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0歳
旧華族の血筋を受け継ぐ大財閥「幸(さいわい)家」に一人の男の子が生まれた。
その生まれながらに美しい顔立ちは、周囲の人々を太陽のように明るく照らしだし、一寸の陰りさえも見えない。
莫大な富と名誉を欲しいままにすることを 生まれながらにして約束され、”幸・鉄平(さいわい・てっぺい)”と名づけられたこの男の子は、これからどんな人生を歩んでいくのだろうか。
[スレ作成日時]2007-02-18 15:32:00
0歳
旧華族の血筋を受け継ぐ大財閥「幸(さいわい)家」に一人の男の子が生まれた。
その生まれながらに美しい顔立ちは、周囲の人々を太陽のように明るく照らしだし、一寸の陰りさえも見えない。
莫大な富と名誉を欲しいままにすることを 生まれながらにして約束され、”幸・鉄平(さいわい・てっぺい)”と名づけられたこの男の子は、これからどんな人生を歩んでいくのだろうか。
[スレ作成日時]2007-02-18 15:32:00
1歳
家族に可愛がられて、すくすくと成長する鉄平。
鉄平の父は、銀行経営者として現実的かつ冷静な判断力を持つ幸大介(さいわい・だいすけ)であった。
“華麗なる一族”幸家の家長として君臨する大介は、さまざまな策略で幸家を繁栄させようとしていた。
その手段の一つがが“閨閥(けいばつ)結婚”。
我が子を、有力政治家や有力企業の子供と結婚させてパイプを作って行く、したたかな策略だ。
鉄平は大介にとって、まさにうってつけの子供として生まれたのであった。
一方、幸家の女執事として、幸家の全て取り仕切る素晴らしいプロポーションの女、ゆき。
彼女は、大介の愛人として、幸家を影で操っていたのだが、彼女もまた鉄平に 深い興味を抱いていた。
3歳
鉄平には2歳上の姉一子がいる。
有名一流私立幼稚園に通う姉は、自宅のお屋敷に幼稚園から帰ってくると鉄平とお庭で仲良くままごとをするのが日課だ。
そんな姿を遠くの物陰から密かに覗いているゆき。
そんな中、鉄平に 弟・銀平誕生。
4歳
鉄平は、英才教育として、外国語は勿論、国語、数学、ピアノ、スポーツから帝王学まで学んでいる。
唯一、姉一子とのおままごとが子供に戻れる時間であった。
その頃、関東の幸家、関西の雅家と並び称される雅家に女子誕生。
幸大介は、即効で祝いの品を送り、将来の鉄平の妻として考えていた。
5歳
東京港区白金の超高級住宅街の中に 幸家の邸宅は聳え立っている。
Livingの床は大理石にペルシャ絨毯、重厚感あるアンティーク調のソファー、テーブル、暖炉、シャンデリア…デザインだけでなく素材にまで及ぶこだわりのインテリアは、幸大介の好みで統一されていた。
大介が頭取を勤める幸銀行の取引先のお客様は、この館を訪問するたびにその豪華さに圧倒され、「幸一族とは、こんな家で暮らしているほど凄い一族なのか」と、それぞれの立場で感嘆するのである。
大介は、ヴィクトリア朝時代のアンティークソファに身を沈め、温湿度調節機能付きのシガーケースからキューバ産最高級シガーを取り出すとおもむろに火を点した。
白い煙が立ち昇り、独特の方向が部屋を満たす。
食後のひと時、英国ロンドンの銃メーカー ジェームス・パーディ製の「水平二連銃」をゆっくりと手入れするこの時間は大介の至福のひと時だ。
ジェームス・パーディ社では、銃を持つ人の身長に合わせて一梃一梃、手作りしており、銃口が∞のように水平設置された長銃身猟銃は、幻の逸品と呼ばれている。
この銃は、鉄平の祖父・幸敬介が愛用していたものを、祖父と背格好が似通った父・大介が譲り受けたものだ。
やがて、そこに雅家からの誕生祝いのお祝い返しの品々が厳かに届けられた。
それらの品々には、一通の香を炊き込めた巻き手紙が付けられている。
そして、、、、
「幸家の長男・鉄平と雅家に生まれたばかりの娘・サチとの婚約を承知する。」との内容が流麗な文字で書かれていた。
大介は、満足の笑みを漏らし、そして大声で笑うのであった。
6歳
幸財閥は幸銀行を筆頭に、幸特殊製鋼、幸不動産、幸倉庫などをかかえる財閥である。
幸家はもともと大地主であったが、鉄平の祖父・敬介が横浜に幸船舶と幸倉庫を創立したのち、幸銀行を創立し、幸財閥の基礎を作ったのだ。
今では、幸財閥の中枢は、幸大介に集中しているように思われているが、実際には、女執事ゆきが握っていた。
すなわち、妻の姻戚関係で結ばれた勢力集団である幸家は、より盤石な体制を築くため、家を取り仕切るゆきが、その閨閥作りの役目を担い、大介は、彼女の言いなりに操られていたのだ。
この雅家との政略結婚もゆきの画策であった。
その年の正月、三重県志摩半島の賢島の由緒あるホテル、志摩慣行ホテルでは、幸家一族の毎年恒例の新年祝賀会が行われていた。
ホテルの名物料理「鮑のステーキ」を、このホテルのメインダイニングで食するのだ。
元旦の朝に伊勢志摩の海で 海女が海に潜って取ってきたばかりのアワビを 料理長自らが、ソテー・フランベーし、最後に醤油を隠し味としたマデラ酒のソースで仕上げる。
さっくりとした歯ごたえとホクホクした口当たりは正に絶品である。
この会食により、幸一族の団結はより強固なものとなるのだ。
しかし、、、、
そこへ、突然ニュースが飛び込んできた。
極秘情報に属する財務省作成の「幸銀行業務内容資料」が「講評」という形で、他行に漏れたというのだ。
そこには、銀行の経営内容だけではなく、「頭取の融資態度甘し」とか、「頭取の私生活に疑問あり」という点まで記入されており、頭取のポストを左右し得る内容だという。
大介は、拳を握り締めて呟いた。
「財務省官僚は、何かというと銀行を保護していると云うが、わしから云わせれば、保護どころか、銀行に対してものすごい横暴だ。もう我慢は限界だ。」
8歳
鉄平は、姉と一緒に東京港区にある有名私立付属小学校に通っている。
そこは、もちろん、庶民が通う一般の小学校とは違い、優雅に“小学舎“と呼ばれている。
行き帰りは、当然、ロールスロイスのリムジンである。
明治時代に創立された某有名私立直系のその小学舎に通えるのは、皇族・財閥系の大金持ちの子女だけなので、朝夕の通学時間には、校舎の車寄せには、高級車がずらりと並んでいたが、鉄平の乗るリムジンは、一際大きく誰の目にもそれが幸家の物であることは明らかであった。
鉄平は、父・大介が付けた家庭教師から帝王学を始め、様々な学問やスポーツを 幼稚舎の頃から、一通り学んでいた。
此処では、鉄平は、人として生きてゆくために必要な貴重な経験を積むことになる。
すなわち、他人を自分の家族同様に愛し、弱者を慈しみ、仲間とともに力を合わせて、協調性持って生きてゆくということである。
それは、どんな下らない揶揄、中傷の類いにも決して乱れることのない強い精神力となり、後の鉄平の人生の大きな支えとなっていくのであった。
10歳
鉄平に、妹 ニ子(つぐこ)が誕生。
4人兄弟は仲良く成長していくのだった。
鉄兵の父・大介がオーナー頭取を勤める幸銀行は、本店を東京日本橋に置き、関東地区では絶大な勢力を誇る、預貯金高第5位の都市銀行だ。
大地主であった幸敬介が創設したこの地方銀行を、敬介の息子・大介が地方の小さな銀行を次々と吸収することで今日の規模にまで成長してきた。
そして、大介は、新たに、預貯金高第10位の都市銀行 雅銀行を吸収合併しようと企んでいた。
雅銀行は、雅グループの参加で、京都に基盤を置くが、元は地方の貯蓄銀行が戦後一つに合併した寄り合い型銀行である。
そのため、歴代頭取は日銀からの天下りが多く、雅家当主でもある雅千太郎専務をはじめとした現場の生え抜き派にとっては歯がゆい存在だった。
大介は、雅家と鉄平の政略結婚を進める裏で、この内部分裂を利用して、雅銀行に大きく揺さぶりをかけ、乗っ取りのための策謀を巡らせていた。
ちょうど、その頃、財務省作成の「幸銀行業務内容資料」がマスコミに流れ、その中で大介の乗っ取り工作が暴露されたため、幸家と雅家の間に亀裂が入った。
これが、両家の存亡をかけた戦いの幕開けとなった。
さて、廻りに翻弄される鉄平とサチ。二人の運命はどうなっていくのであろうか。
11歳
昼休みになっても、鉄平は食欲がなかった。
幸家の料理人が作ってくれた弁当の中を確認する。
3段重ねの重箱に入った京懐石。
京都東山の瓢亭で20年料理長を務めた板前を 父・大介が、幸家の料理長にしたのは、数年前のこと。
以来、鉄平が食べる料理は、ほとんどがこの料理長のものだ。
抜群にうまい料理。
しかし、今日の鉄平は、溜息が一つ出ただけだった。
風邪気味なのだ。
「はい、これ」
顔を上げると、同じクラスの友子が大きなメロンパンを差出して笑っていた。
「具合悪いんでしょ。はい、風邪にはメロンパン。ついでに買ってきました」
「ありがとう。いくら?」
「やだ。いいですよ。友達だから」
と、不意に「あれ」と、友子が声を上げた。
「鉄平さんも、『むくむく抱き枕』欲しいんですか」
友子の視線の先、鉄平の机の上に缶コーヒーの空き缶が並んでいる。
それらにはみな、小さなシールが貼ってあり、10枚集めると『むくむく抱き枕プレゼント』に応募できるのだ。
「まさか」
鉄平は慌てて言った。
「じゃあこれ、貰ってもいいですか?集めてるんです」
鉄平は少し躊躇した。
『むくむく抱き枕』を欲しがっているのは、実は弟の銀平だった。
しかし、幸家の男がそんなものを欲しがっているとは、言えなかったのだ。
「いいよ」
鉄平は答えてしまった。
午後、鉄平の机からごっそり移動した空き缶は、斜向いの友子の机の上にずらっと並んでいた。
潤んだ瞳で ちらちらそれを見ながら鉄平の胸は痛んだ。
何通ぐらい応募したら当たるかな、と昨夜、銀平は真剣な顔で訊いたのだ。
どうしても欲しいんだけど、お金じゃ買えないし。
じゃあ僕がシールを集めてあげるよ、当たるまで飲んでやるさ。と鉄平は笑いながら答えたのだ。
銀平は嬉しそうに、ありがとう、と微笑んだ。
料理長の手製弁当は食べることができなくても、メロンパンはすんなりと腹におさまり、その至福の余韻は長く舌の上に残った。
別に悪いことをしたわけじゃない、鉄平は自分に言いきかせる。
が、銀平にはやはり言えない気がした。
そんな枕じゃなく もっと良いのを買えばいいじゃないか、と心の中で呟いてみる。
が、
何言ってんのさ、という弟の軽蔑のこもった眼差しが瞼に浮かぶ。
そうだよな まさかそんなこと やっぱり言えないな、と鉄平は思った。
13歳
「この辺でいいだろ」
友子の返事も待たず、鉄平は人が溢れる砂浜にビニール・シートを敷いた。
周囲に知った顔がいないことを確かめてから、友子は彼に並んで腰を下ろす。
日中いっぱい太陽に暖められた砂はまだ、ほのかなぬくもりを残していた。
夏祭りのフィナーレをかざる花火が、もうすぐ打ち上がるだろう。
「ねえ、あのビル何かしら?」「ほんと、真っ暗じゃない」
観光客の囁きが嫌でも耳に入る。
反射的に立ち上がりかけた鉄平を、友子の手がそっと押さえた。
ビーチ沿いに建ち並ぶホテルの中で、彼らの真後ろにある建物だけが、一つの電灯も点すことなく、不気味に佇んでいる。
それは、父が所有していたホテル。
毎年この日、最上階の部屋に家族全員が集まり、花火を観た。
一年を通して最も混み合う日にも拘らず、その部屋だけは家族の為に残しておいたのだった。
その特等席は、鉄平の、何よりの自慢でもあった。
忙しい父も、その時は仕事を中断した。
でも父は、花火なんか観ていなかったのではないか、と今になって考えることがある。
花火に興奮し、はしゃぎながら振り返ると、必ず父の厳しい瞳が私を見つめていた。
後になって、姉も弟も同じことを言っていた。
それは、あっという間の出来事だった。
雅家の策謀により、幸家の大事なホテル、志摩観光ホテルが人手に渡ってしまったのだ。
地鳴りのような音と共に空気が揺れた。
頭上に巨大な火の華が咲く。
瞬く間に、夜空が光の雨に包まれた。
間近で観る花火の迫力は、防音の厚い窓から観ていた時とは比べものにならない。
切なさも悲しみも吹き飛ばさんばかりに、休みなく花火は上がる。
そして艶やかな大輪の花を描いた後、一瞬にして輝きを失い、空の一部になる。
そう、束の間だからこそ美しい。
幸せだって同じことだ。
鉄平の家庭事情は、お節介な第三者の口から、彼女にも伝わっていることだろう。
鉄平は彼女の肩に顔を寄せ、白いTシャツにそっと涙を滲ませた。
「毎年、この花火を見に来よう」
打ち上がる花火の音の合間に、鉄平は友子の言葉を聞いた。
「これからもずっと、この砂浜で」
鉄平は何度も頷き、再びシャツを濡らす。
「お祭りの日に泣くなんて、迷子だけだよ」
火薬の匂いを含んだ潮風が、頬を撫でていった。
14歳
鉄平の弟・銀平は12歳になっていた。
ある日、小学舎の授業が終わり家に帰るところであった。
しかし、いつものリムジンは、その日に限って迎えに来ていなかった。
「まあ、いいかっ」
銀平は、たまにはバスで帰ろう思い、バス通りに出た。
ちょうど、天然ガス仕様の環境に優しいことをうたい文句にした港区自慢の路線バスがこちらに向かって来るところであった。
銀平は路線バスに向かい手を振ると、バス停に向かって走り出した。
と、その瞬間である。
ド!ド!ド!ドッガァァ!ガガガガァァァ〜〜〜ン!
突然、バスが銀平の目の前で爆発炎上したのだ。
中から転び出てきた瀕死の男が、そこに居合わせた銀平を見つけて大声で呼びとめた。
銀平は思わず駆け寄った。
「救急車が来るまで、安静にしていた方がいいですよ」
しかし、相手は興奮している。
「お前に頼みたいことがある」
「僕にできることですか……」
「極道組の若頭に、ボスが死んだことを伝えてくれ。残された組員は血の気の多い奴等ばかりだ、跡目相続の段取りを手早く済ませなければ大変なことになる」
「申し訳ありませんが、僕はそういう所には……」
「何! 俺の頼みが聞けないというのか」
男は喚き、懐から拳銃を引き抜いた。
銀平はその迫力にたじたじとなった。
大怪我をしているとはいえ、相手は***。
狂気を含んだ目は、人の命を塵のとしか見ていない。
「わ、わかりました、でも伝言とおっしゃられても……」
「要点だけでいいんだ。ボスの乗った天然ガスバスが爆発した、と。救急車がもうすぐ来るから、急いで頼む」
「ボスのガスバス……ですね」
「そうだ、しかもガス爆発だ。犯人はバスガイドに化けていた。なかなか手の込んだ殺しだ」
「ボスのガスバス、ガス爆発。犯人はバスガイド……」
「そしてバスガイドはとてもブスだ」
「そんな事まで伝えるんですか」
「なんだか、いらいらする奴だな。これは外せないだろう、犯人を特定するための重大な情報だからな。ブスなバスガイドなんて、お前、今までで見たことがあるか?」
「そういわれれば、バスガイドはたいてい美人ですね。男が制服に弱い、というのも一因かもしれません」
「そんな薀蓄どうでもいい。時間がない。とにかく簡潔に伝えてくれよ。それに俺はとても気が短いんだ」
「ええと……」
「ブスバスガイドの、ボス、ガスバスガスバクハツ、だ。脳みそかっぽじって良く聞け」
「……いや、かっぽじるのは、耳の穴では……?」
「ええい、も一度。ブスバスガイドのボスガスバスガスバクハツ……テキパキ言ってみろ」
「反復します。ブス、バスガイドのボス、ガスバスバスハツ……すみません、失敗しました」
「もう一度言え」
「ブスバスガイドの、ボスガスボスバクハツ……ひえ〜」
「ちゃんと言え!」
「ブスブスガイドの……焦らせないで〜」
短気な***は、ついに拳銃の引き金を引いたのであった。
15歳
港区の有名私立付属である小学舎・中学舎を終えた鉄平は、高校進学の季節を迎え悩んでいた。
このまま親の決めたレールに乗って、系列の高校・大学へ行くべきか・・・
鉄平は恵まれすぎた環境から離れ、自分とは何かを見つめ直したい衝動にかられた。
父・大介に相談するとあっけなく了解された。「お前の好きにするがいい」
「高校は、神戸の灘萬高を受験したいと思う」と友子にうちあけたのはまもなくだった。
灘萬中・高は全国の天才・秀才達の集まる日本最難関とうたわれ、特に中途での高校受験は
募集人員も少なく入学は至難のわざであった。
しかし鉄平は苦も無く合格したのである。
神戸には幸不動産所有の俗称「迎賓館」とよばれる研修施設があったので、鉄平はそこで
生活することにした。港を一望できる広大な屋敷である。
神戸に発つ朝、友子は手作りの弁当と一冊の本を手渡した。話す言葉はなかった。
神戸へ向かうリムジンの中で、鉄平は友子から貰った本を開いた。
山崎豊子原作の「華麗なる一族」であった。
少し読んだだけで、眠気をもよおし、ひとつ欠伸をしてリムジンのシートに身をまかせた。
16歳
灘萬高では成績の良し悪しは人間の価値とは別物とされ、何か特技を持った者が皆の尊敬を
集めていた。そういう校風の中で、鉄平の同期生に四天王と呼ばれる傑物が居た。
西郷猛盛(鹿児島出身)、坂本奔馬(高知出身)、吉田松竹梅(山口出身)、そして
勝海虫(東京出身)の面々で、鉄平は彼らから「人間の器」とは何か、「人間の品格」とは
何かという疑問に対し、少なからぬ影響を受けたのである。
坂本は三味線を、吉田は笛を、勝は都都逸をうたい、西郷は自在に屁で合いの手をいれた。
日曜日、鉄平は西郷を誘い京都に遊びに行き、偶然、瞳の大きな女生徒に出会った。
少女が雅家の娘、サチであることは、今の鉄平には知る由もなかった。
16歳
鉄平の姉、一子は、18歳になっていた。
親の決めたレールに乗り 系列の高校から系列の大学へと進学 そして親の決めた相手と結婚する。
それを子供の頃から何も疑わすに生きてきた。しかし・・・
白金のお屋敷から程近い 海辺の野鳥公園へ出かけるのが 一子の日課になっていた。
途中、観察舎の陰で屈み込んでキスしている若者たちを見かけて、一子は慌てて視線を逸らした。
夕暮れ時には相応しいような気がして笑みを漏らす。
首の角度や膝の曲げ具合に行為に対する熱心さが表れていて、それが切なく可憐しい。
妙に気恥ずかしい気分のままに、岸にいる彼の背中を見つめながら近寄る。
彼は双眼鏡の中の世界に夢中で、一子の接近にも気づかない。
並んで静かに問いかける。
「何が見えるの」
「うん 鴨のね 親子がいる かわいいよ」
2歳上の彼は、双眼鏡から目を離すと一子に微笑みかけ、覗くように目で合図する。
レンズの中に鴨の行列がいた。
葦の茂みに寄り添いゆっくり進んでいる。
それぞれの尻から緩やかな波がうねる。
思わず口元が綻びる。
な、と彼が耳元で囁く。
かわいい、と呟いてふっと寂しくなった。
無心に水面を滑っている鴨たちを見つめる両目が、じんわりと熱を帯びる。
喉が少し傷い。
彼にこの顔を見せたくない。
腰を屈ませて、鳥の姿に夢中の振りをする。
ジッポの火が点り、油の匂いがする。
パチンと金属がぶつかる軽やかな音が響く。
鳥たちの鳴声だけの静けさの中で 自分と彼との微妙な距離を感じる。
「だめよ、けむいわ」
一子は目を手の甲でこすり 彼に笑って訴える。
「ごめん、これだけはやめられない。残念ながら」
彼は煙を深く吸う。
一子は彼の顔を見る。
彼は双眼鏡を覗く。
一子は夕闇に溶け込む鴨の親子に視線を送る。
「キス見ちゃった」
秘密を打ち明けるように囁く。
「いつ」
彼は姿勢を変えずに訊く。
「さっき、来る途中」
「観察舎のところかい」
「そう。なぜ?」
「その前に俺が通ったときもしてたよ」
一子は俯いて笑い声をたてる。
「いいもんだ」
レンズから目を離し 柔らかな笑顔で言う。
「してみようか」
「私なんかでいいの?」
彼の顔が僅かに歪む。
「馬鹿」
一子の手を温かな大きな手が握る。
強く握り返す。
夕闇が濃くなる。
鳥たちが鳴きながら どこか寝床へ向かって飛び立っていった。
18歳
高校の卒業記念のためと言って、西郷、坂本、吉田、勝たち悪友は鉄平をそそのかし、ついに料亭で芸子を上げて大宴会をしようということになった。
5人が乗り込んだのは、京都の祇園、白川の水の音が近くに聞こえる大料亭”しらかわ”である。
しかし、、、、
玄関口で 接客に出てきた女将に5人は鼻であしらわれてしまった。
「うちは、平安は室町の時代から代々続く料亭でおます。一見(いちげん)さんは、お断りしておますねん。今度また、どなたはんかのご紹介で来ておくれやす」
「いや、おまちください。ここにいるのは、幸財閥の御曹司、鉄平様です。われわれは、決しておかしな者ではありません」
西郷たちは、必死に食い下がるが女将は相手にしない。
「どなたはんであろうと同じどす。それに本日は貸切どす。どうぞ、お引取りやす」
と、その時である。
「幸家の鉄平君じゃとな」
突然、一人の初老の男が、座敷の奥から顔を覗かせた。
「ご当主はん。いけまへん、こんなとこへ出てきはっては。奥へお戻りやす」
「いやいや、お待ちなさい、女将。これは奇遇じゃ。お前さんが鉄平君か」
そう言うと、男は鉄平の顔をまじまじと覗きこんだ。
鉄平は、その初対面の男に向かって臆することなく応えた。
「私が幸鉄平です。あなたは、わたしをご存知なのですか」
「ふぉっ、ふぉっ、ふぉっ。よろしい、5人ともついて来なさい。わしの座敷にご招待しよう」
男は、ゆっくりと奥へと入っていった。
通されたのは、一番奥まった離れの座敷である。
50帖はあろうかという大広間に芸子、舞妓を20人ははべらせて、数々の豪華な料理を前に、床の間を背負って さっきの男が座っていた。
「よく来られた。わしが、雅家当主 雅千太郎である。今日あったのも何かの縁。今夜はひとつ、君たちとお座敷芸比べで遊ぼうではないか」
あっと、5人は心の中で叫んだ。
幸家と雅家のことは、悪友たちも良く知っている。
千太郎の娘サチと 鉄平が、かつて婚約者だったことも・・・
しかし、もはや、後には引けない。
宴会芸で、勝つあっと言わせる意外に、この料亭から無事に帰る方法はない。
さっそく、悪友たちは例の芸を披露した。
坂本は三味線、吉田は笛、勝は都都逸を詠い、西郷は自在に屁で合いの手をいれたのだ。
「ふぉっ、ふぉっ、ふぉっ、ふぉっ。すばらしいっ!」
千太郎は大笑いである。
「さて、それでは、婿殿・・・ではなかった、鉄平君は何を見せてくれるのかな」
「僕は何もできません」
「そうか。それでは、平安時代より、祇園に伝わる”投扇興”で勝負しよう。依存はないな」
そう言うと、千太郎は、ぽんぽんと手を叩き、一人の舞妓を座敷に呼び入れた。
「お初にお目にかかります。千太郎の娘 サチでございます。わたくしが、あなたのお相手をいたします」
驚く鉄平に千太郎は言った。
「わが雅家の娘は、行儀見習いとして舞妓の修行をするのじゃ。男を見る目も肥えるしのお、ふぉっ、ふぉっ。もし、君が負けたら、これから一生、雅銀行でヒラのサラリーマンとして働いてもらうというのはどうじゃ。受ける勇気があるかのう」
「よろしいでしょう。でも、もし、わたしが勝ったら、私の父、大介を許し、幸家と和睦していただけますか」
「面白いことを言う。よかろう、雅千太郎、男に二言はない。承知した」
座敷に緋毛氈がしかれ中央に小さな花台が置かれ、蝶の人形が載せられた。
”投扇興”とは、「扇」を投げて蝶の形の的に当て、その落ち方によって点数を競う遊びだ。
鉄平もさすがにあらゆる学芸を子供の頃から教えられただけあって、一つ通りの心得はあった。
まず、サチが扇を投げた。見事な腕である。
”須磨”、”藤袴”、”横笛”、”松風”、”夕霧”高得点が並ぶ。
規定の10投を終えて、253点である。
鉄平もよく頑張ったが、最後の一投を残して200点。
「どうしたね鉄平君、顔色が悪いぞ。最後の一投で、最高点54点の”夢浮橋”を出さない限り君の負けじゃ。しかし、わしは未だかつて、”夢浮橋”を見たことがない。まさに夢の大技じゃ。君にできるかのう、ふぉっふぉっ」
鉄平は、静かに目を閉じると心を静めた。
瞼には、家族ではなく 友子の顔が浮かんだ。
「みんな、ごめんね。許してくれ」
鉄平は、小さく呟くと、最後の一投を的に目掛けて投げた。。。。
数日後、全新聞の第一面には『幸家と雅家が世紀の和解』という文字が、踊っていた。
19歳
華麗なる一族を写したかのような生活をしていた鉄平に転機が訪れた。
幸財閥の解体である。まわりからは順風満帆にうつっていた財閥だが、財政状態は火の車だったのである。それが小さなことをきっかけに破綻をきたした。
小さなきっかけ?そう18歳の時に鉄平が友人と行った大宴会である。それが写真週刊誌に取り上げられてしまったのだ。これを機に会社の経営はさらに悪化していく。家族は離散し、父が自殺、鉄平もいままでの明るい人生から暗く冷たい人生へ転落することとなる。天涯孤独の身となり無一文となった鉄平に明日はあるのだろうか・・・
一月がすぎたころ鉄平はスラム街を一人歩いていた。みなりはすでに周囲にどうかしていて昔の面影はかけらも見えない。今の鉄平の仕事は空き缶をあつめることだ。毎日の食事すらままならず公園をはいかいする日々、鉄平は今の生活にあきあきしていた。そんな鉄平にさらなる転機が訪れる。
空腹に耐えかねた鉄平は同じ境遇の50代の男性のテントを襲撃し殺害してしまったのだ。鉄平の逃亡者としての人生がはじまる。
20歳
鉄平は逃げる、執拗な警察の追跡をかわしながら、昨日を、今日を、そして明日を
生きるために。
ぴちぴちぴち・・・小鳥のさえずりと、かすかな陽のさすベッドで、鉄平は目覚めた。
「また同じ夢をみてしまった」
このところの鉄平は19歳の時にみた夢を、幾度も幾度もくりかえし見てうなされていたのだ。
汗ばんだ身体に冷たいシャワーが心地よかった。
「あの夢は何だったんだろう、デジャヴュにしてもリアルすぎる」と鉄平は思った。
灘萬高の秀才達のほとんどは東大へ進んだが、鉄平と四天王は京大を選んだ。
西郷は学生寮に、坂本は旅館に下宿し、吉田はアパート住まいをしていた。
幸家と和解した千太郎にとって鉄平は我が子同然の宝であったので、雅家の離れを
鉄平の部屋に提供した。そして、そこは悪友達がたむろする格好の場所となった。
ある雨の夜、例のごとく5人の若者が酒を飲みつつ、女性談義に花を咲かせていた。
宝塚歌劇団のスタア、京都の舞妓たち、由緒ある家の令嬢達・・
そして、「男子たるもの、妻をめとらば云々」と話はもりあがっていた。
そこに、雅家のサチが酒の追加と肴を持って挨拶にきた。
「こんなもんしか、おへんけど、召し上がっておくれやす」
西郷はがらにもなく緊張していた。酒をすすめられた西郷の手がかすかにふるえ、
「ごっつあんでごわす」と蚊の鳴くような声をだし、消え入るような屁をした。
三味線をもてあそんでいた坂本は手をやすめ、すすめられるままに盃を干した。「うまいぜよ〜」
吉田と勝の二人は、サチの物腰と振る舞いをじっと見つめていたが、突然、勝が鉄平に
「おまいさん達、メオトになんなよ」と言った。
鉄平は狼狽し、サチの顔は赤らんだ。
「勝、冗談は顔だけにしろよ」と鉄平はなかば本気で怒った。
21歳
鉄平は、医学部で勉学に励んでいた。
彼が医学部を志望したのには、訳があった。
数年前に***に撃たれた弟銀平は、今でも半身不随の生活をおくっていた。
「幸家の子息を手術して万一のことがあれば自分は無事では済まない。」と考えた外科医たちは、皆、尻込みし、誰も執刀しようとしなかったのだ。
こうした状況で、鉄平は自らの手で弟を手術しようと心に決めたのだった。
四天王たちもまた、各々の人生を生きていた。
西郷は、建築学科に進み、建築家となるべく設計に没頭した。
彼がねぐらとした京大熊野寮の部屋には、世界中のあらゆる建築の資料が山積みされ、その重みで築50年の寮の床が抜け落ちたほどだった。
坂本は、理学部に進み、東山の麓の旅館を転々としながら、地球工学的観点から埋蔵資源の発掘活用方法の研究を重ねていた。
発展途上国の資源を有効活用し、世界的な経済発展を促すためである。
吉田は、法学部に進み、鴨川に程近い安アパートに篭り、司法試験の勉強に励んでいた。もちろん、将来は、弁護士として世界を舞台に活躍するつもりである。
勝は、教育学部に入り、優秀な若人を育てる指導者となる道を選んだ。
”人は城、人は石垣、人は国家なり”が、勝家代々の家訓なのである。
そんなある日のこと、下鴨神社に程近い雅家の邸宅では、曲水の宴が行われていた。
色とりどりの狩衣(かりぎぬ)や小袿(こうちき)に身を包んだ7名の歌人が、朱塗りの盃にお神酒を注ぎ、羽觴(うしょう)の背に載せて遣水(やりみず)に流すのだ。
琴の音が響く中、歌人はその日のお題にちなんで和歌を詠み、短冊にしたため、目の前に流れ来る羽觴を取り上げ、盃のお酒を飲むのだ。
これは、雅家の伝統、毎年行われる春の行事である。
今年の7人の歌人に選ばれた鉄平が、和歌を読んでいると、そこへ、西陣織りの着物に金糸銀糸を縫い込んだ帯を締め、珊瑚べっ甲細工のカンザシを髪に指したサチが、シャナリシャナリと現れた。
そして、鉄平のそばに寄り添うと、耳元に口を寄せてささやいた。
「あたし、こんど、京都大学の薬学部に合格しましたさかいに、よろしゅう おたのもうしますえ。鉄平はんといっしょに、これからも、弟はんをお助けしたいと思いますからぁ。」
22歳
19歳の時にどん底を味わった鉄平は警察の目を盗むかのうように京都で生きていた。ひっそりと過ごした3年間は辛く苦しいものであったに違いない。そんな鉄平もめでたく卒業の日をむかえることとなった。
卒業式を終え、気が緩んだのかこの日ばかりはと友人たちと強かに酒を飲んだ鉄平の前に意外な人物が現れる。それは、鉄平が世間から隠れるきっかけの宴会の場にいた千太郎であった。千太郎は近づいてきたかと思うと鉄平に声をにこやかにかけてきたのだ。「鉄平君心配したぞ。あんな話を聞いたからどうしているかと思ったんだ。」いぶかしげな表情を表に出してしまう鉄平。そんな彼のようすに気づかないのか千太郎は話を続ける。「どうだね。これからのみに行かんか?」
「いえ、それは・・・」苦い経験もあり、固辞する鉄平の言葉をさえぎるように千太郎はとどめの一言を言ったのだった。「家族のことをしりたいと思わんかね」その言葉に鉄平は引きづられるかのように千太郎の車へ乗り込んでしまうのであった。
車が止まると鉄平は驚いた。無理もない19歳の時にいったあの店であったのだ。しり込みをする鉄平の肩を千太郎は強引に押し二人は店へ入っていくのだった。千太郎の口元が不敵な笑みを浮かべていた。
鉄平は軽くめまいを覚えていた。なにもかもがあの日と同じなのだ。料理も芸者も・・・違うことは友人がいないことだけだ。酒を飲む手もこころなし震えている。
突如、千太郎が手を叩くと芸者たちはさっと部屋から出て行った。そして千太郎はゆっくりと語りだした。「あの日のことは後悔していないか?。」
鉄平はさらに混乱した。あの出来事は家族を離散させてしまった忘れたい出来事である。それをなぜいまさら聞くのか?その答えはすぐにわかる。にやにやと下卑た笑いをする千太郎の口から真実がかたられるのだ。
「実はな、あの日はわしがしくんだんじゃ。生意気にもわしを利用しようとしたお前の親父をこらしめるためにな。しかし、あそこまでうまく行くとな、ハハハ」
鉄平は千太郎の言葉の意味を一瞬理解できなかった。しかし、徐々に怒りが高まってくる。そんな姿が面白かったのか千太郎は続ける。
「それ、家族が現在どうしているかしりたがっていたじゃろ」
ふぁさっと投げられた写真には生き別れた次女、妹がうつっていた。それも全裸で。鉄平の混乱はどんどん深まっていく。千太郎はさらに続ける。
「わしが買ってやったのよ。行き場にこまっていたからのー。なかなか良かったぞ」その言葉を聞いた瞬間、鉄平の中で何かがはじけた。
気がつくと鉄平は部屋の中に一人でたっていた。足元は真っ赤だ。その中心にあるのは千太郎であるはずの物体。人目には顔だと判断できないくらいにめったうちにされた千太郎はもはやぴくりとも動かなかった。鉄平の手には飾りで置いてあった日本刀が握られていた。鉄平はまた罪を重ねてしまったのだ。
動揺する鉄平が千太郎に近づくと不意に目の前の扉があいた。サチであった。鉄平は即座にサチの口を押えると押し倒した。そして首を絞める。どのくらい時間がたったのだろう・・・気がつくとサチもいき絶え冷たくなっていた。怖くなった鉄平は持っていたライターで二人に火をつけると部屋から逃げ出した。靴もはかずに・・・
家に帰ることも出来ずに河川敷にたたずむ鉄平だが、夜風にあたっていると急に冷静になった。まずは体についた血を洗い流さないと。鉄平はまだ寒さものこる河に飛び込んだ。
しかし、運の悪いことにそこを通りがかった人に見つかり警察に捕まってしまう。鉄平は逮捕された。そして、血のついた服、料亭に残った靴、指紋など数々の物証から殺人罪に問われる。自らのしたことに後悔した鉄平はいままでにあったことすべてをつげた。
裁判は鉄平の証言もあり思ったよりも早く進んだ。そして年内のうちに判決が下りた。死刑である。弁護人は反省していること、鉄平の証言がなければ早期解決はなかったことなどから情状酌量の余地があるとして控訴したが鉄平は拒否した。控訴が取り下げられ死刑が確定したのである。
23歳
ぴちぴちぴち・・・小鳥のさえずりで、鉄平は目覚めた。
「また同じ夢をみてしまった。しかもだんだん、話がエグくなる」
鉄平は19歳の時にみたあの夢を、幾度も幾度もくりかえし見てうなされていたのだ。
あの夢は何だったんだろう、デジャヴュにしてもリアルすぎる」
と鉄平はいつものように思った。
鉄平は、今、フランス・パリの中心街にいる。
京都大学で4年間、医学の勉強をした後、2年間の医学研修期間を パリ大学・通称(レネ・デカルト・ソルボンヌ大学)で留学生として過ごしているのだ。
パリ独特の西風が強く吹く中、冷たい灰色の冬空を見上げて 鉄平は呟く。
「待ってろよ、銀平。もう少しの辛抱だ。きっと、俺が元の体に戻してやるからな。」
同じ頃、西郷は、ロンドンにいた。
ハイテク建築の第一人者として活躍しているのだ。
最先端の技術を駆使し、大胆な挑戦に満ちた彼の建築は、世界の注目を集めている。
特に、歴史的な石造りの建物が並ぶ金融街シティーで設計したガラス張りの巨大な機械を思わせるハイテクビルは、ロンドンっ子を驚かせ、喝采を受けた。
坂本は、南米のコロンビアにいる。
外務省から発展途上国に送られるOECDの支援チームのリーダーとして抜擢され、鉄鋼石や石油といった埋蔵資源の調査を行っているのだ。
坂本は野生の勘とも言える独特の嗅覚で、地下深くに埋蔵された資源を察知した。
彼のチームは、次々と有望な鉱脈を発見し、他の南米各国からも引き合いが殺到していた。
吉田は、法学部在学中に司法試験に合格。
アメリカのニューヨーク五番街のオフィスで、国際司法弁護士として活躍している。
裁判社会アメリカで、彼の正義感は遺憾なく発揮され、弱者のために報酬なしで大企業に立ち向かう姿は、社会の底辺に押し込められた人々にとって、今や恩人ともいえる存在になっていた。
勝は、教育学部卒業後、京都のある工業高校に赴任した。
そこは、不良たちの集まることで知られた有名な高校であったが、彼はラクビー部を作って彼らを鍛え上げ、翌年には花園で日本一に導くのだ。
優勝して号泣する勝を生徒たちが、”泣き虫先生”と呼び、共に抱き合って泣く姿は、テレビ放映され、いつまでも語り草となった。
24歳
ふつう6年を要する京大医学部をわずか4年で卒業した鉄平は、研修医としてパリ大学に来て
2年目をむかえていた。
鉄平の特技は速読である。分厚い医学書を片っ端から読破した。
速読する鉄平の読書術は、一冊の本からは、せいぜい2〜3頁を学びとり記憶するものだという
物事の整理にたけていることである。 従って、ほとんど蔵書を持たない。
肝心な事柄だけを脳にしまい、いつでも取り出せるようにしているのである。
さらに鉄平には天性ともいうべき、手先の器用さがあった。
外科研修医として、脳・循環器・呼吸器・消化器はもちろん、形成外科とくに神経系統の手術
には異様なまでの集中力をもって迅速・的確な処置を施し、指導教授も舌をまいた。
パリ大学医学部での鉄平の評価は高く、教授の手術の第一助手を務めるまでに成長した。
やがてパリにバカンスの季節がやってきた。
都会の喧騒をさけ、さんさんとふりそそぐ太陽を求めて人々は南国へ旅立つ。
パリに残っているのは低所得者層やオノボリさん、あるいは奇人・変人のたぐいである。
鉄平は大学の図書館にこもり、読書と研究の日々を送っていた。
西郷がロンドンから鉄平を訪ねてきたのは、そんな夏の午後である。
「フランス人っちゅうもんは、犬のクソも始末できもはん」
下駄の裏にひっついたお土産をながめながら、西郷は鉄平との再会を喜んだ。
「それと、どげんしてフランス人は[H]を発音せんのだ」と西郷。
「フランス人に言わせると、[H]を発音すれば「は〜」だの「ひ〜」だの
息が疲れるらしい。だから「あ〜」だの「い〜」と省略してるみたいだぜ」
鉄平はパリ大学の友人から聞いた薀蓄を披露した。
「ふん、どこまでも手を抜く国民でごわす」
西郷の豪放磊落な性格は、鉄平には心地よかった。西郷と過ごした一週間は、あっというまに
過ぎ去り、パリで大量に仕入れた建築関係の書物を風呂敷に背負い込み、下駄の音も高らかに
西郷はロンドンに帰っていった。
鉄平の研修も終わりに近づいた。パリ大学は鉄平に大学の医師としてパリにとどまるよう
慰留したが、鉄平は日本に帰るときが来たと思った。
「銀平が待っている。 そしてサチも・・・・」
24歳
パリ大学での研修は終ろうとしていた。
鉄平の師事する医学部教授”プロフェッサー・フロイト”は、最後の課題として、鉄平に自らを対象として”夢分析”をするように指示した。
”夢分析”とは、精神医学における基本的な分析手法で、夜みる夢を基に、その人の潜在意識(無意識)を解読しようと試みるものである。
夢に関する自由連想を行うことにより、次第に無意識を表面化させることができるのだが、それが、必ずしも当人に納得できるものとは限らないと言われている。
夕暮れ迫る、フロイト教授の研究室で、裸電球に照らされて、二人は向き合った。
鉄平は、数年前から良く見るようになった、あの夢についてフロイトに語り始めた。
まず、夢に家族が登場すること。
これは簡単です。
いつも、私は家族の写真を持ち歩いています。
その写真に誘発されて、昔のように家族そろって暮らしたいとの欲求が具現化したものです。
その上に、将来弟の手術を失敗することの恐怖がかさなり、家族離散のイメージになったと思われます。
次に、千太郎氏ですが、これは、サチの父親であり、将来自分の父となるかも知れないという意識がもたらしたファーザーコンプレックスの現れです。
かつて、自分が大切に思っていた志摩観光ホテルを私たち家族から奪った者への潜在的な憎悪が加味されてこのような姿になったと思います。
そして、注目したいのは、夢の中で何度か「暴力」が出てくることです。
「男性のテントを襲撃」
「殺害」
「全裸にされた妹」
「日本刀で殺害」
これらについては、男性を襲撃して殺害するということについて、同じ襲うならもっと金持ちを襲うのが普通です。
と、いうことは、この襲撃は金のためではなく、人の命を奪うこと自体が目的の襲撃です。
それは、快楽を求める心の現れではないでしょうか。
また、千太郎氏が、犯罪である未成年女性の買春を行い、しかも証拠となる写真をわざわざ残すのもおかしい。
そもそも男が女の写真を撮るとは、自らの存在を顕示しようとする心の現われそのものです。
千太郎氏の姿を借りて、僕は夢の中で自分の欲求を満たそうとしたのです。
さらに、殺害方法ですが、お座敷にある刀というのも変です。
料亭のお座敷や日本刀についての知識がある者なら、飾り刀は”目立て”していない、つまり刃が研ぎ出されていないことは知っています。
そんな刀では、大根だって切れません。
では、何故、日本刀なのか。
この場合の日本刀は、男のシンボルであり、僕自身のことです。
それを振りかざして、自己顕示特を満足させ、快楽を求めたのです。
しかし、これは、僕のような若い男性にはよくある普通の生理現象です。
恥ずかしいことではありません。
そして、よく登場するお座敷。
これは主に女性の象徴であると言われています。
自分を包む器としてのお座敷。
これは、マザーコンプレックスでいう母性を求める心を表しています。
結局、これらの自由連想から、考えると、次のように解釈出来ます。
「私は、早く医学を修め日本に帰り、弟の手術を済ませてその重圧から開放されたい。
そして、愛する女性と結ばれ、幸せになりたい。」
プロフェッサー・フロイトは、席から立ち上がると、鉄平の両手を握り締めた。
「よくできました。ムッシュ・鉄平。
医学の恐ろしい所は、その人が、自分自身ですら知らないほうがいいことを暴けるということです。
医学は使い方を謝ると大変なことになります。
私が常々『安易な気持ちでこの世界に入ることは薦めない』と言っている理由はそこにあるのです。
あなたの夢分析による自己批評は完璧でした。
あなたならきっと、立派に医者として人々を救うことが出きます。
わたしが、教えることは、もうなにもありません。卒業です。日本に戻りなさい。」
こうして、鉄平は、医者となり、日本へ帰って来たのである。
26歳
一子と彼は、川縁の桟橋に腰掛け、桜を待つ青空を鏡のように鮮やかに映し出す水面に、釣り糸を垂れていた。
彼は言う。
「釣りをする人のことを太公望と言うが、それは司馬遷が記した中国史書の一節を間違って引用した表現だ。
一説によると、太公がその時、持って川に挑んでいった物は竿と糸だけで、針をつけていなかった。
魚を釣るからには、魚の痛みを知れと言う、有り難い教えなんだ。
釣りをスポーツとして楽しむ奴なんかエセ太公さ。」
隣に座る一子は、真っ白い服を着ていた。
真っ白いショートパンツにショートスリーブ。
彼女は、彼の好きな色に合わせて、白系の服をいつも着ていた。
彼は、清潔さにはさしてこだわらなかったが、生活習慣の割と整った男で、洗濯や物資の整理だけは毎日欠かさなかった。
その為、いつも着ている白い服は、少し黒ずんだり解れたりしている部分をひっくるめても、結構白く清潔に見えた。
彼は余裕ぶった笑顔をしている。
「何でそんなに笑っていられるの。あたしは必死なんだよ。」
彼は笑って答えた。
「魚釣りとは、そこに人間達の生と魚の死を賭けた、水辺の狩りなのだ。しかし、釣れないよねぇ。」
そんなことは言ってないよ、あたし。君には悩みなんて物は、多分無いんだろう。
一子は、彼に真剣になることを求めるのを諦めて、悲しそうに微笑むと、和歌を詠んだ。
釣り糸の浸けたる先は未だ冬引いて弥生の花よ煌めけ
(川面に漬けている釣り糸の先(餌の周り)は、未だに冬を引きずっている様なさびしい風景だ。弥生の桜よ、(三月の魚達よ、糸の先を引っ張って)水面で煌めきなさい。)
何か釣れるよう、願をかけるつもりで詠んだのだが、なぜか彼が笑った。
「何。」
彼女は、さらに歌を続けた。
桜待ち川面に映る君とわれ悴む吾子を君ぞ包める
(桜が咲くのを待ち、川面に映っている貴方と私。悴んでいる私の子ども(私の快活な心)を包み込んでくれているのは、他でもない、貴方自身なのだよ。)
一子は、ぴったり寄り添って彼の右肩にもたれ掛かった。
…どうしよう。
一子は、家が決めた別の男との結婚を目前にして、まだ彼に話を切り出せないでいたのだ。
ねぇ、と言って、一子は彼の耳元に最後の一句をささやいた。
ねがわくは はなのしたにて はるしなん そのきさらぎの もちづきのころ (一子)
27歳
銀平は小学舎の帰途に、偶然遭遇した事件で受けた銃弾の後遺症で半身不随のまま、港区の自宅で
療養していた。
「ブスバスガイドの、ボスガスボスバクハツ・・・」脳裏にうかぶ呪文のような言葉とともに、
あの日の出来事は十数年たった今でも鮮烈に覚えている。
そんなある日、自首し刑期を終えた極道組の***が銀平を見舞い、丁重に謝罪した。
***は紋付袴すがたで、大きな果物カゴを持参していた。
彼は、かつて極道組の親分のボディーガードだったが、今は若頭に出世していた。
「***なんて人間のクズですな〜」ため息まじりに、そうつぶやいた***の頭に
白髪が混じっているのをみて、銀平は時の過ぎ去るのは早いと思った。
「実は・・・」***は少しためらったあと、「京都の花菱組と、ちょいと揉めてましてね」
花菱組は全国に下部組織をおく広域ホニャララ団である。
最近は、東京進出をうわさされ、老舗の地元***の極道組に、ちょっかいをだしているらしい。
「うちの若いモンも血の気が多いやつらなんで、苦労してますわ。ドンパチが始まったら、
カタギの衆に迷惑かける事になると思うと、お前さんの姿が気になりましてな」
「実は、こんど兄の執刀で手術を受けることになったんです。」銀平はうちあけた。
「神経がやられていて、へたに手術すると全身マヒして植物状態になる危険があるみたいで、
いままで誰も手術を引き受けてくれませんでした。 でも、兄なら安心してまかせられます。」
「そうですかい、そりゃあ良かった。手術の成功をお祈りいたしやす。」***は少し、肩の
荷がおりたような素振りで銀平宅を辞去していった。
「極道組若頭殺害さる」の大きな見出しの新聞を銀平が見たのは、それから幾日もたたない
寒い朝であった。
28歳
京都特有の焼けるように暑い夏。
四条河原町では祇園祭りの鐘太鼓が、コンチキチンと打ちならされる中、京都大学病院では、幸銀平の手術が始まろうとしていた。
第一外科の面々がが緊張し忙しく立ち働いている。
その中には、薬学部を優秀な成績で卒業し、看護士となったサチもナース姿で働いている。
小泉医学部長、安倍第一外科教授もそろった。
だが、肝心の執刀医、幸鉄平助教授が現れない。
鉄平は、パリ留学から帰国後、請われて、京都大学医学部の助教授に就任していたのだ。
すでに、銀平は全身麻酔をかけられ手術台に横たわっている。
時間がかかりすぎると、神経障害が残るかもしれない。
全身麻酔による、手術は時間との戦いなのだ。
いよいよ、オペの時間となったその時、鉄平がようやく現れた。
あせる周囲を黙殺し、鉄平は時計を一瞥し、一気にメスを振るい始めた。
銃創による障害は頚椎の神経節にまで達している。
しかし、鉄平はひるまずメスを進める。
見事なメス捌きである。
驚異的な短さで手術は完了し、無事に成功した。
1時間後、鉄平の行った手術に対して記者会見が開かれた。
責任者である安倍教授が説明しようとするが、記者は鉄平のコメントを求めた。
安倍は不快感をあらわにし、興奮して、手が震えている。
テレビで流れるそのニュースを、サチの父・雅千太郎が喜んで見ていた。
数日後、週刊誌に掲載された手術会見の写真は、鉄平ばかりが注目されていた。
今や第一外科は“鉄平外科”と呼ばれ、彼を慕って多くの患者が集まってきていた。
鉄平の上役である安倍教授の不快は、日増しに募るばかりであった。
そんなある日、安倍教授の総回診が始まった。
鉄平ら医局員を従え、外科病棟を回診するのだ。
安倍が、執刀した患者を前に自慢話を始めた。
倫理意識が欠如し、患者への思いやりのかけらもないその言動に鉄平は心を痛めついに、安倍にやめるように諌めた。
安倍の怒りが爆発した。
鉄平は一年足らずで助手に降格である。
誰もが「あれは安倍教授の嫉妬だ。」と思ったが、その処遇には従うしかなかった。
安倍は、次期学長選の実権を握る大物の一人なのだ。
だれも彼に逆らうこうとは許されない。
五山の送り火が行われる夜、鉄平は千太郎に呼ばれて 祇園の”しらかわ”へ足を運んだ。
二人が始めて合間見えたあの料亭である。
午後八時、京都盆地の証明が一斉に消され、五山に送り火が灯された。
東山の大文字の灯りを見ながら、千太郎は、鉄平に語りかけた。
「京大医学部は、安倍の一人天下じゃ。あんなところは見限って、サチと結婚し、雅家の婿になってくれんか。」
千太郎の、高笑いが闇に包まれた祇園に響き、遠くから八坂神社の鐘の音が聞こえて来た。
29歳
鉄平はサチとの結婚を固辞した。千太郎の高笑いが気に食わなかったからだ。それに夢とはいえ一度殺している相手と結婚することは鉄平にとって苦痛でしかなかったのだ。鉄平は一人になりたいと思っていたのだ。
そのころ京大でも鉄平の居場所はなくなっていた。傲慢で不適切な人物であろうと安部が教授であることには変わりないのだ。その安部に逆らった人物として鉄平は周りからさけられていったのだった。毎日雑用ばかりの日々に鉄平はうんざりしてた。
そんな時に福岡の大学から鉄平を教授に迎えたいとの話しが舞い込んできた。鉄平は迷うことなく二つ返事でその誘いを受けた。しかし、これは安部の陰謀だったのだ。
そんなことなどつゆも知らず鉄平は福岡へ移住した。胸の中は新境地での期待に膨らんでいた。
30歳
福岡大学での生活は実に平凡なものだった。
教授の肩書きは名ばかりで、実質、事務職員となんら変わるものではなかった。
そんな鉄平の元へサチが一人でやってきた。
千太郎には無断でやって来たといい、どうあっても、鉄平に付いて行くと言う。
こうして、二人だけの生活が始まった。
そんなある日、二人の元にニュースが飛び込んできた。
京大医学部の安倍教授が、花菱会と極道組の抗争に巻き込まれ銃撃されたと言うのだ。
安倍は行きつけの河原町のクラブ”アラジン”で飲んでいたところ、たまたま同じ店にいた花菱組の構成員を狙って極道組が襲撃し、その流れ弾に当たったという。
安倍は重態で、緊急の手術が必要になっていた。
しかし、その手術は大変困難なものであり、鉄平しか出きるものはいなかった。
安倍の家族は、福岡の鉄平宅を訪れ、手術してくれるよう、懇願した。
うらみ重なる安倍を助けるのか。
鉄平は、恩讐を越えて手術を引き受けた。
しかし、、、、
手術を始めた鉄平は、開胸した瞬間、息を飲んだ。
銃創そのもは、鉄平の技術をもってすれば何とかなったが、末期癌が胸膜全体に広がっていたのだ。
それは、全身転移と同じであり、一部の発巣切除などは意味がない。
鉄平は、銃創のみを手術すると、直ちに閉胸した。
鉄平の説明を聞いた安倍の家族は動転したが、同時に安倍に対して本人告知をしないでくれと懇願した。
今の安倍は京都大学の学長選挙に勝つことだけが生きる希望なのだ。
それを奪うような告知は許してくれと言う。
鉄平は安倍ほどの専門家にどうやって隠せるか?と疑念を述べるが、家族の希望通り、安倍には病状を隠すことになった。
数ヶ月たっても安倍は入院したままだった。
そんなある日、ナースが抗がん剤の点滴に病室へ入って来た。
薬剤の名を見た安倍は、ナースを問い詰める。
重度のがんに処方する抗がん剤だ、安倍にはすぐにその意味が分かった。
安倍は自分の身の変調に気が付き始めていたのだ。
鉄平が安倍の診察を行いに来た。
安倍は抗がん剤のことを尋ねる。
言葉に詰まる鉄平を見て、安倍は自分の病状の重さを確信した。
その晩、安倍は医局に向かい、自分のカルテを探しだし、廻りの人々が自分に嘘を付いていることを見破ってしまった。
数週間後、安倍は容態が悪化し、安倍は死を悟った。
鉄平が病室に来た頃、安倍の意識レベルは低かった。
だが、鉄平の呼びかけに安倍の瞼が上がる。
混沌とした意識の中、メスを探す安倍の手を鉄平が握った。
目を開けた安倍は、鉄平に「京大医学部学長を引き受けてくれ」と笑みを浮かべ…。
31歳
安倍の死後、鉄平は第一外科教授として再び京大医学部に戻った。
もちろん、サチも一緒である。
雅千太郎の喜びようは、盆と正月がいっぺんに来たような歓迎ぶりであった。
やがて小泉医学部長の定年退官にともない、鉄平は医学部長選挙に巻き込まれるのであった。
対抗馬は鳩山第一内科教授である。
話は前後する。
安倍の手術後を担当していたのは鳩山第一内科であり、鳩山教授みずからが担当医であった。
「鳩山君、手術の痕も良くなったし、そろそろ退院じゃないのかね」
「安倍先生、先生には小泉医学部長のあとを継いでいただく、大切なお体です。充分に
養生してもらいたいと思いますので、自重してください。」
数日後、鳩山はナースに点滴を指示した。
医者であれば研修医でもわかる抗がん剤であった。
事実を知ることが却って、安倍の死をはやめた。
それが鳩山教授の意図したことかどうかは問わないでおこう。
いま、鉄平は鳩山教授と医学部長の椅子をめぐり、忙殺されていた。
千太郎は、あらゆる裏工作をして鉄平をサポートした。
京大はえぬきの鉄平と東大系の鳩山教授では、鉄平の方に分があった。
しかし医学部の教授達の考える事は、まさに魑魅魍魎の世界である。
医学部長選挙の結果は、僅差で鳩山教授の勝ちであった。
うわさでは、小沢京大総長の天の声が、医学部の教授達に何らかの変心をもたらしたというが、
確かなことはわからない。
32歳
新医学部長就任にともない、新たな医学部人事が発表された。
第一外科の教授席には、鳩山新医学部長の弟子筆頭の菅が座った。
鉄平は、第二外科部長に降格である。
第一外科はあっという間に菅体制に切り替わっていった。
翌月、鉄平に、医学部から、ポーランドで開かれる国際外科医学会に出席し、公開手術をするようにとの指示が出た。
それこそは、鳩山と菅の謀略であったが、そうとは知らない鉄平は喜んで出席することにした。
サチは、新婚旅行にも行っていなかったので、鉄平との旅行に大喜びである。
豪華な見送りを受け、二人は関西空港から北の空に向かって飛び立って行った。
ポーランドのワルシャワ空港に着くと、鉄平は、公開手術を行う大学へ向かった。
鉄平は、学会会長のエマーソンに会い、手術スタッフと交流を持つ。
鉄平はすでに日本を代表する名医として知れ渡っていた。
翌日の手術は慣れない環境の中、鉄平らしい完璧な執刀であった。
後日行われた講演も見事なもので、偏屈で鳴るエマーソン博士をして、学会の名誉会員に推薦したいとまで言わしめた。
二人は、意気揚々と帰国。
だが、空港で財前を待っていたのは。。。。
安倍教授の死を不審とする遺族から医療過誤裁判の提訴の知らせだった。
2週間後、総回診中の財前のもとへ事務課の職員が血相を変えてやって来た。
裁判所から証拠保全の連絡がきた。
ざわつく医局員たち。
鉄平は、そんな馬鹿なと叫んだが、後の祭りであった。
小沢からの指示により、鳩山と菅が安倍の家族を抱きこんで 鉄平を罠にかけたのだ。
鉄平たちが、ワルシャワにいる間に全ての手はずは完了していた。
もはや、鉄平には裁判で無罪を勝ち取る意外に道は無くなっていた。
33歳
医学部は完全に小沢一派に掌握され、もはや鉄平の名前を口にすることも出来ない状態となっていた。
大学の職員たちは、密かに鉄平のことを”財前”という隠語で呼び、鉄平の再起を心待ちにしていたが、一審、二審と続けて鉄平が敗訴するのを見て、ついに彼らは鉄平を見限った。
「”財前”は、もう終わりだな。」
「ああ、小沢学長に睨まれてはこれまでさ。」
そんなささやきが、医局を満たしていた。
そんな中、上告の手続きを済ませた鉄平は、マスコミの執拗な取材を避けるため、木屋町 先斗町(ぽんとちょう)の置屋”寺田屋”に身を潜めていた。
そこは、京大医学部からは、三条大橋を越えた目と鼻の先。
しかし、灯台もと暗しとなって、ちょうどよい隠れ家となっていた。
そこへ、旧友の吉田松竹梅が鉄平を訪ねてきた。
「やあやあ、久しぶりすなあ。お元気でしたかあ。苦戦しちょう、ようじゃが」
鴨川の川原の見える2階の座敷にあがると、山口訛りの抜けない言葉で吉田は切り出した。
「敵はなかなかやりもうすようじゃ。ここは一つわしに任せんかね」
「ニューヨークの弁護士事務所はどうするんだね」
「そんなもん、どうでもよかけん。友人を助けるのが一番じゃけ」
吉田はそういうと、女将がだした鮎の塩焼きを頭から齧り、ジュンサイのスマシ汁を一息に飲み干した。
「うまかね。やっぱり、日本が一番じゃね。」
34歳
鉄平は、医師生命と自らの真実を賭して法廷に立った。
東京都千代田区、皇居のお堀端に聳える最高裁判所の大法廷である。
10mを越える高さの天井から差し込む天空光に照らされて、原告と被告、そして最後に裁判官が席についた。
傍聴席は、マスコミ関係者で満席である。
安倍に対する憎しみと確執による殺人である、という原告側の訴えに対し、弁護士・吉田は完全否定で臨んだ。
反対尋問で吉田が証人に呼び出したのは、安倍の主治医だった菅教授、その人である。
吉田は、尋ねた。
「あなたは、医者が患者が向き合う時に、最も不可欠なものはなんだとお考えですか」
そして、菅の目をじっと見ながら続けた。
「選択の可能性を話すと言う事ではないのですか」
吉田はさらに、たたみ掛けた。
「鉄平さんが、安倍の胸部を手術で開く前に、すでに安倍は重度の癌に侵されていました。
当然兆候はすでに現れており、MRIによる健診でも発見されていたはずです。
残念ながら、すべてのカルテは書き換えられていて、その証拠はありませんが。。。」
吉田は続けた。
「私は、あなた方の医師としての心に問いたいのです。
何故、あなたは、安倍に説明を怠ったのですか。
説明を受けていれば、安倍はもっと早く手術を選んだかも知れません。
きっと、別の安らかな気持ちで手術を迎えることが出来たでしょうに」
鳩山が、原告席でいきり立って叫んだ。
「安倍ほどの医者に、治療法の選択について事前説明することは、無意味だ。
君は何を言っているんだ」
ものすごい剣幕である。
吉田は言った。
「患者自身が生き方の選択する。
その権利をあなたたちが奪うことは許されない。
遺族は、安倍の生きる力が医学部長になることだということを知っていた。
あなたは、その安倍を思う心を利用して逆に安倍を死においやったのです。」
吉田の心の叫びのような質問に鳩山は言葉に詰まった。
その時、傍聴席で声が上がった。安倍の遺族である。
「その弁護士の言うことは本当なのか!鳩山さん!菅さん!」。
叫び声に法廷は色めきたった。
遺族は廷吏によって退廷させられたが、菅の顔は蒼白である。
裁判長は、法廷秩序を守るために、菅へのそれ以上の質問は認めなかった。
最後に、裁判長は菅に、今も安倍に告知しなかったことについて考えは変わらないか?と、質問した。
菅は下をむいたまま答えなかった。
2カ月後、上告審の判決が下された。
裁判所は、鉄平の手術は適切であり、菅は治療行為のリスクを患者に説明することを怠ったとして一審、二審の判決を変更、鉄平の逆転勝訴を言い渡した。
鉄平の勝利が確定した。
35歳
という淡い夢を見ていたのだが現実は全く逆のものであった。上告審の判決は一審、二審の判決を支持するものとして鉄平の有罪が確定した。求刑8年に対し、判決は5年とわずかに主張が認められたが、医師としての資格を問うとの厳しい内容も含まれていた。すべてが鉄平に対して背を向けた。医師会も医局員もそしてサチさえも。サチは鳩山の娘と結婚した。鉄平はすべてを失った。なにより明日からは懲役に服する身だ。たとえ出所したとしても医師としての人生は終わったのだ。医療過誤の裁判に負けた=医師失格である。どこもやとってくれるはずがない。
最後に鉄平は思った。おれはいつ財前と改名したのだろうか?もう何がなんだかわからなかった。これが一部の人間の横暴が生んだ物語の末路であった。
36歳
刑務所の中の生活は最悪だった。
まずい飯、技術訓練という名の無意味な労働。
どれをとっても鉄平には耐え難いものだった。
噂で聞いたところによるとサチは子供を産んだそうだ。
人とはこれほどまでに早く気持ちが変わるものなのだろうか?
この話を聞いたときにまずそれを疑問に思ったが、時間がたつにつれ
それは憎悪へと変わっていった。
今の鉄平を支えるのは鳩山、小沢、サチへの復讐心だけであった。
書き込みはしましたが、もうお腹いっぱいというのが正直な気持ちです。
スレ主さんと一部の人の意にそわなければ強引に話をもどす。
そして時たま起こる無理な話の転換。
こういったスレは沢山の人の書き込みがあってこそ成り立つものではな
いでしょうか?
今の状況はスレ主さんの強引さが招いたものではないでしょうか?
もう一度考え直してもらいたいです。
36歳
ぴちぴちぴち・・・小鳥のさえずりで、鉄平は目覚めた。
「また変な夢をみてしまった。しかも、だんだん、話が長くなる」
鉄平は最近また変な夢を、幾度も幾度もくりかえして見るようになっていた。
「裁判で有罪になって服役するなんて。しかも、サチが鳩山の娘と結婚して、女同士で子供まで創っているなんて、遺伝子操作技術によるクローン受胎だろうか。」
不思議な夢の意味を理解しかねて、鉄平は大きく頭を振った。
鉄平は、今、米国のマサチューセッツ州ケンブリッジ市にいる。
窓越しに、五月の晴れた空を見上げて鉄平は、3年前を思い出していた。
裁判で逆転勝訴した後、ニュヨークへ帰る吉田松竹梅を成田空港まで見送りに行った時のことである。
吉田は鉄平に一冊の本を手渡して、機内の人となった。
帰りのリムジンの中で、鉄平は吉田から貰ったその本を開いた。
山崎豊子原作の「白い巨塔」であった。
大学病院での権力争いを描いたこの物語は結局、悲劇的な結末で終わるのだが、鉄平は自分が京大病院で”財前”と呼ばれている理由を この本を読んで初めて知った。
権力欲に身を任せ、あらゆる裏工作を使って医学部長の座に登ろうとする傲慢な天才外科医”財前”。
その主人公の外科医”財前”が自分にそっくりなのだ。
「なるほど、自分は確かに”財前”だ。吉田松竹梅、君には、裁判意外でも一本取られたな」
そういって、鉄平は笑った。
もはや、京都大学にも医者にも未練は無かった。
小沢や鳩山の顔など二度と見たくなかった。
おりしも、父・大介が経営する幸特殊製鋼では、あらたな技術開発のための優秀な指導者が必要となっていた。
大介は、鉄平を東京へ呼びつけると言い渡した。
「マサチューセッツ工科大学の大学院に留学し、冶金工学を学んで来い。そして帰国後、幸特殊製鋼の社長に就任するのじゃ。」
渡りに舟であった。
こうして、鉄平は、サチとともに、3年前、アメリカへやってきたのだった。
そして、はやくも卒業、帰国の時は、目の前にせまっていた。
幸特殊製鋼社長として、鉄平の新たな人生が始まろうとしていた。
38歳
塀の中にいるうちに鉄平には妄想癖が出ていた。無理もないのかもしれない。鉄平は囚人の間でおもちゃにされていた。繰り返し行われる暴行。見ぬふりをする刑務官。何もかもが現実とは思いたくなかったのだろう。昔の栄光にすがることしかできない、現実逃避しかできない、そんななさけない男に成り下がってしまったのだ。もういい加減に終わってくれないか繰り返される暴力と意味不明の言葉をうけながら鉄平は思った。すべてを終わらせたかった。出所まであと1年。鉄平の心は既に折れていた。
39歳
ぴちぴちぴち・・・小鳥のさえずりで、鉄平は目覚めた。
「また変な夢をみてしまった。しかも、だんだん、話が長くなる」
鉄平は最近また変な夢を、幾度も幾度もくりかえして見るようになっていた。
不思議な夢の意味を理解しかねて、鉄平は大きく頭を振った。
鉄平は、今、木更津の幸特殊製鋼で社長として働いている。
地方都市の埋立地にある製鉄会社とはいえ、社員はみな、鉄鋼マンとしての誇りに満ちており、すばらしい製鉄技術を有する有望会社だ。
サチは田舎暮らしがすっかり気に入り、毎日、遠浅の海岸に遊びに行っては、アサリやハマグリを採って帰って来て、鉄平に美味しい味噌汁を作ってくれていた。
そんなある日、鉄平が家に帰ってくると、サチが嬉しそうに耳元で囁いた。
「赤ちゃんができたの・・・」
40歳
「わあ、今日は波が高いのね」
サチは強い海風に遊ばれる長い髪を押さえながら笑っていた。
水平線の向こうには遥か遠くに富士山がある。
強い波涛によって深く抉られたこの崖の上で、鉄平とサチは何度もその富士山をこの目で捉えようとこの場所まで足を運んだ。
しかしこの付近の天候は彼らに意地悪で、きまって上空を鉛色のヴェールで覆ってしまっていた。
「きっと今日も、駄目みたいね」
サチは崖の端から手前にある鉄柱と鎖だけの防護柵の前で、鉄平に向かって叫んだ。
鉄平はサチがぼやけて見えるほど離れた場所に車を停めて、ボディーに寄り掛かりながら煙草を吸っていた。
潮風はそれほど水分を含んでいなかったため、肌に心地良かった。
サチから少し遠くの方で、数人の人々が崖の手前を歩いていた。
二人は子供で、サチと同じようにはしゃぎ回っていた。
それを両親と思われる二人の大人が眺めながら追うといった様子だった。
「私たち、この海に嫌われているのかしら」
何時の間にか駆け戻ってきたサチは、鉄平の手を握って呟いた。
「私たちはこの場所が大好きなのにね」
鉄平は視線を彼女から水平線の方へ向けた。
相変わらず遠くは深いガスがかかっていて、全く消える気配はなかった。
そして、ここは常に波が荒かった。
ここは船が頻繁に往来していた。
今も漁船が何隻か見える。
一度双眼鏡でこの漁船の概観を確認した事があるが、鉄平の知らない文字で何か書かれていた。
その時は別の、さらに見た事のない文字で書かれた灰色の船に追いかけられている様子だった。
どちらもボートレースのように素早かったのを覚えている。
「あ、海女さんだ」
サチは崖を歩く家族の更に奥手を指した。
ラバーの真っ黒なスーツに一つ目のゴーグルを着けた海女が数人、こちらの方に走って来るのが見え
た。
「この下で何か採れるのかしら。雲丹とか鮑とか」
「サチ、そろそろ帰ろうか」
鉄平は、半ばまで楽しんだ煙草を足元に落とすと、軽く踏んだ。
サチはうなずくと、助手席の方に回った。
エンジンをかけてから数秒、鉄平が軽くステアリングを左に切った時、辺りには誰も居なくなっていた。
「ああ、みんな帰るところだったんだ」
サチは鉄平と同じ方向を見ると、事も無げにつぶやいた。
車が加速を始めた頃、一隻の船が水平線に向かって走っているのが見えた。
41歳
「空が見たい」
助手席のサチが言った。
「空?」
鉄平は運転に注意しながら視線を上げる。
天気は晴れ、真っ青な空が在る。
「見えるよ」
「ううん、もっと近くで。もっと大きく」
近くで、ねぇ……。
鉄平はサチを横目を見ながら、右ウィンカーを出した。
高層ビルの最上階。
目の前に拡がる景色、吸い込まれそうな空が半分を占める。
じっと空を眺めていたサチは振り返って言う。
「まだ、遠い。もっと大きく、もっと近く」
わがままな口調。
溜息付いた瞬間に見た、涙のいっぱい溜まった目。
今日はなんか変だ。
「次、行こっか」
観光用タワーの展望台。この辺じゃ一番高い。
大きく拡がるパノラマの景色、眺め続けるサチ。
辺りの雑音も鉄平の言葉も、聞こえてはいないだろう。
こんな彼女は初めてだった。
明るくて、うるさいくらいに騒ぐ彼女が、今日はこんなに無口で勝手。
何があった? ……鉄平には分からない。
何を探して、何を求めて。
鉄平は、ふと、自分は彼女の事を何も知らなかったのでは?と思った。
「もっと近づきたいの……お願い、連れてって」
哀願する瞳が鉄平を向いた。
車は山道を進む。
彼女は空を眺め、深刻に何かを求め続けている。
えっと、一番近い頂上は……。
日はまだ高い。
が、暮れる前に着けるかな。
「あっ!」
……ん?
「止めて、降ろして」
急ブレーキまじりで止めた車から、彼女は飛び出した。
鉄平は慌ててエンジンを切り、走って行く彼女を追う。
そこは、草原だった。
見渡す限り全て、全部。前も後ろも、全て緑の草。
風は好きに吹き、光はまっすぐに射す。
頭上は遮るモノなどない、そのままの空、まあるい空。
「こんなに近い……」
天に向かい、求める様に差し出される両手。
頭上一面、全て青色、みんな空。
眩しいほど笑顔を見せる彼女が、ゆっくり口を開く。
軽やかにすべり出るのは歌声。
澄んでいて、明るくて、華やかで、強い。
空へ向けられた彼女の唄が、踊りながら登って行く。
天高く突き抜ける様に登って行く。
「お母さん……」
終曲の後に漏れた、小さな呟き。
「お母さん?」
「うん。3日前に、死んだって」
驚く鉄平を眺める、彼女の顔、満面の笑み。
「私、お母さんの顔、知らないの。小さい頃に離婚して……父は、ずっと、会わせてくれなかったし、会おうともしなかった」
彼女がまた空を仰ぐ。
「でも、この唄だけは覚えてた。お母さんが唯一私に残してくれた唄……葬式にだって出なかった私の、お空に行ったお母さんへの贈り物」
いつもの、はじゃぐ口調に戻っていた。
鉄平は彼女の肩をそっと抱き寄せる。
「ねぇ、君の思い出。聞かせてよ」
鉄平は、自分は彼女の事を何も知らない、と改めて思った。
42歳
まだ暑さの残る初秋の夜。
蓬髪の若き破戒僧が一人房総半島安房の国の山中に在るこの破れ寺を今宵の宿に定めた。
焼け落ちた山門をくぐり、本堂の縁側に腰かけると、矢傷の残る古びた柱のひとつに背をもたせて、荒れ果てた庭に向つて若木の枝のような四肢を投げ出した。
疲れ切つた僧はすぐにうとうと とまどろみかけたが、叢を分け入る小さな足音に瞼を上げた。
うす闇にかすんで、藪の小枝のごとき手足を襤褸に包んだ背の低い爺が、童の頭ほどある大きな徳利を下げてゐる。
獺が後足立つたような風体である。
その縮れた白い無精鬚の口元が嗤つた形のまゝ「佳い月だ」と謂つた。
日没の朱が溶けた藍闇の西空に三日の細月が架かり、辺りの雲が硫黄色に染められてゐる。
なるほど寥々たる月だが、あやかしの類の裂けた口を思はせ些か気味が悪い。
そう訝しんでゐるのが伝わつたのであろうか、爺は口の中でくくくと嗤い小さな黒目をくるりと回した。
縁側に上がりこんだ爺は懐から欠けた白磁の盃を出して徳利からなみゝゝと注ぎ込んだ。
そのまゝ呑むかと思えば手招きして盃を指すので、鬚に頬を寄せて獣くさい息を我慢し乍ら覗き込むと絃のごとき月が見事に映つてゐる。
爺が盃を口に運ぶと、ちゞれ鬚の口の両端がにゅうと釣りあがり、酒の面に映る月をするりと呑んだ。
幾度も乾した爺は生暖かい息を吐き、盃を僧に突き出した。
酌まれた酒を僧は喉の奥へ一息に流し込む。
安酒とは違う。
薫り高き鮮やかな甘露であった。
吹き始めた風が火照つた頬を撫でる。
細い月明かりに芒が揺れて淡く光つていた。
遣れ寺にさかづき居りし秋の夜
嗤つた唇のまゝ爺が朗々と詠んだ。
僧はしばし黙つて盃を玩んでいたが、凛とした声で、
見あぐるやまことの月のかかりしにさかづき映し影を詠うや
これを聞くや爺は薄い眉をひょいと上げ無精鬚を掻いていたが、
見あぐるにとどかぬ月を如何せんさかづき映し影を詠うも
「虚も実もありはせぬ。全ては己が眼に映りし空也」
爺は盃をふうと吹いた。
ざわりという音に振り返ると芒が大きく揺れている。
否、どうしたことか、芒の上に架かる絃月もまた中天にゆらゝゝと波立つていた。
風が凪いで月はまた空に凍りつき、それを芒が受け止めたように撓つた。
気づくと僧はひとり破れ寺に遺されてゐた。
爺の座つてゐた辺りに古びた木切れがあり、一つの句が書きつけられてあつた。
さかづきのうつし世にありすゝき垂る
その僧こそは、だれあろう・・・旧友の鉄平に頼まれ、鉄鉱脈を探しに南米から戻ってきた坂本奔馬その人であった。
43歳
房総の浜辺はカラフルな水着をつけた男女で溢れかえっていた。
響き渡る歓声、 戯れる恋人達。
しかし、その平和な光景を睨みつける不穏な視線があった。
黒いマントをなびかせ、黒い仮面をつけた男がブーツで砂を踏みつけて呟く。
「申し訳程度の布切れで身を隠すぐらいなら、いっそ剥ぎ取ってやろうではないか」
場違いな姿の男は傍らの部下と思しき男にあごで合図した。
男達がなにやら掃除機のようなものを取り出す。
そこには、グラマーな肢体を紐ビキニで覆った女性達がビーチボールに興じている。
「ビキニバキューマー、スイッチオン」
掃除機もどきが唸りを上げる。
と、同時に彼女達の紐ビキニが一瞬のうちに引き剥がされた。
「きゃああっ」
魔王の指令でバキューマーが全方位に向けられる。
バキューマーに吸い込まれていくビキニ達。
「わしは、恐怖のエロ魔王。この世をエロで支配するためやって来た。」
男達に、エロ魔王は手に持った竹の杖を向けた。
「本能刺激ビームっ」
ビームに包まれた男達はたちまち濁った目に変わり、目当ての女を追いかけ始めた。
逃げ惑う女達を見て、エロ魔王は叫んだ。
「バキューマー、最大出力っ」
「お待ちっ」
声とともにバキューマーを抱えた男がもんどりうってひっくり返った。
「な、何者っ」
狼狽して周囲を見回す男の頭を白いヒールが蹴り飛ばした。
「ピチピチ戦隊1号! キラーホワイト参上」
透き通るほど白い四肢を白いワンピースから惜しげもなくむき出しにしたポニーテールの少女が砂地に着地した。
「ピチピチ戦隊2号! バトルルージュ推参」
きらきらと光るピンクの口紅も鮮やかにショートカットの少女がアーミー柄のミニスカートを翻した。
「ピチピチ戦隊3号! ミステリアスシャドー見参」
切れ長のクールな瞳をひらめかせ、ジーンズ姿のスレンダーな長い髪の少女が現れた。薄いシャツから透ける黒い下着が刺激的だ。
ホワイトを中心にポーズを決めると、三人は叫んだ。
「私達は女性の敵、品性下劣なエロリストに立ち向かう美少女戦隊よ」
「こ、こしゃくな。やってしまえ」
魔王の指令で部下達が三人に襲い掛かる。
「変身」
声とともにホワイトがワンピースを脱ぎ捨てると、白いビキニ姿に変身した。
反動でビキニから白い胸がはみ出て揺れる。
どよめくエロ魔王一団。
「馬鹿者、動揺するな」
そう言うエロ魔王も視線が胸元から離れない。
「この世に仇なすエロリストども、ホワイトニング攻撃、いくわよっ!」
彼女が跳躍すると、肌、そして光沢のある髪までもが白く輝き始めた。
光が浜辺を満たし、ホワイトの姿が消える。
「ぐえっ、ど、どこだ。ぶほっ」
白一色の中、部下が次々に砂地に突っ伏した。
「ま、魔王様っ」
突如、魔王は目を見開いた。
「見切ったぞ、真夏の太陽に容赦無し。ホワイトニング敗れたりっ」
言葉が終わるとともに杖が一閃する。
「きゃああっ」
ホワイトの悲痛な叫び声が響いた。
ふっつりと光の洪水が消え、砂地に倒れこむ少女の姿。
「ど、どうして……。この日焼け止めは最強のはず」
「み、耳が消えてないわ」
ルージュの叫びに慌てて耳に手をやるホワイト。
「ふふふ、愚か者め。日焼け止めを耳に塗り忘れたな。日差しで耳が焼け保護色効果が無くなったじゃ!耳ありホワイトというわけか」
「今度は、わしの番だ」
杖からヘドロ色したどす黒い気体がうねって広がっていく。
「ファンタジーバンブーの術っ。わしの妄想でお前らを虜にしてやる」
「ああっ、いやんっ」
たまらずルージュが涙を浮かべて膝をついた。
「そこは、だ、だめっ」
胸を抱え蹲るシャドー。
「ファ、ファンタジーバンブー……妄想竹。あっは〜んっ」
砂地に転がって喘ぐホワイト。
「竹…空洞。」
苦しい息の下、ホワイトは邪念が噴出する竹の杖の先端の穴を見た。
「あの穴を塞ぐわよっ、ストロングパック攻撃っ」
ホワイト、ルージュ、シャドウが声をそろえてパッククリームを投げた。
次々とパックが竹の穴を塞いでいく。
ぼぼぼぼ、杖から邪念の噴出が止まった。
行き場の無い妄想が充満し、魔王の持つ竹が不自然に膨らむ。
次の瞬間、バッカーン。妄想竹は激しく爆発した。
どっ、と巻き上がる砂煙。
視界が開けた時、砂の上にはエロ魔王が倒れていた。
「お、お前らの反応に興奮して、暴発する妄想を止める事が出来なかった……」
絶え絶えの息で魔王が少女達を睨み付ける。
「年にそぐわぬ体。男の本能を刺すフェロモン。お前らの存在自体が罪だ。エロ無きところに潤い無し。」
「限度ってもんがあるのよ、バカっ」
「わしを倒しても第二、第三のエロ魔王が出現する……お前らの戦いは永遠に終わらない。うおっ」
ホワイトの蹴りが炸裂し 黒い仮面に亀裂が走った。
なんとそこに、あらわれた顔は、あの坂本奔馬であった。
やがて、彼は、ぷしゅーという音とともにしぼんで消えていった。
「行き場の無い夏の妄念が魔王を生んだのね」
シャドーが呟いた。
「美ってどうしてもエロを誘発してしまう。美しすぎるのは罪、なのね」
シャドーが長い髪をなびかせた。
「そうかもしれない。だけど無差別なエロは許さない」
ルージュが唇をかみ締める。
夕暮れの房総の浜辺で少女達は、新たな戦いの予感に身を震わせていた。
44歳
鉄平の旧友・勝海虫は目を覚ました。
カーテンの隙間から外の明かりが漏れている。
枕元の時計を見てがっかりした。
昼過ぎまで寝ていようと思ったのに、もう眠れそうになかった。
脱いだ服が床じゅうに散らばっている。
そういえばしばらく洗濯していない。
勝はシャツや下着や靴下を拾い集めて片っ端から洗濯機へ放り込んだ。
勝は手前の操作パネルの「念入り」コースに指を止め、ちょっとためらった後「ふつう」コースにした。
ドラムが回転を始める。
しゃっくりするような動きに合わせて、白いボディがごん、ごん、と揺れた。
「ふつう」コースを指示された洗濯機は一回の洗いと二回のすすぎをして、最後に五分ほど脱水する。
勝は、ポケットから煙草を出して火をつけた。
思い切り吸い込んで、息を止める。
別にたいして美味くもない。
開けっ放しの風呂場の鏡に勝の顔が映っている。
二週間ぶりの休日だった。
何が忙しいというのでもない。
いつも通りだ。
自分が勤める工業高校の学生たちと放課後ラグビーの練習をする。
ただ、それだけの毎日。
家に帰ると服を脱いで湿っぽい布団に眠るだけ。
この歳まで独身で通しているうちに、日常行為は何だか面倒くさい特別な儀式のようなものに変化してしまった。
洗濯は、祖父の七回忌とかそういう感じだ。
やがた、揉まれる洗濯物は、海外の友人たちに初めて見せた遺影のようにリアリティを失う。
それが選びようのない勝の現実だった。
工程を終えた合図の小さな電子音が鳴った。
ねじれて絡まる洗濯物をひとまとめにして、床にどさりと落とす。
たくさんのシャツと下着と靴下を、窓のカーテンレールに下げたハンガーにかける。
乾けばそこがそのまま箪笥になる。
淡い色の太陽がはす向かいの高校の屋上をかすめて、慎ましく昼の訪れを告げていた。
洗濯物は、田舎道でバスを待つ老人の日傘のように頼りなく北風に揺れて、時々太陽を遮る。
勝はただじっとそれを見ていた。
光を感じるのはとても久しぶりだった。
そうしているうちに、勝はうとうとと眠ってしまった。
窓を揺らす風の音で目が覚めると、空の色が少し薄くなっていた。
木枯らしに洗濯物が揺れている。
勝は窓から下を覗き込んだ。
南側のフェンスに洗濯物がひっかかって、風に弄ばれていた。
勝はサンダル履きでアパートの階段を降りた。
眠る間に吹き始めた風は辺りをすっかり冷たくしていた。
洗濯物はどうにかフェンスにしがみついていた。
勝は拾い上げて軽く埃を払った。
足元で動物の唸り声がした。
振り返ると背の低い女に連れられた小さな犬がいた。
「洗濯ですか?」
女がきれいなアルトでそう訊いた。
彼女の視線は勝の手元を見ていた。
「ええ。まあ」勝は適当な相槌を打った。
彼女の犬が、同じく勝の手のあたりを睨んで足元で小さく唸っている。
平面的でいかつい顔をした犬だ。
「うちの人は、洗濯なんて、何もしないわ」
「俺だって結婚したらきっと洗わない」
「そんなものかしら」
「わからないけど。洗わないでもやっていけそうな気がする」
「そうかしら」
「そうかな」
「私は毎日洗濯してるわ。いろいろとね。他にあまりやることもないし」
「そう?」
「あなたもダンナの転勤にくっついて見知らぬ土地に行けばわかるわ」
「ダンナを貰う予定はないね」
「そうね」
彼女の犬がまた唸る。
「ええと、アナログ盤のレコードがあるでしょ。一枚だけ残ってた一枚を繰り返し聴いてる、みたいな感じかしらね」
平面的でいかつい顔をした犬の散歩と、すりきれたアナログ盤。
そして洗濯する休日。
風は休みなく吹いて、彼女と勝の間にある幾つかのものを冷たく乾かして通り過ぎていく。
「ブラームス」
「え?」
「犬の名前」
「ブラームス?」
「私ピアノを弾いていたのよ。結婚するまではね」
そう言ってブラームスを連れた彼女は去ってゆく。
ブラームス。
勝は繰り返した。
冬の空は朱が染みるより早く紫の薄絹を下ろし始める。
ブラームスという言葉は、しばらく頭の中であちこちにぶつかって反響していたが、やがて毎朝の出勤で通りかかる赤い屋根の家の庭先に佇む女性の記憶に辿り着き、そこで落ち着いた。
響きのかけらがひとつ体の中心近くまで届いて、そこに残っていた午後の光の匂いがふわりと立ち昇り、小さく鼻をくすぐった。
勝海虫が、消息を絶った旧友・坂本奔馬を探しに 房総へ旅立ったのは、そんな休日の夕方だった。
45歳
「お嬢ちゃん、ええ会話しませんかぁ」
「英会話?」
パッチリした瞳の美少女が立ち止まる。
男は何食わぬ顔でミニスカートの中にカメラを入れた。
「かかったわねっ」
少女が空中に飛び上がった。
「変態男、キラーホワイトがお相手よっ」
電光石火の早業で白い足が弧を描く。
男は潰れたヒキガエルの如く、路上に崩れ落ちた。
「連続盗撮犯の噂を聞いて罠を張ってたのよ」
ホワイトは得意げに鼻をならした。
「小娘っ」
不意に背後から別の男が襲いかかった。
「あっ」
羽交い絞めにされ、白いリボンのポニーテールが大きく揺れる。
「ピチピチ戦隊か。一人で来るとはいい度胸だ」
男が立ち上がり、ホワイトの胸に手を伸ばした。
その瞬間。
「お待ち、この蛆虫」
黄金の鞭が男の首に巻きついた。
鞭の先には、グラマーな肢体を黄色のスーツに包んだ長い髪の女。
「行くわよ、ホワイトっ」
二人の細い足が舞い、蹴りが男達の顔面にめり込んだ。
「私はピチピチ戦隊の新隊員、ビクトリー・ベース」
男達はせっかくの自己紹介にも気づかず、昏倒していた。
「大丈夫?」
ルージュとシャドーが駆けつける。
「ええ、彼女のおかげで」
「頼りになるぅ」
褒められて、頬を染めるベース。
「でも、これはいただけないわ」
ルージュが、ベースの胸の不細工な青いペンダントを指差した。
「……これは」
ベースが口ごもった、その時。
「探したぞ、ピチピチ戦隊」
大声とともに、電飾の付いた極彩色の裃に身を包み、ちょんまげに薔薇をあしらった男が現れた。
その両脇には薔薇の文様の着流しを着た男が二人。
「また、ヘンなのが、出てきたわ」
シャドーが溜息をつく。
「エロ魔王をよくも葬ってくれたな。今度はこのエロ将軍が相手だ」
余裕の笑みを浮かべたホワイトがミニスカートのすそを捲り上げた。
「ピチピチフラッシュ」
白い太ももから出た悩殺光線が辺りを包む。
「男なら再起不能ね」
しかし。
「二人とも見て、やつら平気」
愕然とするホワイト。
「ふふふ、男がすべて女を好きだと思ったら大間違い。わしのエロは同性のみに向けられるのだ」
ちょんまげを震わせて男が笑った。
「ええい、控えおろう。このやおいの紋が目に入らんか?このお方をどなたと心得る」
供の男が叫んで、印籠をかざした。
ショッキングピンクの印籠の表面には二つの男性マークがウロボロスの蛇の如く円を描きお互いの丸を矢印が刺し貫いている。
ベースが呟く。
「矢追いの紋に、同性愛主義。お前はエロ将軍……み、meと肛門!」
「このわしを知っているとは、素人じゃ無いな」
エロ将軍が、ジロリとベースを睨んだ。
「まあいい、全員地獄に堕ちろ」
将軍はにやりと笑って全身の電飾を不気味なリズムで光らせた。
「悶々ビームを食らえ」
薔薇色の光線が印籠から発射され、四人を直撃した。
「ああんっ」
少女達は、苦悶の表情を浮かべて路上に蹲り、悶えた。
だが、妖しい光の中すっくと立つ一つの影があった。
「な、なぜだ」
「無駄よエロ将軍、私には効かない」
冷たい声が響き、鞭が一閃した。
ピンクの印籠が砕け散る。
精神攻撃から逃れた少女達が立ち上がる。
しかし、今度はベースが身体を震わせ始めた。
「どうしたのっ」
胸のペンダントが赤く点滅している。
ベースの輪郭がずれ始め、次第に筋肉質の男の姿が浮かぶ。
「お前は、我が薔薇一族から出奔した黄願丸」
エロ将軍が叫ぶ。
ペンダントが赤に変わり、ベースの姿がガテン系の男に変わった。
「ベースっ」
悲鳴を上げるピチピチ戦隊。
「騙してごめん。ホルモン剤入りのペンダントが青い間だけ、女になれるの」
口髭がわなわなと震える。
「ふふ、姿を変えてもお前は男。心の奥にはエロの噴煙が立ち昇っているはずだ。ピチピチ戦隊でやっていけるはずが無い、我が軍門に下れ」
「愛に形は関係ないわ。良いエロは無敵なの。あなたのエロは、滅ぼすべき悪いエロ」
ベースはエロ将軍を睨みつけた。
「秘技、ミー、とオッ」
掛け声とともにベースが飛び上がり、両手を突き出した。
「パイッ」
手から放たれた細い針がエロ将軍らの胸に二つずつ突き刺さる。
針は一瞬、胸に突き立ち、すぐに地上に落ちた。
そのとたん、彼らの胸は服を突き破って膨れ上がった。
その頂点には虫に刺されたような赤いイボ。
「かっ、かゆい」
エロ将軍たちは、胸を掻き毟り、悶え苦しむ。
「蚊の毒液を最新バイオテクノロジーで強化したパイ毒よ。地獄の痒みを味わいなさい」
エロ将軍らは胸が気球のように膨張し、空中に舞い上がっていく。
「甘いな小娘。バイオテクノロジーと言うなら、パイをテクノロジーぐらいに捻らねば……」
ぷシューという音とともにエロ将軍は、ついに正体を現した。
それは、あの勝海虫であった。
「エロは夢。エロは希望。われらのエロに敗北なし」
彼は、苦痛にのたうちながら叫ぶと、部下とともに虚空に消え去って行った。
「この後に及んでダメだしとは、敵ながら天晴れ」
美少女戦隊は、唇をかんだ。
彼女たちの戦いは、まだまだ続くのだ。
46歳
いつものバス停に降りて腕時計をみると、まだ4時半だった。
今回の裁判は、結果が悪すぎた、いつになく疲れた。
事務所に寄って報告書を書く気力もなく吉田松竹梅は、裁判所からそのまま自宅へ直帰することにした。
見慣れた並木道に沿って、夕暮れ前の木漏れ日の中を歩いていると、剥き出しになった神経も少しずつ癒されていくような気がする。
今から家に帰れば、夕食まで子供とキャッチボールをする時間ができる。
こんな日は、まず子供の顔が見たい。
弁護士の日々は、あまりにも激務だ。
心の安らぐ場所は、マンションの小さな一角で彼を待っている家庭だけだ。
家路に向かう歩調も早くなり、ふと回りも見えなくなっていたのだろう。
気がついたときには、慌しい人声とサイレンの喧騒の中にいた。
立ち止まって方向を確認した。
一台の救急車がけたたましい勢いで走り去っていく。
人々がたむろしているところまで駆け足で近づいた。
見慣れた顔の一人がいる。
朝の通勤時に、よく挨拶を交わすことのある年配の奥さんだった。
「なにがあったんですか」
「ご近所の芳雄くん、さっきそこでダンプに跳ねられたんですよ。あの様子じゃ、もうだめでしょうね。まだ小学生なのにねえ」
「ここの四つ角、多いのよ。お子さんにも気をつけるようにいっておいたほうがいいわ」
芳雄くんのことはよく知っている。
息子のタケシと仲のいい友達で、学校から帰るといつもふたりで遊びに出ていた。
心を休めるはずの帰宅が、さらに陰鬱なものになった。
タケシにこのことをなんといえばいいのだろう。
黙ったまま玄関で靴を脱いでいると、台所から妻の「おかえりなさい」という声。
いつも通りの日常である。
今日のことは黙っておこう。
ずるい方法かもしれないが、知らなかった事にすればいい。
放っておいても、明日になれば近所の噂は妻の耳に入ることだろう。
今はただ、タケシとキャッチボールがしたい。
堅苦しいスーツを脱ぎ捨てて、居ても立ってもいられない気持ちで、子供部屋を覗いた。
タケシがいない。
「あれ、タケシはどこだ?」
「今、外へ遊びに出たわよ。晩御飯まで遊んで来るんですって」
「ひとりでか?」
「芳雄くんが、あそぼって、誘いに来たのよ」
それはいつだ、と尋ねた声は、叫び声だった。
妻が眼を丸くして、ついさっきよ、と振り返った。
芳雄くんは交通事故で死んでいるのだ。
妻はわけもわからず、ただ怯えて言葉もない。
気づくと、無我夢中で、外へ飛び出していた。
タケシを救わなければならない。
ドアから一歩外へ出たとき、非現実の世界に足を踏み出してしまったのだ。
もはや後戻りはできなかった。
どこどう走ったのかわからない。
マンションの端にちぎって捨てられたような小さな公園がある。
気がつくと、まるで呼び寄せられるように、その前に立っていた。
子供たちのはしゃぐ声が聞こえる。
あたりはすでに薄暗かったが、淡い光を集めたような空間の中で、ふたりの子供が追いかけっこをして遊んでいた。
一人はタケシであり、もう一人は芳雄くんだった。
だが、夕日を受けて芳雄くんの足元から伸びているはずの影がなかった。
「あ、おとうさん」
その時、私を見つけたタケシが、こちらに向かって走ってきた。
芳雄くんがそのタケシを追っている。
その刹那、初めて背筋も凍るような恐怖心が湧き上がってきた。
死んでいるんだぞ、君はもう。
芳雄くんの顔が、たちまち潰れたように歪んだ。
口の両端が耳元まで裂け、真っ赤な隙間から覗いた歯は、五寸釘を何本も並べたように鋭かった。
どこまでも遊んでいるつもりなんだろ、タケシは無邪気に私の背中に回って抱きつこうとした。
私は後ろ手でそれを追い払った。
「すぐに家へ帰るんだ、タケシ。母さんが待ってるぞ。走れ」
その間も異形の者は、獲物を狙う禽獣のように背中を丸めて身構えていた。
「おじさん、あそぼ…」
「ああ」
と、私は答えていた。
どうやら、この異形の関心は私に移ったようだ。
次の瞬間、タケシを残して私は弾けるように駆け出した。
異形は、待ってよ、と叫んだ。
日は完全に没していて、辺りの人影は少なかった。
すれ違う人々は、一人として気づくものはいない。
助けてくれ、という呼びかけはどこまでもむなしかった。
人々は怪訝な顔を向けて、身をかわすだけなのである。
おそらく、こいつは、他の誰にも見えないのだ。
私は、並木通りを駆け抜け、バス停を越え、さらに国道に面した往来に向かって、逃げ続けた。
吉田松竹梅が、消息を絶ったという連絡が鉄平に届いたのは、その翌日のことだった。
47歳
母を背負って海岸までの細い坂を下る。
彼女は何も言わずにただ黙って西郷猛盛に背負われていた。
彼は前を向いているので、母がどんな表情で背負われているのかわからない。
海岸に出ると、満月が煌々と砂浜を照らしていた。
ハマユウの花が、純白の花弁を夜風に揺らして甘い香りを漂わせている。
すぐ後ろを歩いていた中年の女性が、そそくさと波打ち際まで進み、背負っていた老婆を乱暴に降ろし、不安そうに遠くを見つめる老婆の背中を、海に向けて黙って押した。
見回すと、浜辺には思ったよりもたくさんの人がいた。
若い女性は、赤ん坊を海に向かって放り投げている。
投げられた赤ん坊は小さな弧を描いて、暗い水の中に消えた。
赤ん坊が着ていた白いベビー服が、残像となって西郷の瞼の裏に焼き付いた。
猫背の青年は、海に入って行く初老の男の姿を、少し悲しそうな表情で見送っている。
男は振り返りもせず進み、老いてしぼんだ小さな体は少しずつ海に飲み込まれる。
静かだった。
取り乱したり泣いたりしている人は誰もいない。
母親らしき女性に手を引かれている小さな子供でさえ、何も映らないガラス玉のような瞳で月の光に輝く水面を見つめるだけだ。
波打ち際では夜光虫が暗い水の中で淡い光を放っている。
たとえ海の中が冷たく音も無く心細い世界だったとしても、この夜光虫の美しい光がどんなにか水底に沈んで行く人々の心をなぐさめてくれるのではないか、と西郷は思う。
彼はこの海に、母親を捨てに来た。
ふうっと深いため息をひとつつくと、背負っている母を浜辺に降ろした。
いつの間にか浜辺にはたくさんのウミガメ達が海から這い上がり、産卵の真っ最中だった。
卵を産んでいるウミガメの前にそっと座って、その様子を静かに見守った。
ウミガメは泣いていた。
その小さな瞳からは大粒の涙がポロポロと流れ落ちて、砂の上に小さな黒いしみを作っていた。
どうして泣いているんだろう。
卵を産むのが、そんなにも痛くて苦しいんだろうか。
それとも、新しい命を生み出す感動の涙なんだろうか。
母が、同じように座り込んで、ウミガメの産卵を見つめている。
カメのしっぽの下のあたりから、ピンポン玉みたいな真っ白い卵がぽとりぽとりと砂の穴の中に落とされる。
このうちの何個の卵が孵化し、何匹の赤ちゃんカメが無事に海までたどり着けるのだろう。
母は卵を見つめたまま、身じろぎもしない。
ウミガメは卵を産み終えると、前足を使って丁寧に砂をかけて、またゆっくりと海へ戻って行った。
彼は卵を間違えて踏み付けてしまわないように、近くにあった棒切れを拾って卵が埋まっているあたりに円を描いた。
彼は立ち上がると、お尻についた砂を手でパンパンと払った。
母もつられて立ち上がる。
彼は母についた砂もはたいてあげた。
これが息子として、母にしてあげる最後の仕事なんだと思い、砂が落ちてからもしつこいくらいに母の体をパンパンと叩き続けた。
海面で魚が跳ねた。
跳ねた魚の青白い腹と水飛沫が、月の光を浴びて輝くのを見た。
それを合図に、彼は母の手を引いて波打ち際までゆっくりと進む。
心の中は、この海のように凪いでいる。
潮の香りが一段と強くなって、体の隅々までまとわりついて来るような気がした。
母のシルエットが、月の光に照らされて広大な海を背景にクッキリと浮かび上がる。
母はよろめいたけれど、一歩一歩、暗い海へと入って行った。
少しずつ、母の体は海とシンクロし、やがて頭の先が見えなくなって母は完全に姿を消した。
さよなら、お母さん。
しばらくの間、ぼんやりと海面を眺めた後、西郷は何かに追い立てられるようにきびすを返した。
柔らかい砂の上を足首まで埋もれながら小走りに進む。
ウミガメの姿は、もうどこにも無い。
砂浜には誰もいない。
暗闇が、その色をさらに増して私の背中にのしかかって来る。
振り向いてはいけない。
彼は少し前に母をおぶって歩いた細い坂道を、たしかめるようにひとりで登る。
寄せては返す波の音が心臓の鼓動と重なって、彼の中で規則正しいリズムを刻む。
捨てられた人々の体は魚や夜光虫の餌となって、また夜の海を神秘的に輝かせる。
いつか、そう遠くはない未来に、自分も息子に背負われてこの海に来る。
その時は、私は喜んで暗い海の藻屑になろう。
誰を恨む事なく、静かに冷たい海底にこの身を沈めよう。
風は止み海は凪いでいる。
水面で、またキラリと魚が跳ねた。
静かな静かな、房総の海だった。
48歳
男が二人、吉田松竹梅と西郷猛盛は、線路端の道を歩いていた。
「饅頭は怖いね」
「やだね、怖いものね」
月は天空遥かに上り、この二人をじいっと見ています。
「まるいのが良くないね」
「ああ、ぽってりしてるのがおっかない」
久々に顔を出したのに不愉快です。
前の満月の日は大雨でした。
「たまに皴が寄っているのが癪だね」
「はじの皮がちょろげているのも汚らしいや」
饅頭がなにをしたというのでしょう。
聞いているのもいやになってあたりを見回しました。
中央線が西へ西へと走っていきます。
「饅頭以外に何か怖いものがあるかね」
「そうだねえ、カマドウマはいやだね」
カマドウマなんて久しぶりに聞きました。
「カマドウマなんて久しぶりに聞くね」
男と同じことを考えていた月は、少しだけオレンジがかります。
「なんかさ、下駄箱の隅のところで三匹ぐらい寄り集まってこっちに尻を向けてじっとしてるの」
月は、都庁ビルの方を見ているふりをしています。
「あれをみていると、なんだか俺の悪口を言われているみたいで」
「それはどうだろう」
月は新宿中央公園の公衆便所の脇でカマドウマを散り散りに十七匹見つけました。
長い触角が影を落として、何倍にも長く見えます。
「でもやっぱり饅頭は怖いよね」
「うん、まるいしな」
「まるいし」
男たちはそれから黙って歩きました。
きっと、うとうとしていたのでしょう。
ものすごい地響きに目を覚ますと、寝ている間にはるか東になった奥多摩のあたり、大きな饅頭がひとつ転がり出てくるところでした。
暁を浴びた赤黒い巨塊はほぼ真っ直ぐに中央線沿線をたどって都心へ向かっています。
饅頭が転がるたびに足元ではいくつもの爆発や炎上があって、無辜の東京都民が敢えなく命を落としていることでしょう。
ですが、来てしまったものは仕方がありません。
月は地平線に沈んでいく己が身を少し**ました。
するとその時です。
朝焼の新宿中央公園の地面が弾けたと思うと、大きな大きなカマドウマが三匹も飛び出したのです。
三匹はそれぞれ新宿西口の高層ビル群をなぎ倒しながら集まると、触角を摺り合わせてひそひそと、饅頭の悪口をささやきあっているのでした。
いったい、このあと どうなってしまうのでしょう。
月は転がっていく饅頭を見送りながら「きっと夜中のあの男の人は恐怖で発狂しているに違いない」と思ってなんだか愉快でした。
ようやく満足した表情で、だんだんと夜明けの光に消えていきました。
吉田松竹梅と西郷猛盛が、ともに助け合って、美少女戦隊に最後の戦いを挑むのこの後、一年後のことである。
鉄平の友人、四天王と呼ばれた彼らが、何故、こんな戦いをしなければならなかったのか。
全ての謎は、やがて解かれようとしていた。
続きが読みたいので上げてみます。よろしくね♪
ねぇ、続きは、どうしたの?