夕陽ちゃん
[更新日時] 2024-11-09 10:11:36
あの頃は、貧しかったけど、楽しくて夢があった。
町内会で集まると、「家に電話が付いた!!」「冷蔵庫買った!!」と、日に日に生活が進化していくことが喜びだった。
私は、人形アニメが好きだった。テレビ番組「ちろりんむら」、「ブーフーウー」。
親に連れられて、木馬座の「ピノキオ」を観に行ったとき、子供達がみんな立ち上がって、大きな声で声援した。親達はみんな紙テープ投げて盛り上がった。
今は両親も亡くなり、育った町も開発されて、幼なじみもどこへ行ったやら。
昔の良き時代を語れる相手もいないので、スレを立ててみました。
昭和30年代、覚えていることを話しましょう。
[スレ作成日時]2009-02-18 00:36:00
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昭和30年代を語ろう
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102
周辺住民さん
親父と姉の嫁いでいる町に行ったとき、蒸気機関車を見た
貨物専用だったけど、ポーっと汽笛を鳴らしてくれた
はじめてみた機関車だった
バスも前が出っ張っているバスで、運転席の横に丸いカバーがあった
親父が触ってみなと言ったが恥ずかしくてさわらなかった
冬だったのか寒いだろうと思ったのかもしれない
無口な親父で、子供には気持ちがわからないまま他界してしまった
親父の様にはならないと思って子供を育ててきたが、なんか親父のように
なってしまった自分がある
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103
匿名さん
ボンネットバスというのでしょうか?
汽車も普通に走っていて、汽車から降りるとお姉さん達が顔を洗っていましたね。
船は、ポンポンポンと音と煙が出るの、あれはポンポン船というのでしょうか。
東京では残っている都電は荒川線だけですか?
いろいろな地方都市には、多分東京よりも多く残っていますよ。
幼かったので、乗り物の正式名称がわからぬまま、いろんな乗り物を見かけなくなりました。
私は、性格の余り宜しくないのは親父似で(それでも今となってはどこか尊敬できるのは何故でしょう)、顔は殆んど記憶にない祖父にそっくりです。近頃写真を見て愕然とした次第です。
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104
h_imagine
「ポンポン船」
焼玉エンジンですね。(ディーゼルエンジンに近いけれどもっと単純)
蒸気機関車、ホームに煤で汚れた顔を洗う洗面台が有った駅も。
夏の夜、学校の校舎に布のスクリーン垂らして、映画上映会。風でスクリーンが揺れていた。
冬の朝、道路にズラリと海苔が干して有って、下校時に乾燥しているのを剥がして食べた(味が無い)事は記憶に有りません。
幼稚園に行かなかった自分は、2歳上の姉が小学1年生になった時に、一緒に通学して(夏休みまで)一緒に教室で勉強?していました。自分が本当に小学生になった時に担任が同じ人だったので滅茶苦茶贔屓されました。(大田区大森第4小学校)
私の通っていた小学校は羽田の近く、6年生の時に、日本で始めて防音ガラスに改装された。
旅客機がプロペラからジェットに変わって騒音が増大するのに対応。
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105
匿名さん
オオカミ少年ケンしか覚えていない。
それも再放送を見たのかもしれない。
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106
h_imagine
麹町の日本テレビに家族で見学に行きました。
川田孝子さんが歌を歌ってました。
未だ東京タワーが建つ前。
子供年鑑に「天才画家」「クロード岡本」が頻繁に掲載されていました。
先生に「絵が上手い」なんて言って貰ったので、意識していました。
5寸釘で「釘刺し」していました。
道路も舗装されていなかったので。
「泥ダンゴ」を隠し場所に埋めて「強靭加工」していました。
単に落として玉を割り合うだけなのに。
今は大理石みたいに綺麗に仕上げて鑑賞するらしい。
http://www.kyokyo-u.ac.jp/youkyou/4/4.html
学校の休み時間は「馬飛び」(良く怪我人が大勢出なかったな)
学校の昼休みは「三角ベース」
割り箸で「銃」を作っていた。
今は大人が作っている?(当時の子供が成長しただけ?)
http://www007.upp.so-net.ne.jp/jrbgsa/index.html
菓子と言えば、ガラスケースからスコップで紙袋に入れてくれる計り売り。
器用に両端持って「クルリ」とすれば封になる。
余りお菓子を買って貰えなかった自分は、雨戸の戸袋の杉板で、竹の子の皮の毛羽を削って、梅干を挟んで「チュウチュウ」吸っていました。
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107
匿名さん
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108
匿名さん
狼少年ケンのココアを良く飲んだ。
当たり前田のクラッカーにはスープの素が付いてて美味しかった。
具の付いた即席ラーメンがあった。
具は桜エビ、お麸、ノリタマ、だった。
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109
h_imagine
(活性化しませんね)
私が昭和33年に横浜の大倉山に引っ越した時。
地域の電話は未だ電話機の横の「ハンドル」回して「交換手」を呼び出す方式だった。
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110
匿名さん
107さん、椿山荘で蛍狩りがあったのですか?(無知で済みません)
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111
匿名さん
ポンポンポン…と音がする船、あれは焼玉エンジンというのですね。
有難うございました。
この歳になるまで知らなかった(恥)です。
名前を知らずに消えた乗物の多いこと。
大人になって東京見物した頃には、既に高層ビルも増えて、日本初の高層建築霞ヶ関ビルに余り感動しないわびしさと言ったら。
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112
匿名さん
>>104
さすが羽田ですね。
日本初の防音ガラスですか。
下品な話でスミマセンが、汲み取りトイレから、水洗トイレに換えるのに、私の村では無利子の貸付けがありました。
かなり田舎でしたが、お陰様で全国的に見てもかなり早くに水洗化されました。そこら辺の都市(昔は町)より早かったんですよ。
おらが村の「唯一の先進的な自慢」がそれ。
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113
匿名
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114
匿名さん
30年代って・・・。俺の両親もギリギリ生まれたかどうかだぜw やっぱくぞじじいばっかりだな。この板は。
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115
風俗にお勤めさん
みんな貧乏やった でも心は貧しくなかった こ~ころの錦
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116
匿名さん
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117
匿名
今の日本に欠けているもの 大東亞共栄のこころいき 八紘一宇!
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118
匿名
112
うちのドケチなオヤジ、バブルの頃に家の建て替えをしたんだが、
それまで水洗だったトイレを建て替えでは汲み取り式に出来ないかと
ハウスメーカーの営業に聞いた。ケチだから水洗の水道代がモッタイナかったわけだ。
営業さん笑って
「今まで汲み取り式のトイレを建てたことはないですが、出来なくはないと思いますよ」と答えた。
オヤジ、大喜び。
営業が続いて
「但し、この街では汲み取りは業者に有料で頼むことになりますよ」と言った。
タダだと思ってたオヤジ、ガッカリ。
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119
匿名さん
信じらんない。水洗じゃないトイレなんてありえない。洋式じゃないのも論外。スマホやインターネット、コンビニやファミレスがない時代なんて、サイテー。
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120
匿名さん
ボットン便所、チリ紙で拭く。チリ紙が無いときは新聞紙で代用。ケツがムチャ痛い。
家電話は40年代付いた。それまでの通信は電報。
商店街が大盛況。でも20時に閉まる。
たしかにインフラはサイテー。
でも右肩上がりの未来が見えて幸福度は高かった。
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121
匿名
二子玉川に住宅展示場があったんだけど、
未来のトイレを予想したコーナーがあり
和式トイレの後ろから前に、ハケでオブツを自動的に掃除する便器があった。
今思うと、水を流さずにハケで掃除したら汚くなるんじゃなかろうか。
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