このスレを見てスラムの話が出ていたのでマンション建設地がどうだったか気になり調べてみた。まず、江戸時代に遡るが「復元・江戸情報地図(染井王子巣鴨辺絵図出典)」によるとこの辺は前野村という名でマンション建設予定地は畑となっている。旧中山道沿いは当時板橋宿という宿場町として栄え、南から平尾宿、中宿、上宿と分類された。ちなみにこの地図によれば現在は石神井川より北側から環七沿いのベローチェやデイリーヤマザキがある区画までを「上宿」と分類している。スラムが形成された岩の坂であるが旧中山道の環七より南側が緩やかな坂となっているのが通行すると確認でき、現在では岩の坂の呼称は使われていないがこの坂を中心にスラムが形成されたとの事。「板橋区史」によれば、岩の坂スラムの範囲は「上宿」と呼ばれた岩の坂を中心とした板橋十丁目及び志村清水町の一部との記述がある。また「岩の坂をのぼる荷車の後押しを手伝って賃銭を得ていた(立ちん坊)がたむろしていた。この周辺には宿場を廃止したあと下級生活者が棟割長屋、木賃宿などで生活していた」との記述がある。では実際この棟割長屋、木賃宿がマンション建設地にまで及んでいたかどうか。「板橋区史」によると「上宿」は現在の「大黒屋」より南側の1階にラーメン屋があるマンションまでとなっている。(第2章旧宿場町の生活P245)スラムがあった当時の昭和10年には現在デイリーヤマザキがある建物より順に北へ「焼芋屋」「えびす屋(簡易宿泊所)」「大黒屋(簡易宿泊所)」「提灯屋(提灯販売)」「赤行燈(簡易宿泊所)「信濃庵(そばや)」となっている。ここで記述されている簡易宿泊所がいわゆる棟割長屋、木賃宿などで貧しい人々が生活していたとみられる。しかし記述は現在の大黒屋より環七側が「上宿」とされ、マンション建設予定地に関する記述は一切なかった。そこで、「明治前期・昭和前期東京都市地図2・北部」(柏書房)で確認してみると明治13年及び昭和7年当時、地図上ではマンション建設予定地はなにも記されていない為、原っぱか畑であったと推察される。また昭和12年(このころには新中山道が開通し環七予定地も十条から続く道へ続く道路になっている)の地図においても建設予定地には建造物がぽつぽつと点在するのみでその規模からこれらが長屋や木賃宿があったとは考えにくい。小板橋二郎著による「ふるさとはスラムなりき」においても戦火が激しくなるに連れてスラムが岩の坂周辺から石神井川一帯へ移っていき(事実、小板橋氏も住居の長屋が焼かれ岩の坂から石神井川方面へ居を移したと記述している:「スラムは移動する」より)、その後もこのマンション建設地に長屋や木賃宿ができたとは考えにくい。
まとめ、
・スラムを貧困層が居住していた場所と定義すればマンション建設予定地に貧困層が居住していた証拠はなく厳密には予定地 とスラムを分けて考えても差し支えない。
・スラムが形成されたの1920年頃から戦争で焼け落ちる1945年頃までの間である。しかも50年以上過去の話。
・ただし、スラムの端(長屋・木賃宿)が建設予定地の近くまで及んでいたのも事実である。それが気になるのであれば購入 しなければ良い。