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「早乙女愛、僕は君のためなら**る」
by岩清水弘 「愛と誠」
心に残る名言、いってみよう〜!
[スレ作成日時]2007-04-11 08:33:00
「早乙女愛、僕は君のためなら**る」
by岩清水弘 「愛と誠」
心に残る名言、いってみよう〜!
[スレ作成日時]2007-04-11 08:33:00
「おまえのような立派な息子を育ててくれ」
映画『みなさん、さようなら 』
死にいく父が息子に伝えた言葉。
自分も子どもたちにそう伝えたい。
「人生の中には偶然という要素はまったく存在しない
人は、どんなときにも自分が学び成長を遂げるために最適の場所にいる」
by ジェームズ・アレン
つまり、すべて必然ってこと?
>(実際はブキミかもしれないのでキモチ的に↑^^)
ぎゃはは…
そういうときはひたっていんじゃない?
冷静に第三者で見るなってヾ(≧∇≦)〃
>>424
すっごいモチベーション上がるナァ。
でも最近自分は
色んなことが偶然の連続で
だからこそこの生も愛しいのじゃないか…
って考える。
>色んなことが偶然の連続で
うんうん、私もそう思ってた。
■友だちは必要か?
人間は自分のことをわかってくれる人なんかいなくても
生きていけるってことこそが、
人間が学ぶべき、なにより大切なことなんだ。
そして、友情って、本来、友だちなんかいなくても
生きていける人たちの間にしか、
成り立たないものなんじゃないかな?
『子どものための哲学対話』
…どうなんかなぁ…
んー。。。
そんなに人間て強くないしね……
自分のことを分かって欲しいというのはエゴだ。自分が他人のことを分かろうとすることは大切なことだけど・・・という意味かな?
「友達なんていなくても生きていける人」というのは、いつも(自分のために)自分のそばに友達を引き止めておくことが真の友情ではないんだよってことが言いたいのかな?
んん…
あの本の中では
「ネクラ」と「ネアカ」ってあって、
表面の明るさでなく、根の部分を言うらしく、
根が明るい人というのは、
いつも自分の中では遊んでいる人だということだそうです。
勉強しているときも、仕事しているときも、
なにか目標のために努力しているときも、
いつもそのこと自体が楽しい人を言うのだそうです。
根が明るいっていうのは根本的に、
自分自身で満ち足りているって事なんだそうで、
何にも意味のあることをしていなくても、
他のだれにも認めてもらわなくても、
ただ存在しているだけで満ち足りているってことなんだそうです。
根が暗いっていうのはその逆で、
なにか意味のあることをしたり、他の誰かに認めてもらわなくては、
満たされない人のことなんだそうです。
ネクラな人にとって自分を認めてもらうための友人は
自分が自分であるために何がなんでも必要なんでしょうが、
自分で自分をいいと認められるネアカな人にとっては
特に居なくてもいいのでしょうね。
そうした人達の中で真の友情は育つ
…足りないものを依存し合うのでなく、満ち足りた自立した同志の中でこそ
切磋琢磨するってことかなぁ…。
>>429 さんの言われるのは見方は違うけどその通りだと思う。
ふ、深い…
でも、でも…
友だちを必要としない人間って…
自己完結しちゃってるのとは違うのかな?
自分にはないものを求める気もちって
友情とは呼ばないのかな
それが友情とは呼ばない感情なら
その感情の名称はなんだろう?
あ、わかった
その言い方で言うと、
自己完結している人間どうしのあいだでこそ
その感情を友情と呼ぶわけか
自己完結(という言い方は語弊があるかもしれないけど)した人間どうしのあいだでこそ
友情が成立するというか
もっと言えば
自己完結した人間こそ友人を求める資格がある、ということ?かな?
変な時間に目がさめてしまった
やっぱりこの手のことはこんな時間のほうが考えがまとまる、かも。
んん…
これまで何十年間かで身につけてきたネクラを
一気に変えるのはできないと思う。
自分も過去は間違いなくネクラだった。
今は随分ネアカに近づいたと思うが、
それにはかなりの年月を要したように思う。
↓
「七つの習慣」
http://www.wink.ac/~ogaoga/hon1.html
上記は主体的に生きるってこと教えてくれた。
『子どものための哲学対話』の中では、
善と悪をきめるもの
根が明るくて上品な人が、自分の遊びのために
他人をひどいめにあわせるってことだって、
やっぱりあるんじゃないかな?
あまりないけど、でも絶対ないとは言えない。
上品な人は道徳的な善悪なんてたいして重視しないから、
結構平気で悪いとされていることができるからね。
逆に下品な人は、道徳的な善悪を重視しがちだな。
どうして?
自分の外側にしか、たよるものがないからさ。
それなら、上品な人は、全体ではないとしても、
あまり悪いことをしないというのはなぜなのさ?
たとえば、お父さんがきみに将棋を教えてくれたとするよ。
ところが、きみは将棋なんてちっとも面白くない。
そこでお父さんは、きみが将棋で勝てば、そのたびに
おこづかいをくれることにする。
きみは、お小遣い欲しさで将棋に強くなろうと努力するだろうね。
そうしているうちに、だんだん将棋そのものが楽しくなってくるんだ。
お小遣い欲しさで将棋をやっているときは、
インチキをしても勝ちたいと思うだろうね。
お父さんがトイレに行っているすきに駒を動かしちゃうとかね。
でも、将棋そのものが楽しくなってくると、
そんなことはしないくなうだろうな。
勝つという結果が大事なんじゃなくて、
勝とうとしながら将棋をするという過程事態が大事になってくるからね。
それが将棋が遊びになったってことなんだよ。
人生が遊びになるっていうのも、それと同じことさ。
ただ、人生は将棋のように規則だけでできているわけじゃないから、
その点が違うけどね。
でも達成される目標じゃなくて、課程そのものを
味わえるようになるって点では同じだな。
それが、人生が遊びである人があまり悪いことをしない理由だな。
…という記述があるんだけど、
過程を楽しめる色んなことがあるってことがネアカに通じるのかなって思う。
…あんまり答えになってないかなぁ…
ううん、言われていることよくわかった
「七つの習慣」私も読んでみます
433さん、また来るかな
来たら私からもちょこっとひとこと書きますね
(でもたいして言うほどのことじゃないから…)
ちなみに私はその定義ではネアカな部類かも。。。^^?
うん。「七つの習慣」はすっごくいい。
「家族~七つの習慣」も読みやすくていい。
弱い自分を話せないでいると、
弱い気持ちがどんどんたまって、
心の寂しい人になっていまう。
オレってこんなダメなヤツなんだって
話せる人の方が実は、強い。
完璧な奴より、
情けないけど、
自分を語る奴の方が、
一緒にいたいよな。
「自分ルール」でいこう ~のぶみ
433さん、来ませんね…
「七つの習慣」まだ途中です。
「家族~七つの習慣」のほうが読みやすそうなんだけど
WEBでは見られなさそうですね。
本屋さんで見てみるか、そうだ、図書館という手が。
図書館がいいぜよ。
図書館は私の書棚なり。
…知らない本ばっかあるけど。
来なくても見てるかもしれんぜよ。
言いたいこと、書いとこうよ。