- 検討スレ
- 住民スレ
- 物件概要
- 地図
- 価格スレ
- 価格表販売
- 見学記
別に自慢話じゃないよ。学生時代の思い出話だ。ゲーリー光永氏。一部の人の中では伝説化してるらしい。
彼はハワイの日系2世でボーズという音響機器メーカーの日本支社長だった。パンテーラの前はフェアレディZ」
にⅤ8を積み込んで立川ベースのゼロヨンに出場していた。この時すでに雨さんはサバンナのバンに13Bの
サイドポートなどのマシンでトライしていた。彼はZの改造に限界を感じてパンテーラの改造に着手する。
安いというレスがあったが当時でもフェラーリ、ランボは遅くて話にならない頑張っても250がいいところ
それも調子が良くての結果であった。速くする、すなわち改造するのはポルシェかパンテーラしかない。
ポルシェは当時、ショップとしては大御所が世田谷のアウトバーン、練馬、大泉のガルト、ここの中島氏は
かのゼロ戦で有名な中島飛行機の中島知久平の末裔だ。アウトバーンの社長、佐藤氏が率いるこの店より
はるかに正直だ。わが友、武田ポルシェは5台のポルシェをここでメンテしていた。富士のゼロヨンのときは
メカを引き連れて一度の大会で70万必要で改造も含めた支払いでは月額平均で200万アウトバーンに
支払っていた。当時ポルシェはすでに911ターボもあったがノンターボが改造の主流で2,7→2,8に
3→3,2に改造。前出のT中氏のポルシェは当時、世田谷のチェッカーモータースが輸入した73年型
ポルシェカレラRSライトウエイト2台の一台でもう一台は松田コレクションにおさめられている。
このままでも速いのだが彼は当時、GCレースで活躍していた三橋選手のドイツ本国のポルシェから
送られた3リッターのレーシングエンジンに目を付ける。このエンジンは準ワークスで300馬力
を超え、280キロの最高速をもたらす。当時、このエンジンに勝てる911は無かった。911ターボでも
問題外でのちに武田が3,5リッターの911で挑戦したが257キロ程度しか出なかった。
その後、T氏は湾岸で単独事故を起こし本人は無事だったもののエンジンは200メーターも遠くに飛んだと
事故の日に話してくれた。ノンターボで後にも先にもこれほど速いマシンは見たこともない。
当時はノーマルではレーシングサービスディノ切替氏のマセラティボーラが257キロ台で速かった。メラク
などは見かけ倒しでカムシンは速い。話を元に戻すと光永氏がパンテーラにカンナムを押し込んだ苦労は
有名な話だがABRの細木さんという元々マリーンのエンジンを手掛けた人の功績が日本では大きい。
アメリカンv8は4ボルト、6ボルトという種別、LS-6、LS-7ではノーマルで400馬力を
軽く超える。当時もアメ車のエンジンのチューニングをうたうところが多かったが殆んどは
キットの取り付け。ホーリーのキャブを大きくしたり、へダースを組み付けたりそれでは速くならない。
本国ではATでなくマニュアル車もありハーストなどのマニュアルミッションを組み込み
7リッターのトランザムにウエーバーのキャブをくみこんだのが後にトラストというエキゾーストの
メーカーの役員になった大川さんだ。彼も最初はコルベットに乗っていた。この薄いブルーのトランザムは
260キロのスピードを可能にする。ノーマルのパンテーラでは勝てない。パンテーラは加速重視のため
ローギヤードでせいぜい230くらいしか出ない。ノーマルノ911ターボですら250は楽々出た。
俺も2台のパンテーラに乗り継いだがそんなものだった。光永氏のパンテーラは72年型位のボロボロ
それがカルロ、ロッシが組んだカンナム級エンジン600馬力に近かったと思う。
雨の日の表参道で別れたのが最後だった。{お茶飲もうよ}と誘ったのだがニコニコしながら{かみさんが
待ってるから替えるよ}と軽く手を上げて明治通りのほうに消えた。その30分後位に目黒通りで
帰らぬ人になった。このくだりは福野礼一郎が書いているが彼は大ウソツキだ。光永氏は絶対に
隣に人は乗せない。また、彼の姿はどの場面でも見たことがない。すべて、聞き書きだと思う。
彼はその頃、我々の周辺には存在して無かった。
ちなみに仕事は建設会社の3代目、パーキング、賃貸ビルなどの賃貸業もやっています。
第3弾はまた。