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収入の多い共働きのほうがよいですね
[スレ作成日時]2005-10-14 00:51:00
収入の多い共働きのほうがよいですね
[スレ作成日時]2005-10-14 00:51:00
日本における学歴信仰 [編集]高度成長期の日本ではおおむね学歴は信仰されていた。それは様々な文献で指摘されている。
人々の間に学歴信仰が広がっていたがゆえに、多くの親が子に学歴をつけさせれば子の将来は保証されると信じた。そのため非常に多くの割合の親が、子供に良い学歴をつけさせようと必死になり、その結果 受験戦争という現象が起き、それが過度に激化した、ということはしばしば指摘されている。(この受験戦争という現象は当たり前というわけではなく、日本以外の国ではそもそも受験戦争という状況自体が存在しない国も多い。)
だが日本の学歴信仰は、(論者によって若干時期は前後するが)1980年あたり、あるいは1980年代あたりからそれは崩れ始めた、と指摘されている。
1996年の段階で、「この20年ほどの間に、社会の中の学歴信仰や学校信仰には、明らかに陰りが見えはじめた。」と書かれている。学校が提供する価値や情報よりも、今日の黄熱した消費社会やサブカルチャーが提供する価値やモノの方により多くの魅力を感じ、そこに自らの存在感や生きている意味を見出す若者が増えた、と指摘されているのである。
大学関係者側からも学歴信仰は問題視されるようになっていた。日本の大学での学問や教育の在り方が危機的な状況になってしまった原因としては、学歴信仰が指摘されることが多い、と1979年の『日本の大学』には記述されていたのである。すでに学歴信仰が存在することが社会問題化していた。
1970年代の終わりには、産業界側からも、もう“学歴”などというあてにならないものではなくて、実際の能力が必要なのだ、といった内容の声が高まってきた、と指摘され、具体的に日経連の労務・人事関連の委員がどのように考えているか、ということも紹介されていた。
企業の側の意識の歴史を振り返ると、かつて高度成長期の時期などは、経済全体が膨張し会社の収益も大きく膨張傾向にあったため、従業員の仕事の実力があろうが無かろうが さして問題にならず、年功序列制で従業員全体をまるごと抱え込みつつ形式的な制度でヒエラルキーを構築してそれでもって会社を運営していても さして問題も起きなかったためそうした企業が総じて多かった。だが、1980年代のバブル経済崩壊後は、総じて経営環境が厳しくなり収益の悪化や赤字へ転落するなど存亡の危機に直面するようになり、実際に仕事の具体的な結果を出し収益や利益が出さないと生き残ることはできないため、企業の経営者の多くは、個々の従業員・管理職の(形式上のスペックや、あいまいなイメージではなく、また古い過去の仕事の実績ですらなく)直近の将来にどれだけ会社の売上に貢献できるのか、という仕事上の実力、その時点での実力を厳しく吟味せざるを得なくなった、ということはしばしば様々な学者・産業人から指摘されている。また人事担当者などが定期購読している人事担当者向けの雑誌などでも、学歴は統計的にみて必ずしも仕事の上での実績には影響していない、という調査結果などが掲載されるようになっていた。そういうことによっても、日本の人事・採用担当者の側で学歴に対して幻想を抱かない人や、学歴を疑問視する人は増えていった。
子供の側の意識についても、少なくとも'90年代の初頭から子供たちの心の中で学歴信仰は崩れ始めていた、と中川浩一は指摘している。大人が想像する以上に、子供たちは社会の変化を敏感につかむ、と指摘されている。
2000年代になってからは、東京大学を出てもかなりの確率でフリーターになってしまうことはさかんに報道されるようになった。また大学院へ進学したとしても、統計的に見てとても、良い人生が待っていると言えるような状況ではなく、ポストドクターになって行き詰ってしまったり、フリーターになってしまうなど、非常に困難な状況に追い込まれる確率も増えることも、水月昭道などから指摘されるようになった[5]。
ただし、学歴も、若者が目指す職種によっては一定のそれはそれなりに必要な場合はある、ということは事実であるので、全否定されるようになったわけではない。学歴というものの効力が、ケース・バイ・ケースだと判断されたり、各人の人生計画次第だ、とされることが増えているのである。現在では、学歴の効果は限定的だと指摘している書物は多い。メリット以外にデメリット、効果とともに逆効果などを挙げて、主体的な目的意識をもって教育機関を利用することや、世の中には学歴とは無関係に勝負でき、なおかつまっとうな世界・職種が多数存在していることを挙げて、そうした世界へと針路をとることを薦める書物なども増えており、そうした点では日本は相当に、学歴信仰は脱した状態になっている。