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最近又良く話題になるいじめ。
昔からいじめはあるけど、教育委員会や学校、校長も悪いかもしんないけど。
いじめてんのは学校等に文句言ってる親達の子供だからね。
完全に大人をなめてる子供。こういうふうに育てた親の責任はどこへやら・・
ただ、あの女の子の「私が死んだら〜」の文を遺書じゃないって言っていた
ギョロ目のおっさんはゆるせんな
どうでしょか??
[スレ作成日時]2006-10-18 12:21:00
最近又良く話題になるいじめ。
昔からいじめはあるけど、教育委員会や学校、校長も悪いかもしんないけど。
いじめてんのは学校等に文句言ってる親達の子供だからね。
完全に大人をなめてる子供。こういうふうに育てた親の責任はどこへやら・・
ただ、あの女の子の「私が死んだら〜」の文を遺書じゃないって言っていた
ギョロ目のおっさんはゆるせんな
どうでしょか??
[スレ作成日時]2006-10-18 12:21:00
いじめのある社会といっても別にそれをよしとしているわけではないんですよね?
確認しているだけですが。
でもいじめがありふれた場所と、たいしてない世間とくのは今でもあると思います。
それにいじめがあるのは当たり前というのも、今後のいじめに対する対応次第で変わっていくかも
しれません。
あるのが当たり前という態度でいる限りはなくならないと思いますが。
>子供を信じ、犯してしまった過ちをも受け入れるいう姿勢は、親として
>当然のものだと私も思っていますが、例えば「罰」は別の問題だと思います。
>その「罪は罰するべきなのだ」というニュアンスが、『ありのままを受け入れる』という
>表現の中には一切感じられなかったので、こうして意見させて頂いているのです。
>私も、わが子が「いじめる側」にまわった時には厳しく対処する覚悟です。
>その際には『ありのままを受け入れる』などという態度は考えられません。
>そういう姿勢でいればこそ、お互いに信頼できるのだと思うのですが。
全く同感です。
子供がいる親でも色々な考え方があるし、子供の性質にもよるだろうし、子供がいるいないは関係ないと思いますよ。
私は子供がいますが、353さんの考え方のほうがよっぽど近いです。
>361
子供をありのまま受け入れるというのはわかりましたが、ではあなたの子供が加害者になったとき
どうするのですか?
勿論、ただ受け入れるだけではないと思いますが、上にも更正させるのは一番の謝罪と書いていた人がいましたがそんなわけありません。
被害者の立場だったら、相手が自分を踏みつけてまともな人間になれればそれで一番なんて絶対に思わないでしょう。
自分が、いじめられた側だったら、いじめた側が将来、どんなに立派な人になったとしても、
許せないでしょうね。
いっそ、自分より不幸になってくれた方が、心が晴れるかもしれませんね。
いじめた側は、時効だと思っていても、いじめられた側には時効なんてないんですから。
やりかえせ、意地見せろ、やったれぇ〜
ありのままを受け入れる、ってとても素晴らしいことにも思えますが、
何もできない、してやらない、責任も取らないと紙一重のように感じます。
>>361
>>学校での集会で親達は子どもの成績ばかりに感心を寄せて
>>心を見ようとはしなかったと反省したと聞いています。
本当に、そういう事なんでしょうか・・・・。
全ての親が成績にしか関心が無かった訳ではないでしょうし
逆に、しっかり子供と向き合っていたつもりでも
子供は子供で親の与り知らないところで悪さをしていた、という事例も
現実には相当ある筈。
私の記憶を辿ってみても(成長してからの補正は多少あるにせよ)
小さい頃は小さいなりに、自分にとっての利害を計算しながら
大人の顔色を伺って行動していたところがある気がします。
子供とは決して天使の様に純真無垢な存在なんかではなく
したたかさとズル賢さを備えた一個の人格として、我々が思う以上に
早い時期から独り立ちしているのではないかとさえ思えます。
そして私の親も、子供に対しては『ありのままを受け入れる』という
かたちでの愛情表現は決してしていなかったのではないかと。
私の母は優しい人間でしたし、常に私の味方でいてくれましたが
そんな母でさえも、私を否定し時として手を上げる事がありました。
(私も決して常に良い子ではなかったので)
親に詰られ叩かれる事によって、その時はひどく傷つきます。
しかし子供は子供なりに、その都度逃げ場や居場所を探し
少しずつ強くなることによって、時とともに傷の痛みを忘れてしまう。
基本的には親を信頼しているからこそ、です。
そして一方で己の過ちを反省し、繰り返さない事を体で覚える。
・・・・『ありのままを受け入れる』などとという事ではなく
こうして親から否定されたり親を否定したりする事を繰り返すうちに
養われていく「正常な感覚」も在るように思うのです。
私も、親に毅然としたところがあったからこそ信頼していたのでしょうし。
※この課程で必要以上に傷を負い過ぎて、本当におかしくなってしまう
子供達が、現実にはいるのだと思います。
が、少なくとも彼らを、親が『ありのまま受け入れる』事で救えるとは
私にはどうしても思えません。
ましてや、そういう「彼ら」に傷つけられてしまう子供たちは尚更です。
私の体験や意見は私だけのものであり、一般性は無いのかも知れない。
しかし、そういった「固有例」の集まりこそが社会なのだから
現実に起こっているトラブルには、お決まりの言葉を当てはめるのではなく
その時その時、場面に合った言葉を使わなければならないと思うのです。
長くなりましたのでまとめます。
『ありのままを・・・』という表現は、実際にいじめで苦しんでいる子供達に
とっては何ら救いとならない言葉である以上、不適切だと私は考えます。
「誤解を招いた」と、ままん侍さんはおっしゃいますが、それも違う。
言葉の意味を、私をはじめとする「受け取る側」が誤解しているのではなく
以前も書いたように、言葉そのものがカラッポだと思うのです。
いじめられた人は一生、人を恨み、憎しみながら生きていくのでしょうか?
その「人」というのは全ての人ではなく「いじめた人」を、ならあるでしょうね。
少なくともそのいじめた人との記憶ではいじめを忘れることはないんじゃないでしょうかね。
いじめられた人にいじめた人を許してあげましょうなんていうのはそれこそキレイゴトです。
たいしたいじめではないいじめを受けたことがあり、相手の更正と幸せを心から願った人がもしいたとしてもそんなの大したことじゃなかったからでしょうよ。
>>363
あなたはいじめた子が更生して謝罪することを望まないですか?
更生することは健全な心を取り戻し、自分がやってしまった罪の深さを知り
ここから反省することだと言っているのですよ。
更生していない子の謝罪を受けて納得しますか?
親から言われた形だけの心のない謝罪を求めますか?
いじめた側に時候があって、いじめられた側に時候が無いなんてどうして言えます?
過去にいじめに遭った人でも、今では明るく幸せに生きている人は沢山いるでしょう?
過去の不幸をバネに前向きに生きている人は素晴らしいと思います。
363ではありませんが、あなたのレスはちょっとずれてると思います。
過去の不幸をバネにって、別にその不幸がなくても十分幸せな人生を生きていくこともできるし
実際できる人もいるんですよ。
その言い方じゃ、まるで過去の不幸のおかげで幸せになれたみたいだし、まるで感謝しろとでもいいそうです。
とても失礼ですね。
それにではバネにできなくて、自殺までする人はどうなんです?
また自殺する人が悪いと言い出しそうですが、自殺までしなくてもず〜と心に傷をもっているくらいの人ならいくらでもいると思いますけど。
個人的には更正して謝罪するなんていうのは最低限のことです。
心から反省されても、実際に受けた傷というのはそう簡単に癒えるものではないでしょう。
いじめた子がいじめられた子以上に幸せな人生なんて歩いて欲しくはないですね。
更正して謝罪すれば終わりだなんて、全くもって被害者の人達のことをわかってないか想像力の乏しい人としか思えません。
更正していない子の謝罪なんて受けませんよ。そんなもの謝罪でも何でもありません。
それに謝罪を受けたくもないという被害者の人達だってたくさんいます。
あなたにはそういう気持ちがわかりませんか?
>更生していない子の謝罪を受けて納得しますか?
>親から言われた形だけの心のない謝罪を求めますか?
こんなことありえるわけないでしょう?誰がそんなことで満足するとか形だけの謝罪を求めているとか書いてありましたか?
読解力ももう少しつけてくださいよ。
370の子供がいじめっ子にはならないことを心から祈ります。
被害者の人がかわいそうです。
ありのまま受け入れるって…例えば
注射が痛いって言う子に対して「痛ない!痛ない!」じゃなくて
「そう、痛かったね〜」ってその子の気持ちをまず受け入れること。
子どもは自分の気持ちを表現し、それを受け入れてもらえれば
どんどん自分の気持ちを表し、そこに自尊感情が育まれます。
「痛い」でもそれは病気にならないために必要なんだと理解すれば
自分のために我慢することを覚えます。
それは自分をなくして親のためにすることではありません。
「痛い」という思いを否定されると痛いと思った自分が間違ってたんだ、と思います。
そうした経験を繰り返すと自分を信じられなくなっていきます。
自己否定感が長く続くとそれは暴力の基盤となります。
ありのまま受け入れるということは、
謝った行為を容認するという意味ではありません。
何が出来ても出来なくても
頭が良くても悪くても
親の思い通りいかなくとも存在そのものを受け入れるということです。
そうした体験、自分を受け入れてもらう居場所のない子が
いじめをしたり、またいじめられて自殺にまで及ぶのだと思います。
以前にいじめられたら『仕返し』より『見返してやれ』と言いました。
すると『勉強で?仕事で?』と問われましてた。
私は『幸せになれと言う』と答えました。
いじめに対する復讐は『自分が幸せになること』だと思いますが違いますか?
人を恨み、憎しみんでいて幸せになれるでしょうか?
いくら時間がかかっても自分がその恨み、憎しみを克服しないと
いじめに勝ったことにはならないでしょう?
幸せは地位や名誉や財産を得ることではないですよね。
幸せは自分の心の中にあるものだと私は思います。
これはまたキレイごとだと言われてしまうのかな?
キレイゴトですね。まさしく。
いじめられなくても幸せになれます、人は。
なれないとしたらまさしくいじめた人のせいですね。少なくともいじめた側がいじめられた人に
幸せになるために、いじめを忘れろなんて言うだけおこがましいこと。
それに別に人一人くらい恨んでいてもそれなりに幸せにもなれるでしょう。
で374さんは自分の子供がいじめをしたらその子をいじめっ子としてありのまま受け入れることと何をするのですか?
いじめというのはいじめっ子の存在だけでなく相手がいるのです。
その相手のことに何も触れないでいるのがやはり違和感があります。
別に書いてあることはその通りだと思いますが、それで、現実としてどうするのですか?
>>368
最初にも書きましたが、私の場合は幸い「孤立」はしていなかったし
被害そのものも深刻なものではなかったからか、後々まで
尾をひくほど「負の感情」を抱くことはなかったですね。
とにかく、相手と距離を置くことが出来ただけで嬉しかった。
ちょうど学年が変わる時期に近い事もあったので
クラス替えがあれば物理的にも離れる事ができる、という希望もあった。
相手から見れば、私は虫の好かない相手だったとか
ちょっかいを出しやすい相手だったとかいう事情は有ったのでしょう。
そこも含め、当時も本当は「なぜこんな事になったのか」という事を
私自身もっと深く考えても良かったのかも知れません。
しかし、それでもそんな過去の事はどうでも良いと思えるくらい
悩みから開放された事だけが私にとってはすべてでした。
むしろ、相手の方が私に対し感情的な「しこり」を残したかも知れません。
見方を変えれば、要するに私は「親にチクった奴」な訳ですから。
(相手から後日それに近いリアクションを受けたことも少々記憶しています)
ただ、昨今ニュースで報じられているようなケースについては判りません。
それこそ、当人でなければ解らない苦しみというものがあるでしょうし
それが蓄積されるかどうか・されるとどうなるかには個人差があると思います。
しかし、普通の子供なら、本来学校では友達と楽しく過ごしたり
勉強やスポーツで自分を磨く機会を十二分に与えられている筈。
そのかけがえの無い機会を失った悲しみが、憎悪に変換されたとしても
誰がそれを非難できるのでしょうか。
自ら命を絶たなければならないほどの苦痛・・・・解る様でいて
やはり私には想像もつかない闇の世界です。ましてや学校の中で。
本当に気の毒でなりません。
おはようママさん、貴方はその問いに答えを得たとして何を感じるのですか?
私なら敢えて、「恨み憎んでも無理はあるまい」と答えます。
いくら読み取ろうとしても他人の心。想像の域は出ませんが。
>過去の不幸をバネにって、別にその不幸がなくても十分幸せな人生を生きていくこともできるし
実際できる人もいるんですよ。
その言い方じゃ、まるで過去の不幸のおかげで幸せになれたみたいだし、まるで感謝しろとでもいいそうです。
あなたは極端な考え方をされますね。実に想像力が豊かな方です。
あなたは過去に嫌な経験もいい経験もされてきたでしょう?
あなたの過去は全てあなたの人生ですよ。
どれも削除することなんて出来ないんです。
過去に辛かったことや苦しかったことがあれば
その分幸せになろうと思わないですか?
ズレてるのはあなたじゃないですか?
>いじめに対する復讐は『自分が幸せになること
もともとそんな風に思いません。
自分が幸せになることといじめとは別問題です。
自分が幸せになることでいじめに対する復讐になんてならないでしょ。
いじめた子が幸せかはともかく、「立派」な人間になっていたらそれは嫌でしょうね〜。
>379
多少嫌な経験というのは勿論してますが、削除したいほどの嫌な経験というのはないもので。
過去も今も幸せだったと思います。恵まれていると自分でも思っています。
誰かを見返すために幸せになろうなんて考えたこともありません。