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これってむしろ池袋~渋谷までに残留地区が全く無いとなったら行政も避難され、資料発表しただけでパニックになりそうだから
駅周辺のちょっとだけビルの多い地域を申し訳程度に残留地区に指定しただけに見える。
新宿池袋渋谷の区の広さと比較して残留地区の面積比があまりにも少なすぎる。
周辺部の人々が一斉に避難してきたらどうなっちゃうの?
まさか泉岳寺まで出してくるとは・・・
もはや、港南とか関係なくね?
>>6833
池袋では造幣局跡地にヘリが着陸できるほどの防災公園の建設が着工中。
ほかにいろいろ待機空間をもった施設が次々に完成予定らしいけれど。
http://kenplatz.nikkeibp.co.jp/atcl/knpnews/14/660651/030400008/?P=2
>>6795
東京の埋め立てってさ、住居用のために埋め立てたことってあるの?
元々はね、ゴミ処理用で埋め立てたんだよ。江戸の昔からの基本。その後港湾整備や工業用地拡大を目的とした埋め立てはあっても、最初から住宅を目的とした埋め立てはない。のちの工場移転などに伴った再開発として埋立地の住宅の整備を進めたの。
東京で小学校時代を過ごせば、そのくらいのことは普通に教わる。だから不動産購入で野心を持つ一部の人を除いて、湾岸エリアは元々の都民にとって住まいの検討範囲に入らない。
埋立地の歴史は住宅地拡大ではなく、ゴミ処理の歴史。おわかりかね、東京知らずの港南くん?
あ~あ楽しかった。今日はここまで
また暇見つけて外苑から遊びにきます
ヨロピクね 品ッピー
>>6829
密集地の火災対策は、都としても放置できない重要課題だから取り組みは鋭意始めている。
ただ内陸部の面積があまりにも広く、対処療法的対応では真の解決にはほど遠いのが現状と言える。
>>6842
東京の埋め立ては、江戸の当初から住居を確保するために実施された例が多い。
家康が入府した際に最初に取り掛かったのが、神田山を切り崩しての日比谷入り江の埋め立てだ。
これによって丸の内の大名屋敷の敷地を確保できることとなった。
またゴミによって埋め立てたというのも神田山の例に見られる如く正しい理解ではない。
歴史は客観的に正しく学ばなければ意味がないので、様々な書籍にあたって勉強しなおすとよいだろう。
>元々はね、ゴミ処理用で埋め立てたんだよ。江戸の昔からの基本。その後港湾整備や工業用地拡大を目的とした埋め立てはあっても、最初から住宅を目的とした埋め立てはない。のちの工場移転などに伴った再開発として埋立地の住宅の整備を進めたの。
本当に歴史知っているのか?江戸の歴史は埋め立てと運河形成の歴史だ。不勉強もたいがいにしたほうがいい。
天正18年(1590) 家康 は、駿府から江戸に移り、道灌が築いた江戸城を居城としました。当時の江戸は江戸城間際まで日比谷入江が入り込み、現在の皇居外苑のあたりまで海だったそうです。この頃、江戸の地は、前に海が迫り、江戸湾沿いの地帯には多くの汐入地が点在し、満潮になれば海水が入り込み、 潮が引けば、葦や萱などが生い茂る湿地帯になったことが伝えられています。また、後ろには、山や武蔵野の林に覆われた原野が広がり、平坦な土地は極めて少なく、 大勢の人が生活するような場所ではなかったと言われています。江戸に比べれば、鎌倉や小田原の方がはるかに大きな都市であり、環境も整っていたわけです。それでも、家康は江戸を選びました。
<江戸の大改造>
大勢の人が永住でき、行く末は日本の中心とするために、家康は 江戸の大改造 に着手しました。 土地も、城も、堀も、寺も、町も、そしてあらゆるシステムも。まず、江戸の土地を広げるために、大規模な江戸湊の埋立てを行いました。 神田山 を切り崩し、切り崩した土で 日比谷入江 を埋立てました。数多くあった汐入地も埋め立てました。また、家康は、上水道の整備も積極的に行いました。平川は、江戸市中へ物資を運ぶ輸送路として、さらに江戸城を守るための濠としても 利用されましたが、神田山を切り崩した際に平川を隅田川に合流させ、江戸城外堀として機能させると同時に 江戸市中へ水を運ぶ上水としても活用しました。
江戸時代の地歴まで持ち出さないとプライドが保てないなんてかわいそう
品川さんは博覧強記の人が多そうだから、捨て台詞に頼ってばかりのアンチさんでは敵わない感じがしますね。
歴史なんて話をすれば、新宿なんてのは江戸時代の城下から遠く離れた甲州街道の宿場だった。
その発足当時から風俗と暴力の街であったとは因果を感じる。
悪質な客引きキャッチ行為なんかもこの頃から新宿の名物。
この地はちょうど甲州街道と青梅街道の追分にあたっていたので、江戸の繁栄と共に人馬が往き来するようになりました。飯盛り女と呼ばれる宿場女郎が一役買っていた事は言うまでもありません。この宿場女郎が原因で享保三年(1718)内藤新宿は廃止されたのです。領主であり旗本の内藤新五左衛門の弟である大八が、女郎の事でもめ、旅籠の下男に殴られました。これを知った兄の新五左衛門は武士の恥と激怒し、大八を切腹させ、その首を持って大目付の役宅を来訪し、自分の知行地を幕府に返上するから、それと引き替えに内藤新宿を廃止して欲しいと願い出ました。ほどなく内藤新宿は廃止されました。
旅籠などの客引き行為が執拗であったと言う理由も大きかったらしい。
でもお前の家郊外じゃん
歴史も地歴も民度も治安も教育もいろんな要素があるけどそれらが盛り込まれたのがマンションの坪単価
中古マンションならもっと市場の思惑が正確に反映されてるね
そんの鼻の穴広げて歴史がフンガーとかいわんでも不動産価格を見ればわかるよ
湾岸エリアの価格上昇はマーケットは地歴みたいなエモーショナルなことより利便性や眺望といった現実的なメリットを重視しはじめた証拠だよ
江戸時代に各街道に交通の要衝として整備されたのが、俗にいう四宿:品川、新宿、板橋、千住。
これらを日本橋を環状にほぼ結んだものが、今の山手線に相当しているのも面白い。徳川幕府の先見性の現われと言えそうだ。
ちなみに今は、板橋は池袋、千住は上野、日本橋は東京駅に置き換えられている。
そりゃそうだろ、暴落するぞ!暴落するぞ!って怨念のように叫んでたのに
結果は、ネガの願いも空しく、品川~芝浦地区は軒並み価格高騰
10年の家賃代タダに加えて2000~3000万以上のキャピタルゲイン
気が狂ったように粘着するしかないだろw
>>6854 匿名さん
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%AF%E5%8D%97_(%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD%E6%B8%AF%E5%8C%BA)
調べりゃすぐ出てくるんだから少しは頭使いなよ。
で、どこにゴミ使ってるのかな?
成城だと、こんなのですが?
明治の末ごろまでは北多摩郡砧村大字喜多見と呼ばれ、武蔵野の雑木林と原野が広がっていた。
・・・
1932年に東宝撮影所ができてからは、黒澤明、市川崑、本多猪四郎、志村喬、三船敏郎、加東大介、加山雄三、石原裕次郎、宇津井健、有島一郎、藤田進、司葉子、深作欣二、大林宣彦など映画監督や俳優などが居住するようになった。また、映画産業と関係が深い芥川也寸志や松村禎三、小澤征爾のような音楽家も住むようになった。
1966年には三船プロダクションの撮影所もできた。
1980年代からバブル期にかけては、折からの経済城長とともに、企業の持ち屋が増加した。
時代とともに、成城町にはかつての祖師谷や喜多見だった周辺場所も編入され、現在は成城一丁目から成城九丁目となる。
近年も芸能人の居住が目立つようになってきている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%90%E5%9F%8E#.E6.AD.B4.E5.8F.B2
で、危険度マップは
http://www.city.setagaya.lg.jp/kurashi/104/141/557/d00005593_d/fil/559...
FYI
図らずもネガは園児ってのが証明されてしまったね。
ちゃんとした教育も受けてこれなかったんでしょうね。
すでに港南や芝浦が埋め立て地ということ自体が歴史のかなたに葬り去られつつある。リニア工事が進行中の品川駅や品川インターシティ、もちろん山手線新駅も周辺の再開発エリアもTGMM再開発が進む田町駅や芝浦エリアを「埋立地」だと認識している人のほうが少ないだろう。
>10年の家賃代タダに加えて2000~3000万以上のキャピタルゲイン
結局、不動産ってのは絶対価値じゃなく相対価値。安かろうが埋め立てだろうが、買って10年以上住んで家賃タダ+キャピタルゲインまで得られれば勝ち組。ただし、そういうのは2004年ごろ分譲の他のエリアでもある。
港南を買った自分も都市計画などを十分に調べたので住環境が劇的に改善されてリニアや品川新駅の再開発話が出てくることまでは想定内だったが、住みたい街ランキングでトップ争いをするようになる街になるとは思わなかった。
今の芝浦、港南は旧地名「芝高浜」。今でも「高浜運河」という運河の名前に名残を残す。
南豊島郡や豊多摩郡のやつが偉そうな顔してたのかw
中野・杉並が「奥多摩郡」ってのもすごいよね。新宿は奥多摩郡への入り口ってわけか。。。
「奥多摩郡」 ワロタwwww
6869見ると淀橋(新宿)や渋谷も奥多摩郡なのか???ワロタ。
失礼、よく見たら「豊多摩郡」だったね。大差ないけど。
新宿さんのブーメラン好きぶりには絶句
(新宿)
淀橋町は、東京府豊多摩郡にかつて存在した町の一つである。豊多摩郡役所の所在地でもあった。
(渋谷)
渋谷町は、かつての東京府豊多摩郡にあった町である。上渋谷村、中渋谷村、下渋谷村として存在していた3村が、1889年(明治22年)の町村制施行により南豊島郡渋谷村として成立した。
新宿村や渋谷村だったわりに、よく発展したもんだ。褒めてとらす。