ヨン様はいるの?
潰れてないですよ。
情弱ですね。
私的整理を倒産というか言わないかは人それぞれの感性。
少なくとも「勝ち組」ではないけどね。
ずいぶん古い記事だけど
http://allabout.co.jp/gm/gc/29425/
「コスモスイニシア」私的整理の“その後”2009年11月18日
そもそも枝川気になる人は、検討してないと思うけどね。
実際、枝川に住んでるっていう人のスレ読んでてもそれほど、問題なさそうだしね。
ン千万円を投下するには勇気がいるよね。。。
7年前に本当にあったことを今から話すぜ…
みんなもご存じのとおり、俺は田舎もんだ。妻は東京出身のアホ女。
結婚を機にマンションを購入、枝川のア〇アマークスを買ったんだよ。
その時は嫁の家族に反対されたんだが(理由はわからず?)、3LDKにしては安い価格設定で即買だった訳よ…
そこで半年程度で4件の怖い事件に遭遇した。
①ある朝会社に行こうとするとマンション近くのお好み焼き屋の前に警官がワンサカいる。場所的にはサンクスの裏あたりだ。一人の警官に聞いてみると、夜中に強盗がはいったとのことだ。まじかよ…。
②夜中にパトカーのサイレンでたたき起こされた。何事かとと思い、ドアを開け、通用口から外を眺めると、電柱に衝突したマーク2それを囲んでいるパトカー。あとで住民に聞くと、どうやら覚醒剤をやっていた連中が車を乗り捨てて、そこで逃げたらしい。最悪…
③更に、しばらくたって夜中パトカーのサイレンで目が覚めた。マンションの敷地内に警官が懐中電灯を光らして、駐車場の裏、車の下などを探っている。そしてマンションの1室、1室を警官が回っている。警官によれば、ノーヘル、無免許の学生がこの周辺に逃げ込んでいるとのことだ。ザ・ショック!
④日曜日のサザエさんを見ていると、ヘリコプターの音、船の音で前の運河が騒がしい。ベランダから見ていると、橋の上から、運動公園の上からサーチライトで運河を照らしている。どうやら、生きていない人が浮かんだらしい…ガクブル…
それから、俺は枝川の過去、現在を必死に調べ、ここの土地柄に気づいて、速攻売ったよ…。俺みたいな田舎モンの夫婦が喜んで、購入価格にマン百万か上乗せで買ってくれたよ。
それからお前ら…木場南スカイハイツの島に気をつけろ…
枝川事件(えだがわじけん)とは、1949年(昭和24年)4月6日から4月13日にかけて東京都江東区枝川で発生した事件である。
目次
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1 事件の発端
2 事件の概要
3 その後の顚末
4 参考文献
5 関連項目
事件の発端 [編集]
1948年12月2日、月島警察署は管内で発生した被害総額260万円にも及ぶ集団窃盗事件の容疑者2人を逮捕した。
取調べの結果、主犯が朝鮮人で今なお逃走中であることが判明、懸命の捜査が年が明けても続けられた。そして1949年4月6日に、主犯が東京都江東区枝川(朝鮮人地区として有名)に潜伏していることを突き止め、同日午後に捜査員3人が検挙に向かった。
事件の概要 [編集]
1949年4月6日午後6時頃、3人の捜査員は主犯を発見、逮捕しようとした。しかし主犯は別人を主張、周りの朝鮮人数人も捜査員を見ていたため、任意同行に切り替えた。そして、屋外に出ようとしたところ、主犯は捜査員を突き飛ばし、裸足のまま逃走した。
捜査員は拳銃を3発威嚇発砲して制止しようとしたが、逃走を続けたため、遂に主犯に向けて発砲した。そしてなんとか逮捕することができたが、主犯はその際に負傷した。
それを見ていた約40人の朝鮮人が「仲間を殺したやつは殺してしまえ」と捜査員2人に襲い掛かり、殴る蹴るの暴行を加え重軽傷を負わせた上に在日朝鮮人連盟の施設に連行した(後に2人とも脱出に成功する)。もう1人の捜査員は、事態の重大性を察知し、近くの民家の電話を借りて枝川地区を所轄する深川警察署と月島警察署に通報した。
まもなく深川警察署と月島警察署の応援部隊が在日朝鮮人連盟の枝川支部に急行したが、激しい抵抗にあい、警察側に負傷者を続出させたが、アメリカ軍憲兵隊が来ると急に態度を軟化させた。
その後の交渉で朝鮮人側は暴行犯人の引渡しを確約したが、4月8日になっても引き渡さず、逆に捜査員の処分を求める有様であった。
4月9日より、警察は枝川地区に架かる橋に検問所を設置、通行者全員に検問を開始した。それと並行して内偵調査を行った。その結果、警察官に暴行した容疑者が割り出されたため、4月13日に一斉捜査が行われ、容疑者5人が逮捕された。4月19日までに更に10人が逮捕された。
その後の顚末 [編集]
検察は、事件の関係者9人を公務執行妨害罪、傷害罪で起訴し、有罪判決が下り確定した。また、事件の発端である集団窃盗事件の主犯も懲役4年の判決が下った。
参考文献 [編集]
『警視庁史(第4)』(警視庁史編さん委員会編 1978年)
『日本の中の三十八度線―民団・朝総連の歴史と現実―』(李瑜煥 1980年)
関連項目 [編集]
コリア・タウン
枝川
歴史を理解した上で買えば良いと思う。
五輪理由に朝鮮人を排除/東京都が移転強制
約1200万人の人口を抱える東京。その一角に、いまだにトンネの雰囲気を残す場所がある。江東区枝川1丁目である。
1958年からここに住む尹太祚さん(84)に説明を受けながら、街を案内してもらう。東京朝鮮第2初級学校の裏に長屋のように家々が連なり、朝鮮名と日本
名の表札が入り交じった形で並ぶ。
戦後、同胞らに日用品などを提供するために作られた江東朝鮮人生活協同組合は街の四つ角に健在である。しかし、枝川の人々が「10畳」と呼んだ長屋跡には、戦後からそのままのバラックが多少は残っているものの、ほとんどが新しい家に変わっている。
もともとこの地域は、同胞たちが自然発生的に集まってできたわけではない。
「東京オリンピックの開催が決まり、外国人がたくさん来るということで、朝鮮人はここに追いやられたのです」と尹さんは語る。
事実、東京市(当時)によって、41年に枝川1丁目(当時は深川区枝川町)の一角に朝鮮人集合住宅が建てられたことが枝川トンネのルーツである。
◇ ◇
メモ 1936年7月にベルリンで行われた国際オリンピック委員会(IOC)総会では、40年に開かれる第21回五輪の開催地に東京が選ばれた。同時に万国博覧会開催も予定されていた。
江東区にある塩崎、浜園も会場や関連施設用地とされたため、そこにあった朝鮮人バラックの撤去問題がにわかに注目されることとなる。近くに労働紹介所や宿泊所などがあったことから、30年末にはバラックの住人は1000人を超えていたといわれる。住民は抵抗したが、市当局は沖合の埋め立て地である枝川に簡易住宅を建て、住民を強制的に移転させようとした。
戦争の拡大により、五輪、万博計画は38年に中止されたが、撤去計画は進み、枝川への移転が強行された。
◇ ◇
こうして1000人を超える人々の**がこつ然と出現する。
「生活環境は最悪であったようだ」と尹氏は語る。当時の枝川は埋め立てを終えたばかりで整備もされず、近くにはゴミ焼却場があり、悪臭とハエなどに悩まされた。排水施設も劣悪で、雨が降ればたびたび浸水した。
そのような所に住まわされながら、同胞らは家賃も払っていた。
「当時は10畳一間で15円、6畳一間で10円だったそうです」(尹さん)
◇ ◇
メモ 41年7月1日東京市発行の「東京市公報」第3444号によると、枝川の簡易住宅使用料は10畳で15円、6畳で10円、4畳半で8円であった。
東京大空襲でも焼失免れ/強制連行者には犠牲者も
枝川トンネの歴史を語るうえで避けては通れない出来事がある。東京大空襲だ。12万人の死傷者を出したこの空襲で江東地域は全滅したが、枝川トンネは奇跡的に焼失を免れた。住民たちが助け合って消火活動を行ったからだ。同胞同士助け合って生きるトンネの良さが発揮されたと言える。
この時、避難してきた多くの日本人被災者を、トンネの人々は温かく迎え、食事や衣類、住まいまで提供したと、当時の状況を知る同胞らは口をそろえる。
◇ ◇
メモ 1945年3月10日未明、アメリカ軍のB29爆撃機296機が東京に対する焼夷弾爆撃を行った。死者約10万人、焼失戸数約27万戸、下町を中心に29区、約4割が焦土と化した。
◇ ◇
東京大空襲では朝鮮人にも多くの犠牲者が出た。江東区にどれほどの朝鮮人が住んでいたかは定かではないが、強制連行されてきた人々も少なくなかったとされる。その一つが石川島造船所だ。現在、石川島播磨重工がある豊洲には第2、第3工場があり、その宿舎に朝鮮人が大勢収容されていた。
今回、枝川トンネの案内役を買って出てくれた尹太祚さん(84)も強制連行体験者だ。
1915年、慶尚北道の貧農の家で生まれた。15歳で父が死亡、母も間もなく亡くなった。25歳で当時の満州へ。そこで3年ほど暮らしたが、再び故郷に戻る。41年に募集事業で福岡県飯塚市の麻生炭坑に送られた。
過酷な労働条件のなかで、尹さんは42年6月のある日、岩に額をぶつける大けがをする。
「18時間以上も意識がなかったのです。気がついたら病院のベッドの上でした」
そんなことがあってから、尹さんは毎日のように逃げることばかり考えるようになる。
そして、とうとう脱走を決行する。同郷の友人に普通学校出身者で日本語の話せる人物がいた。彼と共に炭坑を飛び出した。
「無我夢中でした。昼は見つかると大変なので山に隠れ、夜歩くのです。しかし、お腹はすくし、山道はこわいし、無事逃げることができるのか不安で一杯でした」
◇ ◇
4日間歩いて、脱走に成功する。協和会手帳を新たに作り、知り合いを頼って山口へ。そこで祖国解放(45年8月15日)を迎え、結婚もした。さらに、島根に移り、土木事業を始める。そして、次男が生まれた頃に東京へ移った。東京の方が大きな工事がたくさんあると聞いたからだ。
こうして尹さんが枝川に移ってきたのは58年のことである。それからもう42年の歳月が過ぎてしまった。
同胞支えた江東朝鮮人生協/生活必需品を安く提供
東京朝鮮第2初級学校の裏手を3分ほど歩いた四つ角に、古い建物が残っている。江東朝鮮人生活協同組合(生協)である。長い間、風雨にさらされたため、看板の文字はほとんど読めないが、バラックの建物は、そこだけがタイムスリップした印象を与える。
操業の3年後からここで働く林末任さん(88)は、今も元気で店の前に立つ。尹太祚さん(84)と歩いていると、気軽に声をかけてきた。「昔はたくさん売れたけど、今はあまり買ってくれなくなったね」。「ここには肉屋があったのよ」と、林さんが店の前を指さすと、そこには立派な一軒屋が建っていた。
枝川トンネに住む同胞らは互いに助け合いながら生きてきた。トンネには生協のほかにも米の配給所、共同水道などもあった。現在、米の配給所は倉庫に、共同水道は公園になっている。
◇ ◇
メモ 在日朝鮮科学技術協会の調査報告「在日朝鮮人の生活実態」(1951年)によると、江東朝鮮人生活協同組合は47年末に設立された。主食品と青果物以外の生活必需品を、同胞らに安く提供するのが目的であった。50年末の価格は、洗濯石鹸1個26円(卸値24円)、油揚げ1枚5円(卸値4円)、マッチ1箱2円(卸値1.4円)などとなっている。
◇ ◇
尹さんの妻、歌子さん(77)は、当時を懐かしみこう語った。
「生協に行けば、靴や文房具、乾物などあらゆる物が安く手に入りました。もうけは度外視だったので、いつも赤字だったと思いますよ。あの頃は商売より、情が優先してましたね」
生活苦と求人難、帰国へ/日本人増え自然に共存
尹太祚さん(84)一家が枝川トンネにやってきた翌年の1959年12月、朝鮮への帰国第1船が新潟を出港した。
その後、60~62年にかけて、枝川からも多くの同胞が帰国していった。当時を知る人は、その数は100人ほどではなかったかと語る。
東京朝鮮第2初級学校の教室で、盛大な送別会が何度も開かれたのを尹さんは覚えている。「私も新潟まで7回見送りに行きました」。尹さんの2番目の娘も、朝鮮大学校在学中に帰国した。
帰国する同胞の中には、自分たちが住んでいた家を日本人に譲っていく者もいた。
「寒い場所に帰るので、布団1枚でもよけい準備していきたいのが人情でしょう」と尹さん。こうして、帰国船が盛んに行き来していた60年代前半を境に、枝川トンネにも日本人が多く住むようになる。尹さんによると、この頃から朝鮮人と日本人の割合が半々ぐらいになったという。
「帰国者が多かったのは生活が苦しく、日本ではなかなか仕事がみつからなかったからです」
こう尹さんが語るように、当時、トンネの同胞たちの生活はたいへん厳しいものだった。
◇ ◇
メモ 在日朝鮮科学技術協会の調査報告「在日朝鮮人の生活実態」(51年)は、50年末に枝川1丁目住民の生活実態を調査した内容を載せている。そこでは、「枝川1丁目の朝鮮人の職業は殆んど不安定な半失業状態にあり、しかもその上に世帯員が多いに拘らず有業人員がきわめて低いという2重の苦悩にあることが明らかになる」と結論づけている。
◇ ◇
枝川で生まれ育った在日2世の黄炳哲さん(45)は、朝鮮人だからと言って差別された覚えがまったくない。「逆に日本人の方が気を使っている部分があるのではないでしょうか」。それが枝川という街の特殊性でもあると、黄さんは語る。
東京市当局が朝鮮人を1ヵ所に隔離したことから作られた枝川トンネには、当初、朝鮮人しか住んでいなかった。その後、東京大空襲で避難してきた日本人が住み着き、60年代、帰国者の増加に伴い日本人の数も激増した。
こうした歴史的経緯から、「枝川の責任者は朝鮮人だという認識」(尹さん)が住人の間に自然と身についている。
現在、東京都との間で土地の払い下げが持ち上がっているが、ここで中心的役割を果たしているのも朝鮮人たちだ。そんなことから、日本人の住人に相談を持ちかけられることも多い。
「自然な形で共存している」(黄さん)
誇るべき学校の存在/次世代に残したい言葉と伝統
東京朝鮮第2初級学校は枝川トンネを背にして建っている。ここに住む同胞たちに支えられていることを象徴しているかのようだ。
学校の創立は、祖国解放(1945年8月15日)から約半年後の46年1月15日。枝川をはじめ各地にあった「国語講習所」を母体に「東京朝連学院」として産声をあげる。当時は「隣保館」の中に開設されていた。
初級部第1期卒業生の洪漢伊さん(65)も、96年5月14日付の本紙インタビューで、「解放後すぐ、隣保館で始まった国語講習所に通った」と語っている。
◇ ◇
メモ 「隣保館」とは、東京都協和会が枝川の朝鮮人**を徹底的に皇民化すべく、住宅のそばに建てたもの。**の住人に精神訓話を施し、女性たちに日本式の礼法や裁縫を教えた。保育園を設けて幼年期から皇民精神を植えつけようともした。
◇ ◇
48年5月、名称を「東京朝連第2小学校」に改める。東京都立学校に強制移管させられた時期を経て、55年4月から東京朝鮮第2初級学校になった。
尹太祚さん(84)によると、多くの同胞が帰国していった60年代初め頃から、学校を建て直す話が持ち上がり始めたという。それまで校舎として使われていた「隣保館」が老朽化し、雨が降れば床が水浸しになるなど授業どころではなくなっていたからだ。
「設計以外の作業は私たちの手で行いました。みな仕事をもっているので、夕方や休みの日に集まって作業しました。もちろん、みな手弁当でした」
尹さんたちをかきたてた物はただ1つだ。子供たちが日本に住みながらも母国の歴史や言葉を忘れないようにとの願いである。こうして64年2月、同胞らの手になる新校舎が完成した。
そんな尹さんだからこそ、今、同胞たちの間で朝鮮語があまり話されなくなったことには一抹の寂しさを感じざるを得ない。
「時代が変わったから仕方がないと言えばそれまでですが、やはり民族の伝統、言葉は守っていくべきではないでしょうか」
これには在日2世の黄炳哲さん(45)も同感だ。
「異国の地で学校を作り、言葉を教えているのは誇るべきことです。最近は地域で行う祖国解放記念の夜会などに南朝鮮から来た人々も顔を出すことがありますが、彼らが異口同音に称えるのは朝鮮学校の存在です」。3世、4世の代になっても言葉が守られていることに、同じ民族として誇りを感じているようだ、という。
「1世に育てられた私たちが子供たちに何を残せるのか。そのためにはやはり、教育が大切ではないでしょうか」(文聖姫記者)
[朝鮮新報 99/11/1、3、5、8、10]
http://www1.korea-np.co.jp/douhou-hiroba/tonne99/04-edagawa.htm
理解して、納得して買えば良い。
http://blog.goo.ne.jp/saypeaceproject/e/f6a6ada7d4e29ad551725c8bd7ecae...
枝川・在日コリアンの歴史①~戦前から民族教育の再開~
2011-05-26 | 歴史
東京都江東区の枝川地区には在日コリアンの人々が多く生活しています。これは、戦前の日本の植民地政策と大きくかかわりがあります。当地区の歴史について紹介していきます。
(枝川**の成立)
1936年に次回のオリンピック候補地が東京に決定しました。また、1940年は「皇紀2600年」とされ、万国博覧会を同時に開催することになりました。そのため、競技場や関連施設の予定地になっていた塩崎・浜園地区(現江東区)は当時、朝鮮人のバラックが立ち並んでいたのですが、これを一斉に撤去し移転させる計画がなされました。1938年に日中戦争の影響で、オリンピックの開催は中止になりましたが、当時の東京市は1941年に移転事業を開始し、移転先とした枝川地区に「簡易住宅」を建て、バラックに住んでいた朝鮮人に当地区への移住を強制しました。
当時の枝川地区は埋め立てをしただけの土地で、ゴミ捨て場として利用され、焼却場や消毒施設以外に何もない荒地でした。川に囲まれ、排水施設も十分でなく、雨によって何度も浸水する土地でした。また、建設された「簡易住宅」には玄関やトイレもなく、とても住宅とはいえない状態でした。そのような劣悪な環境のもとに、枝川**は建設されていきました。
(東京大空襲と枝川)
1945年3月10日未明の東京大空襲で、東京の下町一帯が焼け野原になりました。死者は10万人に及びました。枝川地区にも、多数の焼夷弾が投下されましたが、住民の連携による消火活動で消失を免れました。そのため、翌日から多数の日本人を含めた被災者が枝川に押し寄せましたが、住民は食料や住宅を彼らに提供しました。避難した人の中にはそのまま枝川地区に居住する人も現れ、朝鮮人だけでなく、日本人も枝川地区に生活し始めました。
(戦後の枝川地区)
日本が終戦を迎え、在日コリアンによる帰国運動や生活の権利獲得に向けた運動が始まり、その中心として、朝連(在日本朝鮮人連盟)が結成されました。枝川にも、その分会が設置され、運動の拠点となりました。そのため、枝川地区は行政による弾圧が行われました。
一方で、住民による街の建設が進みました。老朽化した「簡易住宅」の建て替えや台風での被害に対して、行政が何の対応もしなかったため、住民の手による街の再建が行われました。戦後、流入してきた日本人や民間企業と連携して、道路や水道などのインフラを整備し、国籍を超えての再建がなされました。
(民族学校の開始)
戦後、植民地支配によって朝鮮語を話せない朝鮮人の子供が増加していました。そのため、全国で朝鮮の文化やことばを学ぶ民族学校が建てられました。枝川にも「国語集会所」が建てられ民族教育が開始しました。費用を抑えるために、保護者や住民が労力を提供し建設にあたりました。
ところが、1949年に朝鮮語での教育を認めないとする「学校閉鎖令」が出され朝鮮学校は閉鎖されました。戦前に引き続き、再び弾圧が加えられました。その後、55年に「各種学校」と認可され、「東京朝鮮第二初級学校」として再開します。また、学校用地は、「簡易住宅」の場所であったため、所有権は都にあり、学校側は使用料を払わなければなりませんでしたが、歴史的事実を考慮し、低価格での賃貸契約がなされました。71年には、当時の美濃部亮吉知事のもと、歴史的経緯や学校財政の困難を考慮し、90年までの20年間の無償貸与、それ以降の随時契約を決定しました。国が弾圧的な姿勢をとるのに対して、地方自治体では、在日コリアンの権利を認めていく動きがみられました。
しかし、2003年に急きょ、石原知事の下、都は学校側が土地を「不法占有」しているとして提訴しました。これが注目を集めた「土地明渡し裁判」です。
*裁判については「枝川・在日コリアンの歴史2」に続きます。
No.458、No.460、No.461>あまりに長すぎて読む気にもなれないけど。
どんな街にも、暗い過去の歴史の1つや2つはあるんじゃないの?
あまりにくだらなくて、まったく気にしない。
いろいろ、枝川の歴史を教えて頂けるのはうれしいのですが、
そもそも、その当時を知っている方からのお話では無いので、参考程度というところですね。
そもそも、1931年とか1941年とか、その当時の方々は、まだ生きてらっしゃるのでしょうか?
恐らく、ネットで探して、それをコピペしただけのようですし、調査も何もされていらっしゃらないのでしょう。
その方々から、直接お話を伺う方が真実味があるような気がします。
子供のイジメの構造は大人の世界にある差別からくるのです。地域や人を蔑視した書き込みは絶対にいけません。やめましょう。
実際にマンションが建つ近くの有名な焼き肉店を営業の方から紹介されたのですが、
つい先日行ってきました。
とても美味しかったです。ハラミとタン塩おススメです。
先日、運河で魚釣りされている方を見かけました。
これまで、内陸に住んでいたのですが、豊洲の辺りは、公園も多く、
緑も多いと聞きます。これだけ都心に近く、自然が多いというのは、魅力的ですね。
でも、周辺に住んでいる方は、ほとんど日本人ですよね。
隣が皇居だったとしてもイヤだよ。
津波怖いし、津波来なくても液状化でインフラパーになるから。
液状化は、枝川はありませんでしたよ。
No.462>の意見は、かなり偏った意見に思えます。
No.465>に賛成です。
そもそも、全員がそのような考えがあろうはずもありませんし、
そうであれば、長く住み続けていないはずです。