル(=小説に登場)は写真左側の方で、右側が昭和42年完成の新・清水トンネルである。花鳥風月的にポイントが高いのは、もちろん左側の古いほうだ。
そんな清水トンネルを、望遠で捉えてみた。…ここを通って、小説家は雪国にやってきたのだなぁ。
トンネルは時代が古いだけに簡素なつくりで、上からの落雪を防ぐために上部フェンスが追加されていた。放っておけばどんどん雪に埋まっていってしまいそうな頼りなさも幾分感じるが、しかしこのトンネルこそが、戦前の新潟と東京をむすぶ交通の要衝だったのである。
ここが貫通したことで、それまでは直江津~長野~軽井沢を経由して信越線でぐるりと迂回していた新潟~東京の所要時間は距離にして約100km、時間では4時間も短縮されることとなった。小説には湯沢と東京を往復する話ばかりしか出てこないけれども、上越線の本質は新潟と東京という本州の東西港湾都市を直結したところにあり、湯沢はその2大都市圏の中間にあってアクセス性の良いスキーリゾート地として繁栄していくのである。
そんな時代性を考えながらまったりと写真をとっていると、別の車がやってきて隣に駐車し、おっさんが降りてきて無言でトンネルの写真を撮り、そそくさと引き返していった。…しばらくすると、また同じようなクルマがやってきて、無言のまま写真を撮って帰っていく。
えーと…もしかしてここは、そのスジの方々には有名な場所なんですか?(^^;)
隣にヤケに厳重な 「立ち入り禁止」 のフェンスがあるのが気になった。やはり居るのだろうか、…理想のアングルを求めて突撃していってしまう猛者が…w
■ 「雪国」 という小説について
さてそういえば 「雪国」 がどんな小説なのかさっぱり説明していなかった。詳細な解説はWikipediaあたりを参照していただければよいと思うのだが、せっかくなので花鳥風月的に端折って説明してみよう。
「雪国」 とは、越後湯沢を舞台に一応の主人公である金持ちボンボン野郎の島村、メインヒロインで芸者の駒子、駒子のライバルとなるサブヒロインの葉子の三角関係がひねくり、ひねくり…な恋愛小説である。ボンボンの島村は親の資産でぬくぬくと暮らしている妻子持ちの中年男で、普段は東京に住んでおり年に何回か湯沢に通ってくる。田舎暮らしのヒロイン達は、この都会男に引っ掛けられてハーレム要員その1、その2となってもにょもにょするのである。
といっても主人公の島村は何か明確な目的があって生きている訳でもなく、単にあちこちで女遊びをしているばかりで湯沢で囲った2号、3号にも責任を取るつもりはないらしいのである。やがて物語はいくつかの季節をめぐり、引っ掛けられた側の駒子と葉子の 「どっちを選ぶのよ」 的な詰めより具合がねちっこくなる。ただしヒロインの描写は圧倒的に駒子の方が濃密で、次期FSX選定で例えるなら駒子=F35、葉子=ユーロファイター並みの扱いで話は進む。
このハーレム展開は、島村が 「そろそろ逃げようかな~」 と思い始めたところで脈絡なく火事がおこり急転直下のクライマックスに至るのだが、結局はっきりとした決着は付かず 「え? これで終わりなの…?」 的な結末に至る。 島村は主人公のくせに何の活躍もせず、最後はポカーンと天を仰いで終わる。結局一番動き回っていたのは駒子なのであった。
まあ作者曰く 「島村はただの引立て役。これは駒子が愛に飢えてもにょもにょする様子に萌える話なんだよ!」 (注:筆者の超・意訳です ^^;) ということであり、おそらくこれで内容の本質に関する説明は終わってしまう。 …雪国とは、まあこんな話なのである。
…というか、いいのだろうかそんな説明で(笑 ^^;)
※ストーリーのみを追いかけるとグダグダ感満載だが、各場面ごとの情景というか雰囲気を味わう "空気小説" としては実によく出来ている。そういえばノーベル賞の受賞理由も表現手法の巧みさを評価したものなのであった。
■土樽駅、リトライ(笑)
さてトンネルを見た後、もう一本スノートレンチが分岐しているのを見つけて進んでみると、山荘とは反対側に駅の入り口があった。どうやら筆者はすこしばかり遠回りをして反対側にアプローチしていたらしい。
…というか、パチンコの景品で貰ったカーナビ(…を、人づてで譲ってもらったw)の案内精度に期待しすぎるのがそもそもいけなかったらしいのだが、…まあいいや(^^;)
有名な割りに駅舎は質素であった。駅章は自然木に手書き…まあ、これはこれで味があるかな。
駅舎に入ってみると、こんな感じである。
現在の土樽駅は無人駅で、スキー場の閉鎖によりほとんど唯一の 「この駅で降りる理由」 が消失して以降は、すっかり秘境駅の仲間入りを果たした感がある。
駅舎内は "超省電力営業" で暖房はなく、照明は裸の蛍光灯が一本のみで、足りない分はなんと自販機の明かりが補っていた。JRもなかなか割り切った判断をしているようだ。
ダイヤは3~4時間に一本という程度である。越後湯沢に乗り入れている新幹線より圧倒的に本数が少なく、利便性という点ではかなり難がありそうだ。ただし朝有に各1回、上り/下りが10分少々でつながり、とりあえずホームに下りてすぐにリターン…という瞬間トライの可能な時間帯はある。
ホームに出てみるとそれなりに除雪はされていて、管理は行き届いているようだった。
信号所時代の名残である通過待ち用の待避線は現在では撤去されている。小説で 「駅長さ~ん」 のシーンに登場したホームも今では列車待ちに使われることはなくなった。…これも時代の変遷かな。
足元をみると線路には水が流れていた。いわゆる流水融雪だが、これが普及し始めたのはたしか昭和40年頃だったと思う。
それ以前はどうだったかというと、もっとガチンコでマッチョな除雪が行われていた。ラッセル車でモリモリと雪を退け、さらに人海戦術でそれを軌道の外に運び出していたのである。
「雪国」 では土樽に3台のラッセルが備えられていたことが記されている。他に除雪人夫が延べ5000人、消防青年団が延べ2000人手配されたとあり、当時の国鉄の並々ならぬ除雪対策の様子が伺える。
※この "3台" というのは実は軍隊式の装備の揃え方らしい。1台が故障、1台が整備中であっても確実に1台は実稼動できるというもので、非常時対応を強く意識したものだ。
さてそのまま上り方向のホームの端まで行き、清水トンネルが見えるか目を凝らしてみた。…が、関越自動車道路の高架橋が邪魔をして視界は通らなかった。…まあ、こればかりは仕方の無いところかな。
…貨物列車くらいは通るだろうか、としばらく見ていたが何もこなかった。
小説中で土樽の駅長さんが言った 「こんなところ、今に寂しくて参るだろうよ」 というセリフが、21世紀になってもそのまま違和感無く感じられる。それほどまでにここには人の気配というものが無い。
越後国の最奥部、もう人家もない谷底の斜面ぎりぎりの、これが本来の姿なのだろう。小説ではまだいくらかの鉄道職員がいる寂しさだったけれど、今ではそれも無人になった。事実は小説より寂なり…といったところだろうか。
http://hobbyland.sakura.ne.jp/Kacho/tabi_yukeba/2012/2012_0209_Yuzawa/...
2012.02.09 越後湯沢 ~川端康成の「雪国」~ (その3)
http://hobbyland.sakura.ne.jp/Kacho/tabi_yukeba/2012/2012_0209_Yuzawa/...
■湯沢
さて土樽を制覇した後は、湯沢に確保した宿に向かうことにした。雪壁で道路が狭くなっているので大型車が対向して走ってくると 「ぬおお」 となるのだが(^^;)、まあゆるゆると市街地を進んでいく。
予算の都合もあるので基本的に安いビジネスホテルを使うのが恒の筆者だが、ここでは 「宿で小説を書く風情」 というのを味わってみたいので、一応ちゃんとした温泉宿に泊まることにした。
…とはいえ、実は昨年同様、事前の宿の予約などはしていない。
出発の1時間ほど前に旅館案内所に問合わせて 「いい所を紹介してくださいよ~♪」 とネゴして探してもらったのである。今回紹介されたのは湯沢ニューオータニホテルであった。
チェックインしてみると、12畳+αの広々とした和室を一人で独占するというゆったりとした環境が待っていた。ビジネスホテルなら同じ床面積で3部屋くらいは詰め込まれるところだろうが、ここではそんな無粋なことはしていない。このくらい余裕のある空間なら "部屋で寛(くつろ)ぐ" という言葉が文字通りの意味で通用しそうだ。
ところでそこらじゅうの旅館が満室の超・ハイシーズンに部屋が取れたのには、多少の理由がある。
旅館には一見満室のように見えて、実は空き部屋がいくつもあるのである。有力な(=販売力のある)旅行会社や予約サイトがあらかじめ一定数の部屋を 「枠」 として押さえていたうちの余り物件で、前々日までに予約が確定しなかったり直近にキャンセルされた部屋がそれにあたる。こういう物件は 「枠」 の有効期間中には外部からはなかなか見えにくいのだが、前日になると縛りを解かれて、旅館組合の案内所などでローカルに売りに出される。一人旅ならこういう部屋を狙うのが得策なのだ。
…などと書くと 「なんでキャンセル待ちみたいな真似をする必要が?」 とツッコミが来るかもしれないのだが(^^;)、実は一部屋の面積が広い高級旅館では利益率を考慮して宿泊人数が二人以上でないとそもそも予約を受付けないところが多いのである。
それが前日や当日になると、空気を泊めておくよりはマシ(?)ということになって一人客にも開放される訳だ。一部の旅行好きには納得のいかないシステムかも知れないけれども、需要と供給と資本主義の理屈によってイマドキの旅館事情というのはそういうことになっている。
では時代を遡って、戦前の宿の予約事情がどうであったか…については、実はどうもよくわからない。戦前の旅行会社というのは明治45年の日本交通公社=ジャパン ツーリスト ビューロー(JTB)の設立から本格的に立ち上がったといわれるのだが、その設立意図は鉄道会社とタッグを組んでの外国人観光客の誘致と便宜を図るものであり、日本人の扱いはどうもオマケのような印象がある(ただし設立意図はともかく顧客の圧倒的多数は日本人である)。
昭和10年頃だと国内旅行手配はこのJTBのほぼ独占状態にあった。JTBの設立には鉄道院が深く関与しており国鉄の全面的なバックアップがあったのでこれは当然ともいえる。湯沢の発展とはすなわち国鉄の上越線効果の果実なので、観光客の誘致や有力旅館の宿泊手配には当然JTBが絡んだことだろう。その流れからいくと、湯沢入りした川端康成もJTBの客だった…ということになるのかもしれない。
しかし小説 「雪国」 では、主人公は湯沢で最終列車を降りてからは旅館の "客引き番頭" に引っ掛けられて宿に入っており、JTBを経由して予約したのかどうかはついに最後まで明らかにされない。
まあ最近流行のメディアミックス作品なら 「国境の長いトンネルを "国鉄の列車で" 抜けると雪国であった。宿の予約なら "JTB" …」 などと書かれるのだろうけれど(^^;)、さすがにそういうコマーシャルな文章を川端康成が小説中に練りこむことはなかった。「湯沢」 の地名すら最後まで直接は言及しないのだから、そのあたりは何らかの矜持があったのだろう。
それはともかく、話が延々と蛇行して申し訳ないけれど、小説中の描写をみるかぎりどうやら主人公の島村は繁忙期を微妙に避けて当日の空き部屋をGETしていたようである。現代ではさすがに "客引き番頭" なる存在はもう少し合理化されて旅館の公式HPとか旅館組合の案内所に置き換わっているのだが、仕事の本質は変わらない。(※無理が利くのは案内所の方である)
…ということで、今回筆者は実にノスタルジックな作法(?)に則って一夜の宿を確保したことになるらしいだが…そういう理解で良いのだろうか(^^;) …なんだか自信がないけれども。
さて荷物を置いたらひろびろとした売店コーナーでお土産などを漁ってみた。今回は細君を那須に置き去りにしてきているのでご機嫌伺いの貢物が必要なのだ。
…それにしてもホテルの売店の一番いい場所を占有しているお土産が 「米」 である。なんというか、新潟県の強烈なアイデンティティを感じざるを得ない(笑)
米以外ではカニ風味の商品が多い。とにかく、カニ、カニ、カニ…である。とりあえずカニチップスは定番らしいので即GETしてみた。
こちらはいつぞやの旅行で買いそびれたエースコックの職人魂…♪ こちらも忘れないうちに買い込んでおこう。ちなみに3個1セットでちょっとだけお買い得になるようだが、大人ならダンボール買いをするのが日本経済に貢献する正しい道といえる。
…というか、いきなり売店でそんな大人買いをしてどうするというのだw
その後部屋に入って一服していると、やがてお食事タイムの到来である。本来なら2日以上前に要予約のはずの御造りを美人で可愛い仲居さんに 「お願いにゃん♪」 とその場で追加してもらったりして、たらふく新潟の味を堪能してみた。
食事が済んだあたりで体内バッテリーが切れかけてきたので、とりあえずいったんバタンキュー。温泉は翌朝ゆったりと味わうことにしよう。
■雪と温泉
さてそんな訳で翌朝である。まだ暗い5:30頃にふらふらと館内の温泉に向かってみた。内湯は広くて湯量も豊富、施設もなかなかイイカンジだが…ちょっと整備されすぎて昔の鄙びた宿の雰囲気ではなかった。まあ良くも悪くも近代的なホテルで、いまどきのレジャー客向けのつくりである。
先行客は4、5人ほど。「いや~、こんな時間に風呂ですかい」 と判で押したような挨拶をしながらさらに5人ほどが入ってきた。…見れば朝風呂をキメ込んでいるのはみなスキー客のようで、会話を聞き流してみたところ、これから滑り倒す前のウォーミングアップを兼ねているようだった。 何というか、気合が入っているなぁ・・・w
さて筆者はというと、この時期の醍醐味といえば露天風呂と相場が決まっているので、雪の底に埋もれるような湯船で大の字になって浮かんでみた。
いや~極楽だねぇヽ(´∀`)ノ
…というか、気分は露天というよりすっかり洞窟風呂なんだけどな(笑)
雪の壁が風を防いでくれるので、こういう状態の風呂は実は見た目の印象ほどには寒くない。ゆったりと浸かりながらリラックスするには丁度よさそうだ。
…そんな訳で少しばかり長湯をしてみた。そもそも湯沢での2日目の予定は、川端康成の泊まったという高半旅館の外観を眺めて、資料館(雪国館)を巡るくらいなのである。気分もスケジュールも、もっとゆったり、まったりでいい。
外では綿雪が深々と降っている。スローシャッターなので画面にはほとんど写っていないが、雪壁の底にも静かに雪が降りてきて、湯船に着水した瞬間にふわりと融けて消えていく。見ていて飽きが来ない、いい小景である。
こういうところでリフレッシュしながら小説を書くというのは、どんな気分だろう?
静かな部屋で黙々と原稿を書き、煮詰まったら温泉に入り、付近を散策などして気分をリセットする。そしてまた原稿を書く。…日々、それが繰り返していく。
現代なら気分転換にはTVをぽちっと点けたり、ネットでニュースを見たり、携帯ゲーム機wで気分を転換したり…といろいろな選択肢があるだろう。しかし戦前にはもちろんそんなものはなく、田舎の温泉宿に逗留すれば、恐ろしいほどに静かで抑揚の無い時間が過ぎていき、することといったら原稿を書くくらいしかない。
昔の小説家は、不思議なくらいに温泉宿をよく好んだ。何週間も泊まりっぱなしで作品を一本書き上げる…などということも珍しいことではなかった。
そんなに自宅や仕事場(書斎)では仕事がしにくかったのか…といえば、ぶっちゃけたところその通りであったらしい。理由の大半は、メンタルなものである。温泉宿の役割とは、要するに日常とは異なる環境で宇宙からの電波を受信してインスピレーションの神様が降りてくるのを期待しつつ、締切りから逃げられないようにカンヅメ状態に身を置く…というもので、その本質は軟禁状態をつくるためのハコということになる。
物書き業界ではこういう宿を "カンヅメ旅館" などと呼び、著名な作家は大抵どこかでカンヅメ生活を経験している。もっともこういう場所に隔離されるのはある程度成功した作家のステータスみたいなものでもあり、作家にとってもそう悪い待遇ではなかった。
締め切りを守っている限りにおいては逗留先で観光やら芸者遊びに興じていても誰も文句は言わなかったし、要領のいい作家は "取材" と称して遊興費の請求書を出版社に回してしまう猛者もいた。出版社としてはそれで良作が生まれて本が売れてくれれば御の字なので、なんでもホイホイ受け入れた訳ではないだろうけれどもかなり大目にみていたような感はある。
※逗留費用は作家の "大先生具合" によって出版社が持ったり本人が払ったりした。また逗留場所は郵便事情の良いところでなければならず、原稿が締め切りまでに編集者に届くことが絶対条件だった。
戦前の日本の温泉旅館は、このような小説家の滞在には非常に都合がよかったらしい。そもそも "湯治" という何ヶ月単位で滞在する客層を安価に受け入れるシステムが出来上がっていて、その気になればコンドミニアム式の自炊を前提にして宿泊費をかなり安く済ませることも可能だった。(ただしその場合は長屋のような安宿になるのだが ^^;)
「雪国」 を書いた頃の川端康成はというと、湯沢に来た当時は既に新聞連載なども持っていてそれなりの地位を得ており、滞在した部屋は条件の良いところを選んでいた。眺めのよい高台の温泉旅館の3階で、三方が窓、一方が廊下となっている出島のような8畳の和室である。隣接する客室が無いので隣から話し声が聞こえてくることもなく、ここではかなり静かに原稿を書くことが出来たようだ。
…もっとも、川端はストイックに原稿ばかりに向かっていた訳ではなく、当時出来たばかりのスキー場でスキーを愉しんだり、芸者遊びに興じたりもしていた。それをネタに小説を書いていたのだから、まあ趣味と実益がうまく両立していたというか、まあよろしくやっていた部類なのだろう。
さて風呂から上がってクルマの状態をみると…あらら、一晩で結構、積もったなぁw
ついうっかりしてワイパーを立てておかなかったのでバリバリに凍ってしまい、クルマの発掘(?)と暖気運転にたっぷり20分以上かかった。雪国のクルマ事情というのは露天駐車だと結構厳しいものがあり、これで1m以上もドカっと積もったらボンネットがベッコリ凹んでしまうのではないかと心配になってくる(^^;)
■高半旅館
さてそんな訳で、チェックアウト後は 「雪国」 が執筆されたという高半旅館に向かってみよう。
高半旅館は、湯沢の市街地から少し外れた山間の丘の上に位置する温泉宿である。ここは湯沢村の発祥の地といってもよく、平安時代の終わり頃に高橋半六なる人物が温泉を発見したことに始まる。源泉は斜面にある小さな鍾乳洞から沸いて湯之沢に注いでいる。当初は源泉の近くに湯壷を設けていたようだが、たびたび崖崩れや雪崩の被害に遭ったことから江戸時代の中頃に現在の位置に移ったらしい。
上越線の開通以前は、冬季には三国峠が雪に埋もれるため人の往来もなく温泉は休業していた。通年営業が始まったのは上越線の工事計画が具体化した明治末期~大正期以降のことらしく、周辺のスキー場開発も同じ頃に本格化していることからそちら方面の客を相手にしていたようだ。
これが現在の高半旅館である。近代においては2度大規模な建て替えをしている。1度目は上越線の開通の頃で、木造の瀟洒な楼構造の建物が建った。川端康成が宿泊したのはまだ新築の薫りの残っていた頃である。
現在ではさらに鉄筋コンクリートの近代的な建物に変わっていて、川端康成の滞在した頃の面影はなくなっている。ただし建物内部には当時の部屋(かすみの間)を再現した一角があり、宿泊客はそこを見ることができる。
筆者もできれば内部を見学したかったところだが…残念ながらその希望は叶わなかった。狭い高台にある旅館には駐車場に余裕が無く、この日は既に宿泊客のクルマが満車で入り込む余地がなかったのである。こればかりはハイシーズンであるだけに仕方がない。
…まあ残念だが今回はとりあえず写真を数枚撮っただけで撤退することにしよう。
※念のために申し添えておくと、ここは 「かすみの間」 を見学するだけの客も一応受け付けてくれる。しかしその場合はマイカーではなく公共交通機関か、がんばって徒歩で到達するしかなさそうだ(レンタルサイクルは冬季には無理)。
ちなみに現在の高半旅館は 「雪国」 効果と創業800年の超老舗プレミアムで、宿泊料金は湯沢の新温泉街の倍くらいのレートになっている。それでも宿泊客が押し寄せてくるのだから大したものなのだが、筆者のような貧乏旅行派には少々高嶺の花といったところだろうか(^^;)
…そんな訳で、次に訪れる機会があるとしても筆者のことだからきっと 「とくとくチケット¥500」 とかになってしまうことが予想されるのだが(笑)、そういう貧乏くさいところに "美" を見出すのも文学の使命みたいなものだろうから、まあなんだ…細かいことは気にしない、というオチでいいのかな? …え? 負け惜しみだって?(爆)
http://hobbyland.sakura.ne.jp/Kacho/tabi_yukeba/2012/2012_0209_Yuzawa/...
■ 2012.02.09 越後湯沢 ~川端康成の「雪国」~ (その4)
http://hobbyland.sakura.ne.jp/Kacho/tabi_yukeba/2012/2012_0209_Yuzawa/...
■歴史民俗資料館
さて旅館の玄関だけ眺めて戦略的撤退(?)をした後は、ふたたび新温泉街の方に戻って歴史民俗資料館に立ち寄ってみることにした。
ここは 「雪国館」 の別称をもつ湯沢町の施設で、川端康成関連の資料を見ることが出来る。書籍のある資料室と日本画コーナー以外は撮影が自由というありがたい施設でもある。とりあえずここで小説の周辺事情などをにわか勉強してみることにしよう。
資料館は建物の大きさの割に実物展示が豊富で、雪国の暮らしやその変遷というのがよくわかる構成になっている。 上代以前や戦国時代の考古学的資料もあるのだが、物量的に資料が豊富になるのは大正時代以降のようで、昔風の雪蓑や笠がある一方でスキーやスケート用具などの洋風アイテムも混在するなど、なかなか面白い和洋折衷の文化史をみることができる。
…が、あまりに内容が豊富なので全部は紹介しきれない。興味のある方はぜひとも実際に行って見学してみて欲しい。湯沢温泉街以外にも三国街道沿いの三俣方面に深い歴史のあることがよくわかると思う。
さて 「雪国」 の時代に話を戻すと、上越線の開通が湯沢にとってインパクトが大きい出来事だったことが観光客の増加具合からも良くわかる。特に冬季の賑わいは凄まじく、大正時代に細々と始まったスキー場の整備は昭和20年代には第一次のピークを迎え、それ以降湯沢を支える産業の柱になっていく。
温泉についても、上越線の開通に合わせてボーリングによって次々と新源泉が掘られていった。これから増えるであろう観光客を見込んで地元有志が組合をつくり、古来からの湯之沢源泉に頼らず自前で自由に使える源泉を確保し始めたもので、これが昭和10年代に湯沢の町の構造を大きく変えていった。
上越線開通直後=昭和9年の風景写真をみると、現在は巨大温泉街になっている付近もまだ畑が広がっており、温泉掘削の櫓が建っているだけ…という様子がみえる。ちょうど川端康成がやってきたのがこの頃で、当時の湯沢は伝統的な農村風景が急速に観光開発されていく走りの時期に当たっていた。
「雪国」 ではこうして掘削された温泉を 「新温泉」 と表記している。小説に絡んだ温泉宿としては高半旅館(旧温泉)のほうの知名度が高いけれども、よく読めば変遷していく湯沢の新しい風景も端々に練りこまれており、メインヒロインである駒子は芸者という仕事柄、宴席で新旧どちらの温泉宿にも出かけていく描写がみえる。
※その合間にちょこまかと島村のいる旅館に通ってくるのだから、まあ健気なものであるのだが…(^^;)
館内で上映していた湯沢町のプロモーションビデオにも昭和10年頃とされる風景が映っていた。季節は雪の走りの頃のようで、地形からみて湯沢駅南東1kmほどの秋葉山の北側の尾根から撮ったもののようだ。中央を走るのが上越線、そして湯沢駅である。正面奥に小さく見えるのが高半旅館で、写真左側が現在新温泉街が広がっている付近だ。既に新温泉街の原型のような建物群が建ち始めているが、まだ全体としては鄙びた農村の雰囲気が残っている。
昭和10年の湯沢の旅館数はおよそ15軒ほど。収容客数は村全体で 300~400人程度といわれる。そこに芸者を派遣する業者がいくらかあり、小説中の表記を参考にすればおよそ20名くらいが在籍していた。彼女達の収入は当時の小学校の教員給与が月に70円だったのに対し100円を超えるくらいであったといい、女性の給与が男性の6掛け前後で勘定されていた時代にしては良い稼ぎであった。
※そんな世界に駒子が足を踏み入れたのは、病気の許婚(いいなずけ)の治療費を稼ぐため…と、小説の中では説明されている。ちなみにその許婚は存在感の希薄なまま途中で死んでしまい、駒子は島村ハーレムに吸収されてしまう。
■駒子のモデルの周辺事情など
ところで、怒涛の三角関係がもにょもにょ…な展開の 「雪国」 だが、そのメインヒロインである駒子には、実在のモデルがいたことが知られている。松栄(まつえ)という芸名の若い芸者で、川端康成と最初に出会った昭和9年当時、彼女は19歳であった。
川端康成はこのとき35歳。…なんというロリコン! …とか言っちゃいけないんだろうけれど(^^;)、この16歳も年下の芸者を川端はいたく気に入った様子で、たびたび指名買いしては部屋で飲んだり、散策に連れ出したり、その他いろいろなことをしたらしい。…といっても川端本人はあまり酒は飲むほうではなく口数も少ないむっつり男だったというから、どのような時間の過ごし方をしたのか少々不思議というか、非常に興味津々なところではある(^^;)
そんな逗留の日々の中、小説の筆は進んでいった。最初から一本の作品として書いた訳ではなく、登場人物を共通にして細切れの短編として雑誌に発表し、のちにそれをまとめて一冊の本にした。タイトルは最終的に 「雪国」 となった。
…が、後にこれを読んだ松栄はシェーっ(古^^;)…とばかりにぶっ飛んだらしい。小説に書かれた内容が、ほとんどそのまま川端康成と自分の過ごした日々をトレースしていたからであった。関係者が読めば登場人物が実在の誰であるかが分かってしまうし、しかも中身は色恋沙汰のもにょもにょ話で、もちろん小説として面白くなるようにあれこれと演出が入っていた。
まあ一般読者からすればどこまでが事実でどこからが創作かなど分かろう筈もないのだが、書かれた側にとってはかなり困惑…というより傍迷惑MAXなものであったのは間違いないだろう( ̄▽ ̄;)
こういう自分の体験をそのまま文章に書きだす作風は "私小説" とか "掌小説" などと呼ばれ、大正時代から昭和の中頃あたりにかけて流行した小説の1ジャンルであった。典型的な作家としては、太宰治を挙げればおおよその雰囲気は掴めるだろう。
川端康成はまさにこの系列の作家で、「雪国」 においても意図的に他人の私生活を暴露しようとした訳ではなく、当時なりの流行のフォーマットに従って自分の体験をネタに物語を書いたつもりのようだ。ただし配慮を欠いて突っ走りすぎたという点で、ツッコミを受けても仕方の無い部分があった。
これについては川端康成本人も 「やっちまった」 感は持っていたようで、後に生原稿を松栄の元に差し出して無断で小説に書いたことを詫びている。作家にとって生原稿を差し出すというのは命を差し出すようなものであるから、このときの侘びの入れ方はかなり本気だったようである。そしてこれ以降、川端は湯沢に通うのをやめ、「雪国」 は清算すべき過去の負い目の作品となった。
一方の松栄の方はというと、芸者の契約期間満了(=年季が明ける、と花柳界では言う) とともにこの世界から足を洗い、三条市に移った。新たな勤め先は市内の和裁店で、のちに彼女はそこの主人氏と結婚してささやかな家庭を築くことになる。「雪国」 の原稿は湯沢を出るときに焼き捨ててきた。昭和15年(1940)のことであった。
しかしそんな作者側 (…と、書かれた側) の事情とは関係なく、「雪国」 は小説としては異例のロングセラーとなり、戦後になって映画化、演劇化、そしてTVドラマ化…と何度も映像化されることとなった。駒子のモデルがいるということはほどなく公知の事実となり、レポーターの突撃取材(?)なども行われたようである。
…つまり 「雪国」 の一件は、原稿を焼き捨てても終わることなく松栄(この頃は一般人:小高キクとなっていた)の人生に後々までずっと影響を及ぼし続けたのであった。
資料館には映画のロケ地で女優の岸恵子と対談する松栄の写真(昭和32年)があった。地元の観光宣伝になるため取材には協力していたようだが、すでに人妻となっているにも関わらず独身時代の他の男との関係を面白おかしく取り上げられたり、ましてや映画化(!!)されたり…というのはどんな気分だったことだろう。
ちなみに湯沢を出て以降、彼女が川端康成本人と会うことは無く、川端作品を読むことも一切なかったという(※)。
※このあたりは旦那さんへの配慮があったのかも知れないが、今となっては確かめようがない。
一方その間、川端康成は文壇で着実に知名度、実績を上げ続け地歩を築いていった。各種文芸賞のほか、日本ペンクラブ会長、国際ペンクラブ副会長に就任し、文化勲章まで受章した。役員として名前を貸した文芸系の団体などは数え切れない。
そしてついに昭和43年(1968)、川端康成は日本人初のノーベル文学賞を受賞し、その名声の頂点を極めたのであった。「雪国」 は代表作のひとつと言われるようになり、小説の中身を知らない人でも冒頭の一文だけは知っている…というほどに知名度が上がった。
※写真は 「雪国」 湯沢事典(湯沢町役場/湯沢町教育委員会/新潟県南魚沼郡湯沢町) より引用。ちなみに湯沢町はノーベル賞以前から 「雪国」 で町興しをしており、資料館内には受賞以前の川端康成の書などが展示されている。
…ところが、ノーベル賞受賞の後、実は川端はほとんど作品を発表していないのである。
一説には賞の重圧が筆をとることを躊躇(ためら)わせたのでは…とも言われているが、筆者的には "燃料の枯渇" も相当程度あったのではないかという気がしてならない。
…というのも、高名な賞や肩書きは、分かり易く作家をランク付けしてくれる一方で希少動物か珍獣のような扱いにもするからだ。静かな地方を尋ねて小さな体験を積み重ねつつ、物語をひねり出す…という川端康成の創作の方法論は、ノーベル賞受賞後は "珍獣" に集まる人だかりによって明らかに破綻してしまったように思える。
晩年の川端が行く先々で行ったのは、小さな出会いでも散策でもなく、「日本の美」 とか 「芸術について」 といった大仰な講演会であった。
■そして駒子が残った
ノーベル文学賞受賞から4年後、川端康成は神奈川県逗子市の書斎で遺体となって発見された。昭和47年4月16日のことである。死因はガス自殺とされているが、遺書はなく、その真相は今でも不明である。
昭和初期の頃の小説家というのは自らの苦悩を作品にしつつ、たびたび自殺で世を去った。川端康成は比類なき成功と栄光を手にした果てに、結局周回遅れで彼らの仲間入りを果たしたともいえる。
私小説とは自己を切り売りしているような作風だという人がいるけれども、おそらくそれは正しい認識だろう。切り売りできるものが無くなってしまった時点でその小説家は詰んでしまう。だから常に燃料を補給しなければならない。
昭和9年の川端は実はその "詰んだ" 境遇にあり、湯沢にやってきた時点で彼は何を書くべきかというテーマを持っていなかった。たまたま現地で出会った若い芸者と過ごした日々が、創作の糧となって文章のネタとなり、彼を救ったような印象を筆者はもっている。
しかし20年後の彼には、もうそういう人は現れなかった。川端はよく言えば 「恋多き男」 で、若い頃には取材旅行で地方に滞在するたびに色々な女性にちょっかいを出したらしいのだが、偉くなりすぎた後にはそういう勝手もしにくくなった。さすがに講演会で 「芸術とは~」 などとやっている一方で、あまり下世話な行動もとりにくかっただろう。
しかし面白い小説というのはそんな下世話で赤裸々な感情の集積という側面をもっている。…偉くなりすぎた果てにこのギャップを埋められなくなったあたりに、もしかすると晩年の彼の不幸があったのかもしれない。
川端康成が最後にちょっかい…いや、癒し(^^;)を求めたのは、随分と手近なところで家政婦の女性であったという。しかし彼女はどういう訳か川端の元を去ってしまう。後には誰も残らなかった。
一方、松栄は平成11年まで矍鑠(かくしゃく)として存命した。享年83歳。読書が趣味で、亡くなったとき自室の書棚には800冊あまりの蔵書があったというが、川端康成の作品は、やはり1冊もなかったそうだ。
資料館には、川端と出会った頃の松栄の住んだ部屋が移築、保存してある。高半旅館からほどちかい諏訪社の付近にあった豊田屋という置屋(芸者を派遣する業者)の2階部分で、小説にも登場する部屋である。
…昭和9年、ここに居た一人の芸者が、とあるネタ切れ作家の座敷に呼ばれた。それがささやかな物語の始まりであった。作家は口数も少なく、酒もほとんど飲まない扱いにくい客で、それでも芸者は三味線を弾き謡い、この堅物の興味を引きそうな話を振って精一杯のもてなしを試みた。それまで幾人もの芸者を呼んでは返していた作家は、不思議なことにこの芸者に限っては何度も指名するようになった。おそらくこのとき、作家にインスピレーションの神が降りたのだろう。
…と、とりあえず筆者はそんな推測をしている。
座敷に座っている駒子(=松栄)の人形は、静かに窓の外を眺めるばかりでこちらには顔を向けない。
もう関係者もあらかた鬼籍に入ってしまった今、真実が奈辺にあるかなどということを気にする者はいなくなった。いまは小説が一冊、残っているだけである。
一通り見学した後に外に出ると、また雪が激しくなってきていた。
すっかり発展して巨大繁華街となった新温泉の領域を歩くと、駒子の名のついた土産物が実に多いことに驚く。これらのアイテムはもう定番の観光記号と化していて、小説の中身を知らなくても 「雪国」、 「駒子」、 「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」 さえ押さえておけば何となく文学体験をした気分になれるほどに認知されている。
これはこれで、不思議な風景なのであった(^^;)
…変わらないのは、雪ばかりである。
完
■あとがき
久しぶりに豪雪地帯をゆるゆると歩いてみて、やはり越後の冬山はスゴイな~という感慨を持ちつつ、有名なネタである川端康成の周辺を眺めてみました。今回は文学の素養もないのに 「雪国」 をテーマにしてしまったので正確性には不安がありまして、もしトンチンカンなことを書いていたら何卒ご容赦頂きたいです(汗 ^^;)
さて川端康成というと、もう近づきがたいほどの超有名な大文豪…というイメージを筆者は持っていたのですが、少なくとも戦前の20~30代の頃はかなり行き当たりばったり的に作品を書いていたような印象があります。彼が湯沢にやってきたときがまさにそのパターンで、何を書くかを事前に決めないままに宿に入り、いきなり芸者遊びと散策という 「お前、何しに来たんだよ」 的な日々が始まります。しかしそれは 「何かが起きる」 ことを期待しての行動で、彼としては小説のネタ探しのつもりだったのでしょう。
「雪国」 としてまとめられる前の小説の冒頭部分は 「夕景色の鏡」 の題で雑誌に掲載されたそうですが、締め切りにはかなりギリギリの入稿だったようで、しかもなんと川端康成はこの時点でストーリーの結末をどうつけるかまだ決めていませんでした。芸者の松栄嬢と過ごした日
-
-
11
777
「雪国」 としてまとめられる前の小説の冒頭部分は 「夕景色の鏡」 の題で雑誌に掲載されたそうですが、締め切りにはかなりギリギリの入稿だったようで、しかもなんと川端康成はこの時点でストーリーの結末をどうつけるかまだ決めていませんでした。芸者の松栄嬢と過ごした日々のエピソードがそのまま小説に取り入れられてしまったあたりから見ても、ネタ切れで苦し紛れ…という雰囲気がそこはかとなく感じられ、よくもまあ話がつながったな(※)…というのが正直な感想です。
なおエピソードに苦しんだらしい連載2回目は、締切りに間に合わず原稿を落としてしまい、締切りの遅い別の雑誌に載せるという漢気な計らいが行われました。今ではちょっと考えられませんが、当時は雑誌の編集部もナカナカおおらかな時代だったようです。
※現在入手できるのは加筆修正が進んだ昭和22年発行の 「決定版」 と呼ばれるバージョンで、オリジナルの初版は古書店で相当探さないと入手は難しい。
さて川端康成は何度も湯沢を訪れては連泊していますが、本当の厳冬期に来たことはなかったといいます。小説内で駒子は芸者の衣装のまま雪の中を一人でパタパタ往来しているように描かれますが、実際には雪が深くなると芸者は裾が汚れないように専用の送迎用のソリに乗りました。この描写が 「雪国」 には見られません。観察眼の鋭い川端も実際に見ていないものは描きようがなかったのでしょう。
調べてみると、川端康成は3年少々の湯沢通いの間、最長でも年間で一ヶ月ほどの滞在だったようです。時期的には他の作品も同時に書いていた筈で、このあたりの足跡を追うと作家の執筆活動がどのようなものだったのかが何となく見えてくる気がします。本編中では戦前の作家は四六時中どこかの温泉旅館を渡り歩いていたような書き方になってしまいましたが(笑)、やはり限度というものはあったようですね…(^^;)
■おまけ:カンヅメ旅館について
ところでカンヅメ旅館について調べていて、明治大学図書館の講演会資料に面白いものを見つけました。
「ウルトラマンから寅さんまで、監督・脚本家・作家の執筆現場」
http://www.lib.meiji.ac.jp/about/publication/toshonofu/kurokawaM07.pdf
というもので、内容は下手に解説するより実物を読んで頂いたほうが良いと思いますが(^^;)、主に戦後のカンヅメ旅館の面白エピソードを集めたものです。
興味深いのは映像関係者と小説家の対比で、映画の脚本などは大人数でワーワー騒ぎながら書く (さらには旅館側に対して注文が多い) のに対して、作家は一人黙々と書いているので手間が掛からない(笑)などと書いてあります。そうするとむっつり男の川端康成などは、旅館にとっては扱いやすい客だったのでしょうかね…(^^;)
http://hobbyland.sakura.ne.jp/Kacho/tabi_yukeba/2012/2012_0209_Yuzawa/...
-
12
匿名さん
-
13
777
越後湯沢・苗場のリゾートマンションは買ってはいけない?
藻谷 湯沢のいくつかのマンションでは、水回りが老朽化しているために、蛇口から出る水道水も飲用には堪えず、住民はペットボトルの水を買っていると聞きます。
「空き家大国ニッポン」のゾッとする近未来〜首都圏でさえこの惨状… 無計画な開発の果てに
2017.03.10 藻谷 浩介,野澤 千絵 現代ビジネス
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/51118
ベストセラー『里山資本主義』の著者・藻谷浩介さんと、『老いる家 崩れる街』の著者・野澤千絵さんのおふたりが明かす日本の惨状――。
藻谷 浩介(もたに・こうすけ)1964年、山口県生まれ。日本総合研究所主席研究員。主な著書に『デフレの正体』『里山資本主義』『しなやかな日本列島のつくりかた』『和の国富論』などがある
野澤 千絵(のざわ・ちえ)兵庫県生まれ。東洋大学理工学部建築学科教授。著書『老いる家 崩れる街――住宅過剰社会の末路』(講談社現代新書)が話題を呼び、累計5万5000部を超えている
藻谷 戦後の日本の住宅業界は、「供給を増やせば市場価値も上がる」という、市場経済原理とは真逆の、謎の信念によって支えられてきたのです。原理的には、供給を増やせば値段は下がるのが当然なのですが。
今から20年以上も前、日本開発銀行で地域振興の調査をしていた時分に、大阪の街づくりコンサルタントと話をしていて、初めてそのことに気づきました。
私が「容積率を上げると供給が過剰になってテナントの家賃も下がるし、地価も下落しますから、やめたほうがいいですよね」と言ったら、「はぁ? 容積率を上げないと地価が上がらないだろうが!」と激怒されたんです。
私は「供給を増やすと値段が上がる」と大真面目な顔で言う人がいることにひどく驚いたんですが、それ以来出会った不動産業界、住宅業界の人はみな同じ考えだったんです。
野澤 たしかに、同じ広さの土地を開発する場合、容積率を上げればより多くの住戸が作れますから、その土地の価値は上がりますが……。
藻谷 これは典型的な「合成の誤謬」です。その土地だけみれば確かにその時には価値は上がるのですが、そうなると隣の土地でも同じことを始めます。つまり、エリア全体で見ればあっという間に供給過剰になって地価が下がるんです。
湯沢町(新潟県)が典型ですね。都市計画もないスキー場エリアで、バブルの頃に林立した超高層のリゾートマンションの部屋が、今は超格安で売りに出ています。
野澤 そうですね。あのリゾートマンションはいまや100万円でも売れない状態でしょう。結局、持ち主にしてみれば資産価値は暴落しても、古くなった家電製品のようにどこかに廃棄することもできない。
所有権がある以上、固定資産税や管理費・修繕積立金という支出だけは負担しなければならない。ものすごい重荷になっているはずです。
藻谷 湯沢のいくつかのマンションでは、水回りが老朽化しているために、蛇口から出る水道水も飲用には堪えず、住民はペットボトルの水を買っていると聞きます。
野澤 えーっ!
住宅業界の人が買わない物件
藻谷 実際には開発業者はそんな超高層住宅の末路は知っているのです。でも「買う奴がいるのだから、今売れればいい」という「売り逃げの論理」で突っ走っているんです。
東京都心に急増している分譲タワーマンションの多くは、近い将来、高齢者が詰まった「新・山村」になって、その処理は大きな社会問題になります。その頃になって製造物責任を問われるのは、売り逃げを図った不動産会社ですよ。
野澤 だから、建築や住宅業界の人はほとんど、タワーマンションを買ってないですよね。
藻谷 そう、住宅業界の人は超高層物件を買わない。私も家は買っていない。首都圏の家を買うリスクは大きすぎます。
野澤 タワーマンションは修繕コストも膨大になります。大規模修繕や建て替えの際に住民の意見をまとめなくてはならないけれど、何百世帯もの合意を得るのは非常に難しい。
藻谷 消防車の梯子が届かないような高さの建物の修繕はかなり技術的にハードルが高い。湯沢町のように、十分な修繕ができない「立ち腐れ超高層」が激増するでしょう。そして、劣悪な状態になったマンションであっても、居住者は税金や管理費・修繕積立金を負担し続けなければならない……。
野澤 戸建てもタワーマンションも大量に余る時代になってきているのは予想ではなく現実です。こうなった以上、今すでにある空き家を中古住宅として流通できる建物にして売買・賃貸したり、古い空き家は解体・除却することが一般化するような仕組みを整えつつ、都市計画を厳格にし、規制を強化すべきだと思います。
藻谷 高さ制限の厳格な国立市(東京都)では、高層マンションを建設した業者に、住民が訴訟を起こし、一審では20メートルを超える部分の撤去を命じた。地元の不動産業者が「不当な判決だ。これで国立の地価は暴落する」と言っていましたが、現実には国立の地価は今でも上がっている。
野澤 「地区計画」という都市計画制度による規制で、実質的に住宅の供給が一定程度制限されているからですね。住宅過剰時代には、自分の家があるまち自体の資産価値を上げるよう、ひとりひとりが行政に働きかけることが、ますます必要となってくるのでしょう。
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/51118?page=4
-
14
777
-
15
777
温泉が目当てでリゾートマンションを買うのなら、北軽井沢あたりを拠点にして、自動車で
草津、万座、尻焼温泉、平治温泉、沢渡温泉、霧積温泉、大塚温泉、四万温泉、千古温泉、志賀高原の温泉等の日帰り温泉を毎日廻った方が絶対にいいよ
苗場・湯沢の近くにも
新潟: 苗場温泉雪ささの湯、貝掛温泉、赤湯温泉、越後湯沢温泉 雪国の宿 高半・山の湯、大沢山温泉幽谷荘、上野鉱泉湯元奥の湯、清津峡湯元温泉清津館
群馬: 法師温泉、川古温泉、広河原温泉旅館峰、千葉高原村温泉、赤岩温泉誠法館、湯宿温泉松の湯共同浴場、漣温泉のぞみの湯
などのマニアに評価の高い温泉も一応あるけど、日帰り料金が高かったり、日帰り入浴不可だったり、日帰り入浴の受け入れ時間が極端に短かったり、遠かったりしてわざわざ苗場・湯沢に住むメリットが全く無いんだ。
苗場から狭くて急な山道を降りて目的地まで行くより沼田か渋川にアパートを借りて車でスキー場や温泉を廻った方が楽だしお金もかからない:
温泉マニアの間での湯沢町の共同湯の評価は『山の湯』以外は日本国内の温泉の中で最低最悪
越後湯沢温泉 外湯めぐり
http://www.yuzawaonsen.com/index.html
http://www.yuzawaonsen.com/sitemap.html
うーん、これではなぁ・・・
湯沢と言うと、関東の人からすれば、スキーと温泉と言うイメージが非常に強くて、伊豆、熱海、箱根、鬼怒川、草津なんかと並ぶ、代表的な温泉地だと思うのですが・・・
これではちょっと・・・ 残念ですね。
友人が、隣で、 「浴感がまったく無いお湯と言うのも存在するんですねぇ」と、感心?していました。
正直な感想を言うと、入った直後に出たくなってしまいました。
地名に「湯」の文字を冠するのだから、もうちょっと良いお湯を提供して欲しかったです。
ちょっと悲しくなってしまった一湯でした。
http://jake.cc/onsen/niigata/yuzawa-komako/yuzawa-komako.html
湯沢町で発行している、共同浴場の湯めぐり手形。
1500円で、5箇所の施設に入る事が出来ます。
それにしても、湯沢町は一体何を考えているのでしょうね?
100歩譲って、塩素循環が絶対必要だとしたとします。
でも、そんなお風呂の湯巡り手形を作って、何がしたいのでしょう?
5箇所まわって、1勝4敗。
唯一山の湯は本当に素晴らしかったですが、次々に襲ってくる塩素循環のお湯達に、こんなに悲しい湯めぐり手形は、私の湯めぐりの経験の中で、他にありませんでした。
湯の町、湯沢。自らその名前を穢しているような気がするのは、私の気のせい?
仮に特徴の無い単純泉だったとしても、鮮度良くお湯を使えば、気持ちが良いのですけどねぇ・・・
http://jake.cc/onsen/niigata/yuzawa-iwa/yuzawa-iwa.html
越後湯沢温泉は、基本的に町が15本ある源泉を集中管理して各旅館・施設に分湯しています(ごく一部独自源泉を持つ旅館あり)。
上越新幹線の大清水トンネルの工事中に、越後湯沢温泉の一部源泉の湧出量が大きく減少したり枯渇したりといった現象が起きています。
町で源泉の集中管理を行なうようになったのは、この事件がきっかけなのですが、この一件を見てもこの温泉の湯脈が三国山中の地下水が基になっているのは明らかです。
この地下水は元をただせば、むかし三国山脈の山々に降った雨水(雪だけとは限らない)を起源としていますから、地下に潜ったかつての雪解け水も源泉の一部になっていると考えてよいと思います。
4ヶ所ある集中管理源泉(町温泉管理事業第1~3配湯所源泉と湯沢温泉湯元源泉)の湧出量の合計は、毎分約1,800リットル。これは一つの温泉地の湧出量としては決して少なくはなく、絶対量だけ見れば湯量豊富と言ってもよいレベルなのですが。
しかし越後湯沢は、湯量に比し温泉地としての規模が大きくなりすぎました。
総湧出量が毎分1,800リットルあると言っても、これを巨大ホテルを含む50軒以上の宿泊施設、10ヶ所以上ある共同浴場と日帰り施設、さらに一部リゾートマンションなどに分配しているのですから、湯量が足りている、とは到底言いがたい状況です。
越後湯沢の多くの旅館・施設では掛け流しを維持できず、循環濾過併用や相当量の加水(水増し)を余儀なくされています。
越後湯沢温泉はもともとは三国山中のひっそりした湯治場だったのですが、昭和初期の清水トンネル開通・上越線全通を機に温泉地の性格が一変します。交通至便な東京の奥座敷として繁栄し、旅館・ホテルの大型化が進みます。
さらに上越新幹線と関越道の開通で温泉スキーリゾートとしてますます注目が集まり、バブル期には雪深い山間には不似合いな高層リゾートマンションが何棟も建設されました。バブル崩壊とスキー人口の減少で町内に林立する高層リゾートマンションは空室だらけとなり、今ではバブルの負の遺産を見たかったら越後湯沢へ行け、とまで言われる有り様です。
湯量不足も問題ですが、この時期の無秩序な開発で町に温泉街らしい風情が失われてしまったのも残念なところです。
越後湯沢で豊富な湯量の源泉掛け流しを楽しむには、鉄道開通以前から営業していた歴史があり、もともとは自家源泉を持っていたので集中管理源泉から配湯を多めに受ける権利を持っており、かつ巨大化に走らなかった老舗の割烹旅館を選ぶのがよいかと思います。敷地も広く、雪国の温泉らしい風情を楽しめます。箱根や伊豆あたりに比べれば宿代もかなり安めです。
http://chiebukuro.travel.yahoo.co.jp/detail/1180244276.html?p=%E8%B6%8...
No.67 by 湯沢のマンション住民 2013-06-21 19:39:26
聞いた話ですが温泉の湧き出てる湯量、濃度共に減少しているそうです。
町内の某有名旅館では数十年前では湯ノ花も浮いていましたが現在ではまったく見なくなりました・・・
硫黄臭もかなり減少したように感じます。
https://www.e-mansion.co.jp/bbs/thread/197545/all/
湯沢の弱点は源泉が枯れてきている事。
昔は湯ノ花が見れたそうですが、中越地震以降源泉が枯れてきたそうで
今では源泉かけ流しの入浴施設でも湯ノ花はほとんど見る事が出来ません。
Posted by 株投資家 at 2014年09月03日 22:42
http://hagefx.sblo.jp/article/102281283.html
龍神温泉、有馬温泉、伊香保温泉、黒川温泉や関金温泉もそうですが、せいぜい旅館 2, 3軒分が湯量の限度だった山中の秘湯に何10軒も旅館を乱立させ、ボーリングしてお湯をジャンジャン汲み上げたのが越後湯沢温泉凋落の原因になったのです。
越後湯沢温泉がこれからも温泉地としてやっていく為には、また昭和初期と同じ様に、「山の湯」、「高半旅館」と「御湯宿 中屋」の3つの浴場だけに戻すしかないのですね。
_________
越後湯沢温泉 共同浴場 「山の湯」
http://www.youtube.com/watch?v=jV5V5ugr524
「山の湯」 2002年
浴槽はさほどの大きさではないが、湯量は豊富。
洗面器にカランからのお湯を入れると、かすかに褐色っぽい色がつく。
どうやらカランのお湯も温泉らしい。
浴槽のお湯もツルツルして、湯沢の他のどこよりも泉質がいいと思う。
秋に仕事仲間と訪れたのが、観光客より地元のおじさん・おばさんが多かった。
男湯では、地元のおじさんが「最近観光客が増えたな~」と聞こえよがしに話していたらしい。まあ、不満だろうけどお湯がいいから来るんですよ、おじさん。
この翌日、街道の湯に入ったが、あまりの違いにがっくりした。
「山の湯」 2004年7月再訪:
以前入湯したときは濃い印象だったものが、このときは大してインパクトを受けなかった。
お湯から硫黄臭はするが、肌触りはありきたり。なんだかお湯が薄くなったよう。
カランのお湯も透明になっていて残念。つくづく温泉は生き物である。
http://www.dokodemo-bessou.com/kenbetu_onsen/onsen13_niigata.htm#街道の湯
「山の湯」2004年7月17日訪問
2、3年前、友だちと湯沢に旅行に来たとき立ち寄った日帰り湯。
湯沢というと薄い単純泉ばかりだと思っていたので、意外に濃い印象のお湯に名湯だと感じた。そのお湯にもう一度浸かってみたくて、このたび再訪した。
ここへ至るまでの坂道は、本当に急で怖い。車高の高い四駆のせいか、以前登ったときよりさらに怖く感じた。雪のある時期だと普通自動車は登れないだろう。スタッドレスを履いた四駆でもどうかという急斜面だ。
建物は山小屋風で、なかなかいい風情である。受付の方が優しい笑みで迎えてくれた。
料金も非常に安く、共同浴場らしい雰囲気が漂っていた。
券売機で入浴券を購入。休憩所は通路の脇に畳敷きの上がりがあって、扇風機が回っている。
男の人がごろりと横になっていて、他の人が利用しにくい広さだった。自動販売機とマッサージ機があるのみ。
浴室もさほど広くない。
洗い場はお湯と水が出るカランがいくつかある。シャワーはない。
常連と思われるおばちゃんたちはみな洗面器を使い、湯船から直接汲み出してアタマを洗ってる。あんな熱いお湯でよく洗えるなー、とつくづく感心する。
お湯は無色透明、かすかに硫黄臭。
以前はカランからのお湯が茶色っぽく、源泉を使用しているように思った。
今回は無色透明、無味無臭、浴槽のお湯も以前のような濃さがなくなっているように感じた。
ただ、この「山の湯」は
「越後湯沢外湯めぐり」
http://www.e-yuzawa.gr.jp/sotoyu.html
のひとつであるが独自源泉を有し、他とは一線を画している。
他の「外湯めぐり」がほとんど循環で塩素臭いのに対し、「山の湯」だけは掛け流し。中央配湯された湯沢の温泉と比較すると、もっともよい湯だと感じた。
http://www.dokodemo-bessou.com/h_16y/16-9_onsen1.htm
12 :名無しさん@いい湯だな:2014/11/17(月) 22:10:25.76 ID:se2zD1du0
山の湯は硫化水素イオン2.4mg/kgによる硫黄泉認定だから かつてはしっかり硫化水素を含んで「いた」んだよ
http://www.takahan.co.jp/onsen.html
(山の湯隣の高半の泉質分析表)
だが新潟で大きな地震が相次いで泉質が変化し
今では硫黄分がほとんど無くなってしまったらしい
次に泉質分析したらアルカリ単純泉になると推測される
http://hello.2ch.net/test/read.cgi/onsen/1413542285/l50
-
16
777
-
17
777
別荘用として苗場・湯沢のリゾートマンションを買うのだけは止めておいた方がいいです。
ただ、自分の持ち家が無い人が定住用として10万円で売っているリゾートマンションを買うのなら、物件を選べば超お買い得なのですね。
そこで、上記15ケの内、定住用には向かないものを落としていきます。
1. 国道17号線に近いマンションは自動車騒音と排ガスが酷いので NG
即ち、
3 ノエル苗場
4 コンフォート苗場
6 ダイアパレス苗場
7 西武ヴィラ苗場クリスタル1号館
10 西武ヴィラ苗場5号館
は NG でしょう。
2. 高層マンションは NG
Re いったい何処のマンションが買いなのでしょうか? (続き2)
http://8601.teacup.com/naebatower/bbs/1071
に書いた様に
ファミールヴィラ苗場タワー
http://www.himawari.com/yuzawa/mansion/2521.html
に定住するのは危ないのですね
3. 築30年以上の老朽化した古いマンションは NG
ネットで古ヴィラと言われている大昔の公団みたいな
15 西武ヴィラ苗場1号館
14 西武ヴィラ苗場2号館
13 西武ヴィラ苗場3号館
10 西武ヴィラ苗場5号館
9 西武ヴィラ苗場6号館
11 西武ヴィラ苗場7号館
は当然 NG です。 4年前に古ヴィラ住人専用に近かった白樺平ゲレンデが廃止されてからは、苗場スキー場まで歩いていけない関係で古ヴィラは資産価値が暴落したのですね。
苗場スキー場白樺平ゲレンデ(新潟県湯沢町) 追憶のゲレンデ
http://old-skier.seesaa.net/article/338960570.html
西武苗場白樺平ヴィラ。ちょっとオススメの超安リゾート物件ではあります。
ポイントは「安さ」です。 それ以外は「ない」。
http://tsunoken.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/post-751a.html
2年前に浅貝ゲレンデも廃止されたので、今度は浅貝ゲレンデのすぐ近くの
1 ファミールヴィラ苗場タワー
2 ファミール・ヴィラ苗場
3 ノエル苗場
5 シェスタ苗場
の4軒の資産価値も暴落し、浅貝ゲレンデの廻りの旅館や店も殆ど潰れそうですね。西武のアホ経営者を恨んで下さい。
浅貝ゲレンデと白樺平ゲレンデは連絡路が有ったくらいなので、この二つを繋げれば巨大なスキー場になったのですが、西武にはそういう事を考えられる頭の有る人間が一人も居なかったという事なんですね。
古ヴィラはずっと苗場の恥だと思われていたみたいですが、最近は次々と外まわりの大規模修繕工事を実施して見た目だけは大分良くなっています。
古ヴィラは8号館以外は屋内に洗濯機を置くスペースも無く、1階の有料コインランドリーを使わないといけないので定住するには少し不便です。
ただ、管理費・修繕積立金・固定資産税や水道代は激安、コンクリート壁は厚く、冬季は全館の給湯器を24時間通電するので館内は暖かく水道の水抜きも不要、古いけど良く考えて作っています。
西武ヴィラ苗場6号館
http://www.himawari.com/yuzawa/mansion/2562.html
は特に苗場でも一番立地が良く、スキーシーズンの土曜日20痔45分から苗場スキー場で行われる花火大会が窓から至近距離で見えます。管理センターや新聞・テレビを置いたサロンも有り、何か勿体無いですね。
西武ヴィラ苗場1号館・2号館は駐車場が無くて不便です。
それから、西武ヴィラ苗場1号館・2号館の部屋の窓の外は深い森なのですが、良く見ると古い墓石が点在しています。
心霊スポットファンにはお薦めですね。
___
結論として、定住可能なのは
シェスタ苗場
http://www.himawari.com/yuzawa/mansion/2532.html
ファミール・ヴィラ苗場
http://www.himawari.com/yuzawa/mansion/2522.html
西武ヴィラ苗場8号館
http://www.himawari.com/yuzawa/mansion/2561.html
の3つ位でしょうか。
西武ヴィラ苗場8号館は屋内に洗濯機を置くスペースが確保されていますが、西武ヴィラ苗場9号館は洗濯機を置くスペースが無く、1階の有料コインランドリーを使わないといけないので定住するには少し不便です。
それから西武ヴィラ苗場9号館は駐車場が少し遠くて不便です:
My favorites 西武ビラ9号館
9号館は白樺ゲレンデに面していて一歩外に出ればそこはゲレンデ。
リフト乗り場まで滑って下りて行けます。でも」最近はこの白樺ゲレンデ、週末しか動いていません。
苗場スキー場まではバスが朝夕30分毎に運行。片道100円で5分位です。歩いても行けます。
駐車場は目の前に10台くらい置けるスペースがありますが、お正月や連休はすぐいっぱいに。
その場合、少し離れた大きな駐車場に置くことになります。
雪が降っていると毎日雪かきをする必要があるので、頭が痛いです。
http://www.myfavorites.jp/naeba/sub2.html
部屋を選ぶ際は、スキーシーズンの土曜日20痔45分から苗場スキー場で行われる花火大会が窓から見える部屋にした方がいいです。
それから
西武ヴィラ苗場クリスタル1号館
http://www.himawari.com/yuzawa/mansion/2542.html
も国道と反対側の部屋なら交通騒音が少なく定住可能でしょう。
西武ヴィラ苗場クリスタル1号館は屋内に洗濯機を置くスペースが確保されています。
屋内無料駐車場も使えるので、冬は車の雪かきに手がかからなくて随分楽になります。
43:購入ホヤホヤ [2013-04-16 17:50:31]
苗場クリスタル1号館を買って楽しんでおります。
プールとか温泉はないけど とにかくきれいです。
少しお金持ちになった気分です。 幸せです。
ただ、アクセスの面では、車がないと不自由かなと思います。
駅前になると古かったり、管理費が高くなったりしますね。
ひまわりさんに行かれたらよいかと思います。
https://www.e-mansion.co.jp/bbs/thread/197545/res/32-81/
______
しかし資金に余裕があるなら北軽井沢か蓼科にしておいた方が絶対にいいです。
特に温泉ファンなら、北軽井沢に住めば草津・万座等の日本で一番いい温泉を毎日廻れます:
北軽井沢・蓼科のリゾートマンションを地図から検索 ひまわり軽井沢店
http://www.himawari.com/map/k/2karuizawa.html
苗場・湯沢には信州の様な美しい山も湖も、高原らしい風景も無い。
雰囲気の良い街並みも、素敵な店も、文化施設も、泉質の良い温泉も、遊ぶ所も何も無い野暮ったい田舎町。
住んでる人のセンスや知的レベルも軽井沢や蓼科とは全然違う。
最近の夏は苗場でも暑くて、リゾートマンションにもクーラーは必需品になってしまって、苗場は避暑地としても失格ですね。
冬は 1月・2月でも雨が降る日が増え、粉雪が舞う日なんか無いようです。
苗場スキー場と苗場プリンスホテルが中国人に乗っ取られて、スキーコースの整備も昔と比べて完全にダメになったのも痛いです :
Re 苗場地区の将来は? 投稿者:タワー引退者 投稿日:2016年 8月31日(水)12時22分29秒
私は苗場スキー場に絶望してタワーを売却しました。
毎年いるとわかるのですが、経営が傾斜した時から、
・コースの廃止(火打ゲレンデはかなりコース廃止されましたね)
・コース整備の手抜き(コースは存在しても滑れない。大斜面も迂回くねくねが存在して、初中級者でも上から下まで何とか降りてこれたはず)、
・ロープウェイ・ゴンドラがすぐに運休(強風とか視界不良とかの理由ですぐ1日運休する)
・平日はさらにコースも縮小
・プリンスホテル内の店が穴あき状態(行くと営業してないとか)
・プリンスホテル自体が季節営業に以降(今は夏はやっているようですが、冬しか営業せず)
など、スキー場としてまともではなくなりました。
子供と外国人だけ相手して、下の方で滑ってろと言わんばかり。
子どももちょっと滑れるようになると、満足せず田代や湯沢まで遠征してました。
さらにスキーシーズン以外で営業していたゴルフ場も廃止されましたしね。
プリンスホテルだけのせいにするつもりは無いです。
地元も浅貝ゲレンデもM選手の仲間内だけでの営業(レストハウスで仲間内だけでの盛り上がりで営業しているのかどうかもわかず、地元のホテル・ペンションとの連携もなし)で、M選手がスキー選手のせいかスノボパークもなくなり、地元もやる気なし(浅貝と温泉のセットでもやればいいのに)
タワーは気に入ってたのですが、手放しました。
苗場は温暖化で雪質も悪くなり、さらに奥の三国スキー場があれば雪質の良さは多分売りになると思うんですけど、地元もこうじゃ難しんでしょうね。残念です。
http://8601.teacup.com/naebatower/bbs/983
もう苗場スキー場は駄目でしょう。 元々傾斜が きつ過ぎて上級者以外には向かないスキー場だったのですから。
しかし、西武のアホ経営者は何を考えていたのかな?
-
18
777
苗場・湯沢のリゾートマンションは現在はこういう感じ:
1126 by 匿名さん 2017-01-30 11:20:54
湯沢町スキー場はこの一週間、中国経済に乗っ取られております。
飛び交うのは中国語ばかり。
今年は例年に無く多い。
マンションエレベーターもロッカールームも、コインランドリーも、、、夜遅くまで大きな声で。
今年の春節は特に異様な雰囲気ですね。
ルームシェア、民泊?いやオーナー?
1127 by 匿名さん 2017-01-31 10:44:42
一番怖れていた 廃墟へシナリオ が現実になりつつあるんですね。
小中学校を統合した時点で人口を維持する気はないんだと分かりましたが、これからは生活保護受給者と中国人オーナーが増えて固定資産税や管理費の未納が増えて、額面10万円物件のババ抜きも加速しますね。
湯沢町は支出が増える一方で、固定資産税頼みの収入は減る一方。
駅前の高額物件が値崩れ始めてますよ。
そりゃ本屋も潰れますわね。まぁ、先のことは考えない町議会議員を選んでいる湯沢町の町民の自業自得ですけれどね。このまま『茹で蛙』目の前で見せてもらいます。
本当に買わずに借りて良かった。いつでも捨てられますからね。
「リゾートマンションに手を出すな。特に越後湯沢周辺はリスクしかない。」
大手不動産会社の友人のアドバイスに感謝をしています。
1128 by 匿名さん 2017-01-31 19:25:47
>>1127
生活保護受給者?
マンションのオーナーにそんな人がいるのですか?
1133 by 匿名さん 2017-02-01 14:21:18
ラ・ヴィの人か。
駐車場ひと月に14日しか停められないから、生活保護が寄り付かないんだと思うけど、暢気過ぎると思うよ。
リゾート利用者はいつもいる訳じゃないけど、定住者は毎日そのマンションで暮らしてる。定住者が全体の1割も居れば、雰囲気は変わっていくよ。
物件価格が二桁万円で管理費と修繕積立金の合計が二万以下のリゾマンは、生活保護受給者の格好の居場所になってるよ。苗場は言うに及ばず、岩原あたりのマンションは既にまともな方が少ないんじゃないの?
税理士なんて社会的には情報弱者なんだから自覚しないと。悪意なく貧困ビジネスに加担してるのに気付かないのかな。
1134 by 匿名さん 2017-02-01 16:29:21
南魚沼郡湯沢町の生活保護をもらう方法
http://arubaito.sakura.ne.jp/hogo/nigata.html
※管理費には「住宅扶助」は付きません。
※湯沢町は、物価が高いが3級地なので生活保護費は低いです。
1129 by 購入経験者さん 2017-01-31 19:33:49
中国人や生活保護に乗っ取られて大変やね、湯沢も。
1137 by 匿名さん 2017-02-02 11:48:53
年金生活だと悪くないような。
都内の安アパート(でも2万はないか)よりずっとよさそう。
所有してれば安心だし。
問題は冬の寒さかなあ。
1141 by 匿名さん 2017-02-03 06:03:10
昨夏、町内のリゾマン理事長ら30人、田村正幸町長、町や警察、消防の担当者が集まって意見交換する「連絡会議」が開かれた。
席上、ある理事長が説明した。
「うちには1人世帯の高齢者が18人いる。大浴場で汚物が見つかった。
3年前には高齢者がこの浴場で亡くなり、遺族は部屋の相続を放棄した」。
大浴場で気持ちよく失敬?
トイレが間に合わず風呂の中で失敬が無いとも考えがたい。
最近リゾート感が無いとの愚痴を、湯沢の飲み屋で話してたマンションオーナーが居たのも確か。
湯沢の安いマンションはこれから、社会の問題が押し寄せるのか、世の中より先に老後問題が始まるのか。
1142 by 匿名さん 2017-02-03 06:50:30
記事にあった、【ある理事長が説明した。「うちには1人世帯の高齢者が18人いる。大浴場で汚物が見つかった。3年前には高齢者がこの浴場で亡くなり、遺族は部屋の相続を放棄した」。】
こういう事故物件の情報も、販売の際に修繕費積立金などと同様に地元不動産屋はちゃんと情報提供するのか?それとも知らないと隠して販売をするのか?
以前のスレにもあった
>158 by 買い換え検討中 2014-09-22 12:49:56
>プレジールは一番風呂に洗わず入る引きこもりがいて風呂が常に不潔に保たれているのが痛い。
>あと定住者が多くてリゾート利用の場合、駐車場がほとんどない。
>夕方の駐車場でナンバー確認してみると良いよ。長岡ナンバーの軽だらけ。
>照明も暗くて、リゾート感ほとんどない。
こういう、人の話を全く聞かない住人(特に年配者は聞かないですから)が居ると嫌ですね。
1145 by 匿名さん 2017-02-04 09:52:30
自然死の場合は、告知義務はありませんから仕方ありませんね。
https://www.e-mansion.co.jp/bbs/thread/197545/
-
19
777
ファミールヴィラ苗場タワーの掲示板
>購入検討中 投稿者:原田知子 投稿日:2017年 1月24日(火)11時37分53秒
>皆様はじめまして、皆様お住まいのタワーマンションを購入若しくはレント希望のものです。
>一応中に温泉施設がついていたほうがいいかともおもいますが外に温泉施設もある様ですし
>皆様実際に住まわれている方々の生の声をお寄せください。
http://8601.teacup.com/naebatower/bbs/1055
>またまたお久しぶりの・・・ 投稿者:たぬP
>温泉や大浴場の有無に関しては購入を考える際には大切なファクターだと考えます。
>私の物件選びの時は以下のようにしました。
>①友達などを連れて行くこともあるので大浴場があるのが必須。
>②スキーシーズンは平日にも利用するし前泊で夜遅くに着くので平日も24Hで大浴場が営業しているのが望ましい。
>③温泉が引かれているに越したことはないが物件の価格が高かったり、腐食の問題等があるのは困る。(当時は草津や湯沢は高かった。 硫黄や酸化鉄の泉質は腐食・詰まりがおきやすいので注意が必要。)
>④スキーシーズン以外も山歩きなどで使いたいので大浴場は毎日稼動してほしい。
>温泉に関しては湯沢地区マンションの所有者(同一世帯の人まで)は湯沢町に登録すれば町営の温泉の利用カードが発行され、回数券を利用すれば1回 ¥200で何箇所か利用できます。(田代やみつまたなど)
HREF="http://8601.teacup.com/naebatower/bbs/1059">http://8601.teacup...
たぬPさんは温泉の事を何も知らないんだよ 投稿者:777 投稿日:2017年 1月31日(火)07時58分21秒
たぬPさんはリゾートマンションの共同浴場がどういうものなのか全然わかっていない様なので、真実を書いておきます
1141 by 匿名さん 2017-02-03 06:03:10
昨夏、町内のリゾマン理事長ら30人、田村正幸町長、町や警察、消防の担当者が集まって意見交換する「連絡会議」が開かれた。
席上、ある理事長が説明した。
「うちには1人世帯の高齢者が18人いる。大浴場で汚物が見つかった。
3年前には高齢者がこの浴場で亡くなり、遺族は部屋の相続を放棄した」。
大浴場で気持ちよく失禁?
トイレが間に合わず風呂の中で失禁が無いとも考えがたい。
最近リゾート感が無いとの愚痴を、湯沢の飲み屋で話してたマンションオーナーが居たのも確か。
湯沢の安いマンションはこれから、社会の問題が押し寄せるのか、世の中より先に老後問題が始まるのか。
1142 by 匿名さん 2017-02-03 06:50:30
以前のスレにもあった
>158 by 買い換え検討中 2014-09-22 12:49:56
>プレジールは一番風呂に洗わず入る引きこもりがいて風呂が常に不潔に保たれているのが痛い。
こういう、人の話を全く聞かない住人(特に年配者は聞かないですから)が居ると嫌ですね。
https://www.e-mansion.co.jp/bbs/thread/197545/
温泉や銭湯でマナーのない人
2件質問者:noname#7320 投稿日時:2003/11/12 16:52
私は20代女性ですので、女性の方しかわかりませんが、湯船にタオルを付けて入ったり、また、お風呂に入ってくるなり、お股もシャワーなり、おけで湯を取って洗わずに入ってくる子が最近多いので一緒に入るのが、きたなくて困っています。何かさりげなく言う方法などありましたらお願いします。
以前ツアーで行った時にも私らみたいな歳の子がいましてその子らは洗面のところで(シャワーのある所)で1人が
「トイレ行っとけば良かった」
と言い、その仲間も
「トイレまでもたないならシャワーで隠せば?」
と言ってその子はそこでおしっこしたみたいで、近くのおばさんに
「きたない!ここおしっこする所!」
と怒られていて次の日その子らはツアーにいませんでした。
回答者:ono_chan回答日時:2003/11/12 17:59
温泉でおしっこする女がいるなんて気持ち悪い!
アダルトビデオの世界ですね、まったく!
まともな人間は、風呂でおしっこしたくなったらいったん脱衣場かどこかのトイレに行きますよ!
我ら男でもそうです!
自宅の風呂ではすることあるけれど、他人が見てる前でおしっこするなんて、変質者ではないでしょうか?
あと、シャワーもかけ湯もしないで浴槽に入る人は、中年や年寄りにも多いです。以前通っていた下町の銭湯では、ほとんどの人間がそのまま湯船に入り、その中でお尻やお股をこするので、遅い時間になるとお湯が濁って異様な臭いが漂ってました。
すぐバス付きのアパートに引っ越しました。
______
でも、男の人もお風呂の湯船のなかで、お股やお尻を洗う人いるんですか?
ゾッとします。
女の人もそういえばマナーのないおばさんたちが湯船の中でタオルはつけてないけどお股を開いて前のお毛毛から女性のあの部分を洗っている人を見ました。女性は特におトイレの時も拭くぐらいなので菌をうつされるのが怖いです。
c-chan回答日時:2003/11/12 17:19
一人に対して3人くらいで言わないと聞いてもらえないでしょうからその場では無理です。
タオルをつけるのは明らかに旅番組の真似ですね。困りますが。
おしっこするのは家でもしてるからでしょう。家の風呂が下水道に繋がっている場合は流しさえすれば匂いもなく汚くないんです。汚い、と感じる人は家が下水でないせいかもしれません。
男性にもいると聞きびっくりしています。家のお風呂でもあの子らはしているんでしょうね。
女はおトイレの時にも拭くぐらいなので、一緒に湯船に入るのが怖いです。ひょっとして、湯船の中でしていることはないでしょうか?
回答者:Largo_sp回答日時:2003/11/12 17:17
男湯でも、よくいますよ……
若い子の方が、きれいにしてから入るんじゃないかなぁ
爺さんのほうが、湯船にタオルをつけたり、かけ湯をせずにはいったり多いと思います。
そういう人の数は、昔からかわらないのかなぁと
おしっこした子はちょっとかわいそうかなぁ
判らないようにすれば、わからないんですけどね……
男性にもいるのですね。汚いですね。
でも、なぜ、お風呂でおしっこした子がかわいそうなの?
女っておトイレでも拭くぐらいなのに
海水浴やプールでも長い事入って泳いでもいない子はおしっこしてるかもしれませんね?
あなたは、わからないようにするんですか?汚いよ。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/703894.html
お風呂でおしっこ
先日、とあるBarで若い女性二人と飲んでいたときのことです。夜も更けてきて適度な酔いもまわって、話題は自然とシモネタへと移っていました。二人の女性は「野ション」の経験について、告白?しながら話は更に盛り上がってきました。シモネタはもとより、おしっこネタなら私は誰にも負けません。私も積極的に参加して3人の会話は宴たけなわとなりました。
「そうそう、そういえばオレの彼女、毎日お風呂の時にシャワーを浴びながらおしっこするんだよ!
何でも水道と紙の節約にもなって一石二鳥だそうだよ!」
「え~~、実は私もしちゃうよ~~!」
「あ~!私も~~~!」
彼女達は、おしっこに対して「汚い」というイメージがまったくないようで、すごくアッケラカンとおしっこの話をしてくれました。
「シャワーを浴びながら立ったまましちゃう」
とか
「排水溝めがけてする~!」
とか、なんだか一人だけ男の私が、ちょっと恥ずかしくなるような場面もありました。
http://www.d2.dion.ne.jp/~727as/ohuro.html
プールや温泉の塩素臭は おしっこ と塩素の化合物の匂い
金メダリストのフェルプス選手が衝撃告白!
プールの中では皆が「ゴールドラッシュ」! 2012/8/8 20:59
五輪史上最多の18個の金メダルを獲得した競泳米国代表のマイケル・フェルプス選手が、インタビューで衝撃的な事実を明かした。
「皆プールではオシッコすると思うよ。水泳選手の間では普通のこと。2時間も水の中にいて、オシッコするために外に出たりはしない。したくなったときにするんだ。塩素で消毒されるから大丈夫だ」
と語っている。果たしてオシッコは塩素で消毒されるのか?
社団法人日本プールアメニティ施設協会によると、プールは水質を保つために、循環ろ過と塩素消毒を行っているという。
プールの底からポンプで水を引いて、ろ過器に通して、汚れを濾し取る。
その後、塩素を注入し消毒してプールに戻すことを繰り返しているのだという。
厚生労働省の基準では、水の濁り具合を示す「濁度」は 「2度」以下と定められているそうで、これは水道水と同じ基準でかなり厳格なのだそうだ。
気になるオシッコだが、
「体から出る皮脂や尿は消毒薬の塩素を消費します。これらが多くなると塩素とアンモニアが結合して、いやな塩素臭がします。」
とのこと、消毒はできるようだが、余りに多くなると、みんなが経験している「プールの塩素臭」がしてくるようになる。
「プールに入る前はきちんと体をシャワーで洗いましょう。それと、プールに入る前は必ずトイレに行ってください。」
と注意を呼び掛けている。水質を維持するためにも、女性は化粧を落とし、男性は整髪料を流すことを奨励しているそうだ。
そういえば、小・中学校でのプールの授業後には、いつも体から「塩素臭」がしていた。やはりみんなプールでオシッコをしていたということか!
みんなプールでゴールドを争うようにしていたということなのか!?
私もそうなのだが…。
http://netallica.yahoo.co.jp/news/310637
特に、中国人オーナーが多い所には まともな大浴場は無いでしょうね:
1126 by 匿名さん 2017-01-30 11:20:54
湯沢町スキー場はこの一週間、中国経済に乗っ取られております。
飛び交うのは中国語ばかり。
今年は例年に無く多い。
マンションエレベーターもロッカールームも、コインランドリーも、、、夜遅くまで大きな声で。
今年の春節は特に異様な雰囲気ですね。
ルームシェア、民泊?いやオーナー?
https://www.e-mansion.co.jp/bbs/thread/197545/
関西の温泉街にある某大型ホテルは、上階に大浴場と露天風呂がある。
「その風呂に中国人の親子が入ってきた。父親はデジカメを風呂に持ち込んで、子供が浴槽に飛び込む様子を撮っとるんや。"風呂で泳ぐな"と怒る客がおっても、一向にやめようとせん」(日本人旅行客)
ようやく、"撮影会"が終わったかと思うと、今度は湯船に浸かりながら歯磨きを始め、「2人とも、浴槽のお湯で口をゆすいで、そのまま湯船に出したんやで。アホか思うて注意したら、"温泉も濁っているのに"みたいな感じでな。ホンマに調子狂うわ」
「中国には、そもそも"マナー"という言葉がありません。いまの中国は経済発展の途中で、とにかく稼ぐことが重要。"カネさえ払えば何をやってもいい"と考えてしまうんですよ」
http://taishu.jp/detail/2237/
Question : nekokiti1118さん 2013/1/29
温泉宿やスーパー銭湯は お湯を替えてますか?
今日、近くのスーパー銭湯に入浴していると お湯がかなり汚い状態でした。
店員の女性が通りかかったので、どれぐらいの周期でお湯を替えているのか聞いたところ、あからさまに嫌な顔をされ、『わかりません!』と答え、話し終わってもいないのに逃げるように去って行きました・・・。
そこで教えて欲しいのですが、スーパー銭湯や温泉宿で働いた事が有る方、もしくは家族などがパートで働いてスーパー銭湯の内部的な情報を知ってる方居ましたら教えて欲しいのです。
お湯替えてますか?
Answer 1 toshigimaさん 2013/1/29
「温泉かけ流し」以外は循環し、濾過器を通して湯を再利用している
スーパー銭湯ならほぼ100%湯は循環、再利用しているよ
Answer 2 kaedechrさん 2013/2/20
良心的な施設でも週一回くらいしか交換していないでしょう。ひどいところになると月一回なんていうところも絶対あるはずです。レジオネラが見つかるような施設です。私は怖くてスーパー銭湯へはいけません。
Answer 3 angie0214girlさん 2013/1/31
スーパー銭湯などの温浴施設の設備管理をしているものです。
スーパー銭湯など大規模な温浴施設の場合、「源泉かけ流し」と明記してあるもの以外は、お湯を循環、加温、加水などして繰り返し使用しています。これは営業上しかたないことだと思いますが…
掃除の頻度は法律で決められていて、循環ろ過をしている場合は最低週1回のお湯と入れ替えと清掃が定められています。
Answer 4 ygfcp427さん 2013/1/30
私の働いた事のある温泉宿の浴槽清掃周期です。
源泉掛け流しの宿⇒毎日
源泉掛け流し・加熱・加水の宿⇒毎日
循環温泉・加熱・加水の宿⇒一週間に1回
スーパー銭湯は働いた事が無いので知りません。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12101108767
訪問整体で活躍する整体師のメッセージブログ
私は箱根で6年程、仕事をしていますが、実は温泉好きが高じて箱根で仕事をしているようなところがあります。そこで、宿泊施設で仕事をしていて発見したことがあります。それは、
日帰り施設の専門のところは、利用者が多いところで1日、およそ2千人ということを。 ということは、それだけ、温泉が汚れる!ということです。
いろいろと消毒したり、循環でろ過したりと、利用の際はとくに、問題はありませんが、やはり、温泉通としては、泉質にも少しこだわります。
そこで、お勧めなのが、旅館などで解放している日帰り温泉です。宿泊施設によってですが、小さいところは1日100人いません。ということは、日帰り専門の施設よりは汚れないことを意味しています。
故に、旅館やホテルの日帰りのほうがよいということです。
http://ameblo.jp/mentaruseitai/archive1-201205.html
-
20
777
今後10年はリゾートマンションのゴーストタウン化かスラム化が進みそうですね:
53 :名無しさん@ゲレンデいっぱい。:2015/08/18(火) 07:33:41.43
あと老人定住者問題は?
湯沢のリゾートマンションは姨捨山になっていませんか?
54 :名無しさん@ゲレンデいっぱい。:2015/08/18(火) 07:52:12.76
>>53
買値も維持費も安い苗場の西武ヴィラとかは危険。
104 :名無しさん@ゲレンデいっぱい。:2015/08/18(火) 21:16:19.18
苗場の西武ヴィラは維持管理費が安いのもあって、浮浪者に近いような老人がいてかなり怖かった。。
今は湯沢のライオンズだが、永住老人は少ないし、身なりもそれなりで全然不快じゃない。
767 :名無しさん@ゲレンデいっぱい。:2015/10/16(金) 07:35:27.25
リゾートマンション買うなら、思いっきりハイグレードの物件のビリっけつを買うのがいいよ
ゴールデンウィーク、お盆に偵察に言って、駐車場に、ベンツ、アウディ、、、みたいな外車の展示会状態、歩いているのは上品な富裕層(なんとなく)、みたいなところのがいい
だいたい管理費滞納状況と相関関係ありますから
大規模修繕工事といっても、貧乏人がたくさんいると反対意見が出て進まない
みんな他にも不動産もっていて余裕のある連中ばかりの物件は安全。
それに、三井パークシティLALA横浜の「ピサの斜塔事件」もあるけど、
たぶん三井なら損害賠償に応じる。財閥だから。
こういうことを考えると、リゾートマンションは、思いっきり高級なところがいいと思う
予算がないなら、その低層階の小さい部屋を買えばよい
居住用物件とまったく違う世界だから
768 :名無しさん@ゲレンデいっぱい。:2015/10/16(金) 07:41:33.45 >>763-765
リゾートについては「金持ちの中に入り込む」のが安全。
なぜなら、別荘地でもマンションでも、共用部の管理が崩壊したら、すべて終わる。
管理が命、これがリゾートの宿命。
じぶんは庶民だけど、一部上場企業の役員だらけのところが絶対にいいよ
湯沢で、地元の貧乏人が居住用にしたり、国民年金7万円の下層老人が、貯金はたいて買うような物件は、
絶対アウト。そのうち、負担金で揉める
55 :名無しさん@ゲレンデいっぱい。:2015/08/18(火) 08:47:39.94
苗場、湯沢あたりは毎年独居老人の孤独死が起きてる。
56 :名無しさん@ゲレンデいっぱい。:2015/08/18(火) 16:51:12.51
新聞記事だけど、30万くらいのリゾマンを買って親を連れてきて置き去り、
その後放置で、町役場が対応に追われているって。
68 :名無しさん@ゲレンデいっぱい。:2015/08/18(火) 19:54:17.66
平日にGALAやかぐらの無料休憩所いってみろ。
老人ホーム状態だぞ。こいつらがリゾマンの住人と思うと恐ろしくてリゾマンなんて買えない。
95 :名無しさん@ゲレンデいっぱい。:2015/08/18(火) 21:02:16.18
老人ホーム化とかいっているのはピントずれている
雪国で最悪の結末は、管理ができなくなり水道施設凍結故障。
老朽化したマンションでこうなると、どうにもならない。
苗場あたりのマンションではありえる話。
ゴーストマンションではなく、文字通りコンクリートの廃墟となる。
軍艦島のような結末。
http://hayabusa6.2ch.net/test/read.cgi/ski/1434758230/
161 :名無しさん@ゲレンデいっぱい。:2015/08/19(水) 15:11:50.82
ゆざわの物件見たけど、けっこう危ないの多いよ
大丈夫かもしれないけど、今後は不透明。
http://www.tokyu-resort.co.jp/tateshina_yatsugatake/
はっきりいって高いけど、こういう東急みたいな鉄道系の資本が入っているのは別荘地だろうと、マンションだろうと安全。
250 :名無しさん@ゲレンデいっぱい。:2015/08/24(月) 03:39:21.66
いろいろランクあるけど、鉄道系資本の入っている別荘地は、だいたい、一部上場企業の役員クラスが最低ランク。
405 :名無しさん@ゲレンデいっぱい。:2015/08/30(日) 20:02:08.13
勘違いしている人がいるようだけど、インチキ別荘も多いよ。
別荘っていうのは、財閥か電鉄会社が資本に入っているようなものを言う
http://www.mitsuinomori.co.jp
バブルの頃に、インチキ別荘が大流行した
原野商法、分譲詐欺って聞いたことない?
http://www.tahara-kantei.com/column/column40.html
このへん読めばわかる。
簡単にいうと、別荘地なんて簡単だから。
広大な原野を二束三文で買う。
政治家に賄賂を払い、建築許可が降りるようにする(これすらやらないところもある)
ブルドーザーいれて、道をつくり、測量士に境界杭を打たせる
はい、これで完了
コンテナハウスをならべて現地販売事務所を作れば、バブルのころは飛ぶようにうれた
首都圏近郊に山中にあやしい区画分譲された住宅地があるのはそのため。
そういうのを見て「別荘」と思ってほしくないない
正確にいえば詐欺の被害者のバカ住宅地。
建っている別荘の豪華さは全く無関係。
原野分譲の土地に、バブルのころだから巨大なログハウスをどーんと立てて、いつのまにかまわりが原生林になってしまうのはいっぱいある
自分の知る限り、群馬 栃木 千葉 静岡、このへんは猛烈にすごい
東京から車で3時間程度の距離で、ゴミのような土地がいっぱいあるところが悪徳不動産業者に狙われた
なぜかというと、箱根 軽井沢 八ヶ岳など、すでに別荘開発の歴史が長いところは、二束三文のゴミ土地が見つからないから。
上記の苗場のやつとかは、老朽化したのものあるけど、基本的には歴史ある別荘地でしょうな。
規模は小さいけど。
407 :名無しさん@ゲレンデいっぱい。:2015/08/30(日) 20:37:58.40
旧軽井沢でもゴミみたいな土地があるけどな。
長野県北佐久郡軽井沢町大字軽井沢 283.14坪 50万円(0.17万円/坪)
http://www.himawari.com/karuizawa/t-sales/32024.htm
408 :名無しさん@ゲレンデいっぱい。:2015/08/30(日) 21:17:49.60 >
>407
あやしいね
施設水道加入金が77万円、管理費だけで3万、いったい何を管理してくれるんでしょうね
それと私道が舗装されていない砂利道という点で、まともな別荘地ではありえないです
砂利道なんて、5年もしたら、原生林に戻ります
412 :名無しさん@ゲレンデいっぱい。:2015/08/30(日) 21:28:35.18
>>408
そのまともじゃない別荘地が軽井沢にも沢山あるってこと。
軽井沢だから無条件でいいってことはない。
このあたりも軽井沢だけど、ゴミ土地だな。
http://www.tokyu-resort.co.jp/detail/25799
http://www.tokyu-resort.co.jp/detail/24849
http://www.tokyu-resort.co.jp/detail/26262
411 :名無しさん@ゲレンデいっぱい。:2015/08/30(日) 21:27:48.68
ちなみに別荘地は、まともなところは、管理費で、道路と駐車スペースまでは完璧な除雪をしてくれる。
駐車スペースから玄関は、別途有料だけど、管理事務所で請け負ってくれるよ
家の掃除から何までやってくれる(有料ね)
これが、分譲マンションなどと違うところ。
分譲マンションは管理人とかコンシェルジェとかいうけど、家の掃除はやってくれない
あくまで共用部のみ
でも別荘は金持ち用なので、金さえ払えば何でもやってくれる。
441 :名無しさん@ゲレンデいっぱい。:2015/09/01(火) 20:55:43.91
別荘地と宅地の比較
(1)別荘地
・うざい町内会がない
・ゴミは基本的に24時間
・お客様待遇
☓しかし、管理費必要、ディベロッパーが倒産すると弁護士介入で大混乱
(2)宅地(田舎)
・基本的に市民と同等のサービスが地方自治体から受けられる
・固定資産税の評価額が妥当
・地元民と融合できる
・地元のお祭りや行事に参加できる
☓別荘利用でも、町内会自治会に入れと言われる(地域による)
☓ゴミ集積所が曜日の朝のみ
☓掃除当番
☓わけのわからない寄付金、地域によっては他人の葬式の雑用までやらされる
結論、金があるなら別荘地。
金はないけど、愛想がるなら、一般住宅地
774 :名無しさん@ゲレンデいっぱい。:2015/10/16(金) 13:45:34.46
スキー場隣接だと思って買ったらスキー場倒産っていうオチもあるしね
湯沢にもいっぱいあるよ
石打丸山の北側に2つ廃屋だらけの残骸がある
たぶんペンションか別荘と思われる残骸が、あるんだけど、
この人達は、何処に言ってしまったんだろうと思う
ペンションサイズでバブル時代、6000万オーバーだったんじゃないかと思う
それが、今は無価値
言ってみると、スノーモービル使って、まだ住んでいる人はいるみたいでした
http://hayabusa6.2ch.net/test/read.cgi/ski/1434758230/
[PR] 周辺の物件
同じエリアの物件(大規模順)