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この掲示板でよく見るコメントですが、根拠あるんですか?
[スレ作成日時]2011-06-27 22:52:42
この掲示板でよく見るコメントですが、根拠あるんですか?
[スレ作成日時]2011-06-27 22:52:42
①年配の人の中に昔のゴミ処分場のイメージが残っている
②新しい街がゆえに昔からの近所付き合いができない。
③急に収入が増えた鼻持ちならない人が住むイメージがある。
今のイメージと違いますね、昭和のイメージ?
私もまじめに、ゴミの島のイメージです。
ごめんなさい。
http://www.afftis.or.jp/konchu/mushi/mushi46.htm:「夢の島のハエ騒動」
http://www.suginamigaku.org/content_disp.php?c=4500be0e60fc3:「東京ゴミ戦争」
廃棄・排出物の処理で生じた一連の事態は,東京都のゴミの大半が,一つの埋立地に,焼却されないで集積されたことに起因します.持ち込まれた厨芥などからは,ハエが発生し,対岸の住宅地へ大量に飛来しました.散布された殺虫剤には,抵抗性が発達し,防除が困難となり,感染症の発生も懸念されました.そのため,各々の区で,生ゴミなどの焼却が実施されるようになり,10余年の歳月を経て,問題は終息されました.この間,ある区での整備の遅れが,都民同士の対立と状況の悪化を招き,解決を延長させました.行政が,自治体に公平な役割分担を怠ったことも,その一因と言われています.
上述した事態の教訓は,二つあると考えています.ひとつには,殺虫剤に対する害虫の抵抗性発達,ふたつには,行政,自治体の役割分担のあり方です.前者は,前報でも述べていますので,この記事では,後者を協調したいと思います.
地方出身者は「夢の島・ハエ騒動」とか知らないから。
夢の島と東京ゴミ戦争((昭和40年)
昭和40年6月,東京の江東区南砂町一帯にハエの大群が押しよせ大騒動となった。南砂町の商店街にはハエが
群がり,ハエは民家の天井を黒く覆い,振り払っても顔にたかられ,夜も眠れない状態になった.この突然あら
われたハエの大群は海を隔てた「夢の島」から飛んできたのだった。
夢の島とは東京湾沖合に作られた東京のゴミ捨て場の名称である.当時は,東京都のゴミのほとんどがこの夢
の島に持ち込まれていた.ハエにとって餌は無尽蔵にあり,天敵がいないのだから増えないはずはない.このハ
エ騒動が起きるまでは,ハエの活動半径は発生地から40m以内というのが定説であった.しかしこの定説をあざ
笑うかのようにハエは海を越えて飛んできたのだった。住民たちは夢の島を「悪魔の島」と呼ぶようになった.
その当時は,魚屋の店先や食堂などにハエとり紙がヒラヒラとぶら下がっていた.ハエとり紙は黄色い**テ
ープで,普通の家庭にも見ることが出来た.江東区の家々はこのハエとり紙が1時間ぐらいでハエでいっぱいにな
り,小学校の給食の時間にはPTAがハエとりに駆り出されるようになった.このハエ騒動に対し伝染病の発生も心
配され,東京都清掃局,衛生局,江東区は共同でハエ撲滅対策本部を設け,本格的なハエの駆除に乗り出すこと
になった.佐藤栄作首相は「全力をあげてハエを撲滅するように」と厚生大臣に指示をだすほどであった.
昭和40年7月16日,タンクローリー5台分の重油が「夢の島」のゴミの山にかけられ,ハエの焼き払い作戦がお
こなわれた.また大量の有機リン系殺虫剤を何度も繰り返し散布し,ハエの絶滅を図った。しかし夢の島のハエ
はしぶとかった.殺虫剤に対して通常の2千倍にも達する驚異的な薬剤抵抗力を獲得し,ハエは不死身となって
増え続けた。
東京都は薬剤抵抗性ハエをなくすため,複数の殺虫剤を1年ごとに変更する作戦をとった.このような方法に
より薬剤抵抗性のハエの発生をおさえ,ゴミの表面を土で覆うサンドイッチ方式を採用してハエの撲滅作戦は次
第に成果を上げていった.
東京都江東区の夢の島には東京23区の7割,毎日9千トンのゴミが持ち込まれていた。そのためにハエの大量発
生だけでなく,江東区の一部では悪臭が漂い,自然発火による火災が発生し,煙と灰が江東区民頭上を流れ生活
をおびやかた。これらの被害を受けた江東区民は,他の区から持ち込まれていたゴミを断固拒否する声明をだし
た.「江東区だけがゴミ公害の吹き溜まりにされるのは御免」と声明を出したのである.江東区は美濃部都知
事に「各区はごみの自区内処理,処理と迷惑の公平な負担」この2原則を求め,各区のゴミは各区で処分するこ
とを要請した.そしてほとんどの区では江東区の要請を受け区内にゴミ処理場を建設する計画を進めることにな
った.ところが夢の島から約20 km離れた杉並区だけはゴミ処理場の建設計画を進めずにいた.昭和48年,ここ
に東京ゴミ戦争がはじまることになる.東京ゴミ戦争という物騒な言葉がマスコミをにぎわした.
昭和48年5月18日,東京都は杉並区でミ処理場建設の説明会を開いたが,建設反対派の杉並区民が乱入し説明
会を中断させる事件がおきた。これを「杉並の住民エゴ」と怒った江東区議会は全会一致で杉並区からのゴミの
受け入れを拒否することを決定した.そしてヘルメット,防災服姿で身を固めた区長、区議、町会役員ら180人
が道路に並び,杉並区からのゴミ運搬車の立ち入りを実力で阻止した。このため5月22日から杉並区ではゴミの
回収が中止されることになった.杉並区はゴミを出さないように各家庭に通知したが,杉並区の住民は路上に
ゴミを捨て,5月の陽気で生ゴミは悪臭をはなった.杉並区は消毒車出動させ,路上のゴミに消毒液をまくこと
になった.これでは「杉並エゴ」といわれても仕方がなかった.
江東区と杉並区はゴミ処理をめぐって対立したが,孤立した杉並区は区長がゴミ処理場建設を約束して収集
がついた.杉並区ではゴミの回収が再開されたが3日間放置された2000トンのゴミを処理するのに10日以上かか
ったほどであった.
この東京ゴミ戦争から9年後の昭和57年,杉並区高井戸に日本最大級のゴミ処理施設が完成した。そして杉並
区の可燃ゴミのすべてがこの処理場で処理されるようになった.しかし杉並区内のゴミの量はさらに増え、現
在では杉並区から出たゴミの一部は隣接する世田谷区の処理場に持ち込まれている。東京ゴミ戦争を境として
ゴミ処理は埋め立て地から焼却所に代わったが,焼却にも限界が生じている.資源の有効利用,リサイクルシ
ステムの確立がこれからの課題とされている.
現在の夢の島は広大な公園として整備されている.あの当時の面影はまったく感じられない.「夢の島」と
いう名前はゴミ捨て場の悪いイメージを隠すために意図的に命名されたと思っている人が多い.だが夢の島の
名称は,戦前からの地名で,都民のゴミを埋め立て,将来はハワイに匹敵する保養地にすることが計画されて
いたのである.現在,夢の島はそのイメージに近い公園になっている.
ところで東京都心部の山といえば港区の愛宕山(26m),上野のお山(23m)がよく知られる.しかし都心部
で最も高い山は東京湾内の夢の島で,埋め立て地は文字通り「チリが積もった標高30mの山」となっている.
なーげー
はぁーんぱねー
分科会 屎尿・下水研究会
講師は元東京都清掃研究所所長(現廃棄物政策フォーラム理事)の根本康雄氏にお願いした。演題は「東京におけるごみの埋立て」である。東京で発生する「ごみ」の最終的な行き先である、海面域や内陸部の「ごみ埋立て地」の歴史的な変遷について、豊富な写真を駆使して述べていただいた。その骨子は以下のとおりである。
① ごみの最終処分場の目的、工法(投棄、衛生)、構造(嫌気的衛生、準好気性、好気性)、方式(サンドイッチ、セル)について、その概要を解説した。
② 8号地(潮見)や14号地(夢の島)は、投棄埋立である。
③ サンドイッチ工法は、ごみを埋め立てた上に覆土し、その上にまたごみを埋立てる方式である。この方式が本格的に実施されるようになったのは、夢の島でのハエ騒動(昭和40年)以降のことである。
④ セル工法は、中央防波堤外側の埋立て以後に採用された。
⑤ 15号地(現在の若洲ゴルフ場)の第2期工事(昭和41年)の「ごみ埋立て地」造成工事に関わって以来25年間、埋立て地の仕事(工事、設計、計画)に携わってきた。粗大ごみの破砕処理施設や分別ごみ処理施設の計画にも関わった。
⑥ 15号地へのごみ搬入は最初、船で楊陸していたが、42年4月に若洲橋ができ陸送が可能になった。汚水対策は準遮水(目視で汚水が護岸から流出していなければ良いという意味)であった。浸出水を圧送管で中央防波堤内側処分場にできた水処理施設に送るようになったのは、ずっと後になってからである。当時は、二重鋼矢板の護岸を造ってその上に車を走らせるというような構造が、画期的な施設であるといわれた時代である。
⑦ 昭和45年に廃掃法ができ51年に改正され、これを受け53年に「廃棄物最終処分場指針」が刊行され、ごみ埋立て関係の法整備が進んだ。最終処分場の建設に厚生省の補助金が出るようになったのは、昭和51年頃である。また昭和51年、廃棄物処理施設も港湾施設の一つとして認められた。
⑧ 昭和63年に「廃棄物最終処分指針」の全面改訂が行われ、今までの実績や経験を基に、特に、遮水や汚水処理施設の項が充実した。
⑨ 中央防波堤内側の埋立て地に設けた汚水処理施設は、生物処理(回転円盤法)、薬品凝集沈殿処理や物理吸着処理を組合わせたものである。処理水は下水道に排水している。
⑩ 多摩地区の各都市は、内陸部でのごみ埋立地をそれぞれ独自に確保し処分していたが、昭和55年に東京都三多摩地域廃棄物広域処分組合を設立して、谷戸沢処分場(昭和59年開設)、二ツ塚処分場(平成10年開設)やエコセメント施設などを造り、共同利用している。
第3回
演題は「農村改善運動とトイレ・上下水道」、講師は小峰園子氏(葛飾区郷土と天文の博物館)である。大正から昭和前期にかけての農村における「生活改善運動」に焦点を当て、その中でトイレや上下水道に関する文化がどのような変化をみせていったかについて話していただいた。加えて、飲料水の天秤棒による運搬や非衛生的な農業用水利用を打開するため実施された、近代的な簡易水道造りを扱ったドキュメント映画「生活と水」(羽仁進監督)を鑑賞した。この映画は今となっては、当時の農村生活の赤裸々な生活実態を知るうえでたいへん貴重な資料となっている。以前、【屎尿・下水研究会の第53回例会】で行った同様のタイトルの講話の市民版である。詳細は「下水文化研究 第21号」の57~59頁を参照のこと。
20年前に天王洲アイルの劇場に親に連れて行って貰ったけど。
湾岸は綺麗なイメージだったけど。
40代とか50代の人にはそういうイメージあるのかな?