リゾートマンション・リゾートホテル・別荘掲示板「越後湯沢・苗場のリゾートマンションは買ってはいけない?」についてご紹介しています。
  1. マンション
  2. 賃貸、家具、不要品譲渡、その他掲示板
  3. リゾートマンション・リゾートホテル・別荘掲示板
  4. 越後湯沢・苗場のリゾートマンションは買ってはいけない?
  • 掲示板
777 [更新日時] 2024-11-15 16:44:08

越後湯沢・苗場のリゾートマンションは買ってはいけない?



藻谷 湯沢のいくつかのマンションでは、水回りが老朽化しているために、蛇口から出る水道水も飲用には堪えず、住民はペットボトルの水を買っていると聞きます。



「空き家大国ニッポン」のゾッとする近未来?首都圏でさえこの惨状… 無計画な開発の果てに
2017.03.10 藻谷 浩介,野澤 千絵 現代ビジネス
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/51118


ベストセラー『里山資本主義』の著者・藻谷浩介さんと、『老いる家 崩れる街』の著者・野澤千絵さんのおふたりが明かす日本の惨状――。


藻谷 浩介(もたに・こうすけ)1964年、山口県生まれ。日本総合研究所主席研究員。主な著書に『デフレの正体』『里山資本主義』『しなやかな日本列島のつくりかた』『和の国富論』などがある

野澤 千絵(のざわ・ちえ)兵庫県生まれ。東洋大学理工学部建築学科教授。著書『老いる家 崩れる街――住宅過剰社会の末路』(講談社現代新書)が話題を呼び、累計5万5000部を超えている




藻谷 戦後の日本の住宅業界は、「供給を増やせば市場価値も上がる」という、市場経済原理とは真逆の、謎の信念によって支えられてきたのです。原理的には、供給を増やせば値段は下がるのが当然なのですが。

今から20年以上も前、日本開発銀行で地域振興の調査をしていた時分に、大阪の街づくりコンサルタントと話をしていて、初めてそのことに気づきました。

私が「容積率を上げると供給が過剰になってテナントの家賃も下がるし、地価も下落しますから、やめたほうがいいですよね」と言ったら、「はぁ? 容積率を上げないと地価が上がらないだろうが!」と激怒されたんです。

私は「供給を増やすと値段が上がる」と大真面目な顔で言う人がいることにひどく驚いたんですが、それ以来出会った不動産業界、住宅業界の人はみな同じ考えだったんです。



野澤 たしかに、同じ広さの土地を開発する場合、容積率を上げればより多くの住戸が作れますから、その土地の価値は上がりますが……。




藻谷 これは典型的な「合成の誤謬」です。その土地だけみれば確かにその時には価値は上がるのですが、そうなると隣の土地でも同じことを始めます。つまり、エリア全体で見ればあっという間に供給過剰になって地価が下がるんです。

湯沢町(新潟県)が典型ですね。都市計画もないスキー場エリアで、バブルの頃に林立した超高層のリゾートマンションの部屋が、今は超格安で売りに出ています。




野澤 そうですね。あのリゾートマンションはいまや100万円でも売れない状態でしょう。結局、持ち主にしてみれば資産価値は暴落しても、古くなった家電製品のようにどこかに廃棄することもできない。

所有権がある以上、固定資産税や管理費・修繕積立金という支出だけは負担しなければならない。ものすごい重荷になっているはずです。



藻谷 湯沢のいくつかのマンションでは、水回りが老朽化しているために、蛇口から出る水道水も飲用には堪えず、住民はペットボトルの水を買っていると聞きます。




野澤 えーっ!




住宅業界の人が買わない物件


藻谷 実際には開発業者はそんな超高層住宅の末路は知っているのです。でも「買う奴がいるのだから、今売れればいい」という「売り逃げの論理」で突っ走っているんです。

東京都心に急増している分譲タワーマンションの多くは、近い将来、高齢者が詰まった「新・山村」になって、その処理は大きな社会問題になります。その頃になって製造物責任を問われるのは、売り逃げを図った不動産会社ですよ。




野澤 だから、建築や住宅業界の人はほとんど、タワーマンションを買ってないですよね。




藻谷 そう、住宅業界の人は超高層物件を買わない。私も家は買っていない。首都圏の家を買うリスクは大きすぎます。




野澤 タワーマンションは修繕コストも膨大になります。大規模修繕や建て替えの際に住民の意見をまとめなくてはならないけれど、何百世帯もの合意を得るのは非常に難しい。




藻谷 消防車の梯子が届かないような高さの建物の修繕はかなり技術的にハードルが高い。湯沢町のように、十分な修繕ができない「立ち腐れ超高層」が激増するでしょう。そして、劣悪な状態になったマンションであっても、居住者は税金や管理費・修繕積立金を負担し続けなければならない……。




野澤 戸建てもタワーマンションも大量に余る時代になってきているのは予想ではなく現実です。こうなった以上、今すでにある空き家を中古住宅として流通できる建物にして売買・賃貸したり、古い空き家は解体・除却することが一般化するような仕組みを整えつつ、都市計画を厳格にし、規制を強化すべきだと思います。




藻谷 高さ制限の厳格な国立市東京都)では、高層マンションを建設した業者に、住民が訴訟を起こし、一審では20メートルを超える部分の撤去を命じた。地元の不動産業者が「不当な判決だ。これで国立の地価は暴落する」と言っていましたが、現実には国立の地価は今でも上がっている。




野澤 「地区計画」という都市計画制度による規制で、実質的に住宅の供給が一定程度制限されているからですね。住宅過剰時代には、自分の家があるまち自体の資産価値を上げるよう、ひとりひとりが行政に働きかけることが、ますます必要となってくるのでしょう。
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/51118?page=4

[スレ作成日時]2017-05-27 20:04:01

[PR] 周辺の物件
バウス氷川台
ユニハイム小岩プロジェクト

スレの更新情報を受け取る

更新通知サービスMail-Wind

越後湯沢・苗場のリゾートマンションは買ってはいけない?

  1. 10 777



    2012.02.09 越後湯沢 ~川端康成の「雪国」~ (その1)
    http://hobbyland.sakura.ne.jp/Kacho/tabi_yukeba/2012/2012_0209_Yuzawa/...



    越後の雪景色を眺めて参りましたヽ(・∀・)ノ



    北陸の雪が結構な積もり具合になっているそうなので、今年も越後湯沢に出かけてみた。

    季節は厳冬期…雪の世界を味わうには丁度よい頃合である。ただし毎度毎度 「雪だ~ヤッホー」 で終わってしまうのもアレなので、今回は川端康成の 「雪国」 の雰囲気を味わいつつ、ゆるゆると巡ってみることとしたい。

    今回のテーマがなぜ川端康成なのか…ということについては、実はたいした意味はない。たまたま湯沢に関連した有名人でもあるし、雪に絡んだ小説を書いているのでまあ取り上げてみようという程度の動機である。…といっても凡百の作家と違って 「日本人初のノーベル文学賞受賞」 という看板を背負っているだけに、その存在感には一定の重みと権威がある。日本人であれば教養のひとつとして知っておくべき作家といえるだろう。




    …しかしながら筆者はこの作家の作品をちゃんと読んだことが実はなかったのである(笑 ^^;) 大慌てで書店で文庫本を買い込み、斜め読みで内容をチェックしたのは内緒だw

    ちなみに筆者の購入した新潮文庫版は既に145刷。戦前の作品なのにいまだに現役で売れているというのはちょっと驚きで、新潮文庫の売れ行きランキングでもなんと歴代7位だそうである。…いったいどんな人が買っているのだろう。

    ※ちなみに 「雪国」 は有名な割に実際には読まれていない小説ランキング(なんだそりゃ)の上位にも安定して入っているらしい。往年の岸恵子目当てに映画だけ見て済ませた人も多いのではないかと思うのだが、当時筆者はまだ生まれていないので残念ながら映画の記憶というのはない。…かすかに覚えているのは、子供の頃に見たTV番組で川端康成の特集を放送していて、そこに雪の中を走る蒸気機関車のビデオ映像が流れていたことくらいである。



    ■越後湯沢への道


    さてそんな訳で熊谷の秘密基地を発進し、花園ICから関越道に乗って関東平野をゆるゆると北上していく。

    この日は冬の関東らしい良く晴れたカラカラの天候具合であった。日本海でたっぷりと水分を補給したシベリアからの季節風は、北陸の山岳地帯で大量の雪を降らせて水分を吐き出し空っ風となって関東平野に吹き降ろしてくる。

    その境界線となっているのが向こうに見える谷川連峰である。標高2000mに満たない山々の連なりだが、これほどまでに劇的な気候区分を現出している山列というのも珍しく、律令の草創期からここは地域の境界区分として中央に認識されていた。即(すなわ)ち上野国、越後国の国境である。


    かつてはこの山脈を越えるほとんど唯一の道(※)が、三国峠(みくにとうげ)を通っていた。現在では国道17号線となっている三国街道(みくにかいどう)である。急峻な谷川連峰のピークを避けて少しでも低くなだらかなルートを通るように作られた道で、その起源がいつごろまで遡るのかは定かではないが、万葉集(巻七、第一三六七首)に




    三国山こずえに棲まふ

    むささびの鳥待つ如く

    我待ち痩せむ



    と峠のある山が歌われていることから奈良時代には既に人の往来があったものと思われる。

    ただし "街道" とはいっても実質的には登山道に毛の生えたような時代が長く続き、雪が降れば交通は途絶した。大量の物資を運べるほどの道幅もなく、道路整備が進んでクルマが峠を越えられるようになったのは時代が大幅に下って、なんと昭和も30年代になってからのことである。それまでの間、特に冬季の長期間の途絶は、長い歴史を通じて上州と越後の情緒の違いを醸成してきた。今筆者が湯沢に向かっているのもその情緒の残照のようなものを求めている訳で、この地方における雪の風情というのは今でも上質の吟醸酒の趣をもって我々を引き寄せている。

    その一方で、近代になって造られた鉄道および高速道路は、最短ルートで谷川岳をぶち抜いて水上(みなかみ)から湯沢に抜けるコースをとっている。こちらは情緒だの歴史だのといった甘っちょろいものとは無関係に、費用対効果を算盤勘定して最も投資効果の高くなるように造られた。おかげで在来線、新幹線、高速道路がほとんど同じコースを通って谷川岳の山腹にトンネルを穿(うが)つことになり、人家の稀な山中で交通インフラの奇妙な密集状態を生じている。



    これらの新・交通インフラの開通年代は、国鉄(当時)の上越線が昭和6年(1931)、上越新幹線が昭和57年(1982)、関越自動車道が昭和60年(1985)であった。国道17号線が自動車で通れるようになったのは昭和32年(1957)だが、当初は未舗装の隘路であり、苗場で開業したばかりのスキー場に群馬県側からクルマで乗り込むのでなければ、上越線で湯沢に抜けてそこからバスに乗ったほうがよほど快適に移動することができた。

    ※谷川連峰から福島県寄りの清水峠を通る古道もあったが、湯沢を経由しないルートなのでここでは言及しない。

    ※三国峠を車が通れるようになった最大の要因は、急峻な峠の頂上部をトンネルでショートカットしたことである。




    川端康成が湯沢にやってきたのは昭和9年のことである。上越線の開通からわずか3年、まだまだ古い情緒を残していた湯沢の**に、当時最新の交通機関(電気機関車に牽引された旅客列車)でこの小説家はやってきた。

    …が、残念ながらその季節は厳冬期ではなく6月だったそうで、小説の情緒とは微妙に一致しない。この初回の訪問で川端は鄙びた湯沢の風景を気に入り、その後何度も通うようになっていくのである。彼が雪を見たのはその年の3回目の訪問の時であった。



    当初川端康成は群馬県側の水上温泉を訪れていたようで、宿の人に薦められてトンネルを越えた湯沢までやってきたらしい。「水上よりよほど鄙びていた」 と後に川端は好意的に述べているが、その後の展開をみれば水上温泉にとっては逃がした魚はピラルクー並みに巨大だったともいえるかもしれず、なんとも惜しいことをしたものである。

    とはいえ水上温泉はほぼ同じ頃に太宰治や北原白秋、与謝野晶子、若山牧水などが逗留していて、谷川岳の関東側の山麓に開けた利便性から湯治場としては湯沢よりよほど発展していた。川端康成のノーベル賞のインパクトがなければ、関連する作家数の多い水上温泉のほうがよほど観光資源には恵まれているのである。


    さて狭い山間の盆地でもあり、湯沢ICから降りるともう温泉街なのだが、今回はひとまず温泉はスルーして谷川岳に向かって逆走してみることにした。

    どうしてそんな奇行(^^;)をするのかと言えば、せっかくの雪の季節なのだからミーハー路線全開であの 「トンネル」 を見てみたいと思ったのである。もちろん小説 「雪国」 の冒頭に出てくるアレのことだ。

    それは土樽(つちたる)の最奥部にある。



    ■土樽へ


    そんな訳で、湯沢**から離れて谷川岳側の土樽を目指すことにする。



    土樽は狭い湯沢盆地にあって、谷川岳を背にした袋小路のような地勢にある小**である。その概要を湯沢側から俯瞰するとこの↑ようになる。

    鉄道や高速道路が開通する以前の土樽は、この地域の主要幹線道路=旧三国街道からは外れた僻地であった。新潟から六日町を経由して湯沢までやってきた旧三国街道は、湯沢をすぎると三国峠を目指して隣の三俣盆地のほうに行ってしまう。山を越えて関東側に抜ける主要道は他にはなく、おかげでこの地区は人の往来からは外れて、近世まで辺鄙な山間**のまま昔の風情を保った。

    ここが文明の恩恵に浴したのは(…などと書くと現地の人に叱られそうだけれども ^^;)、上越線が開通して清水トンネルから抜けてきた列車のために信号所が置かれたあたりからではないだろうか。信号所は後に土樽駅となり、越後国最奥部の駅として今も存続している。小説 「雪国」 の雰囲気を味わうのであれば、新幹線の巨大な駅を抱えて近代リゾートホテルの林立してしまった湯沢温泉街よりも、この土樽駅の周辺を散策したほうが良いという声は多い。



    さて土樽は番地としてみると湯沢温泉街の数倍の面積を誇る非常に広い地区である。民家はまばらで、農村ではあるのだが樹林帯が多く、耕地化されている面積はそれほど広くない。湯沢に隣接する岩原スキー場のあたりは水田が広がっているようだが、越後中里のあたりからはそれもあやしくなってくる。


    実のところ筆者はこの地区の10mメッシュマップを最初に見たとき、狭い山間地ということもありもっと限界近くまで開墾されているのではないかと想像していた。


    ところが現地に入ってみると案外そうでもなさそうで、まるで昔話にでも出てきそうな風景が続いているのである。


    やがて湯沢温泉街から7kmほど谷川岳に寄ったあたりで土樽**に至る。現在 「土樽」 の地名で呼ばれているエリアは合併前の旧土樽村に相当し、大雑把にいって10km四方ほどの広さがある。湯沢に近い順に 原、荻原、中里、古野、松川 と小**が点在し、一番奥まったところがこの土樽**となる。

    近代的市町村制が施行される以前はそれぞれの**が独立した村であった筈で、ここより奥に村がないところをみると、人が日常生活を営むことの出来るぎりぎりの環境がこのあたりまでだったのだろう。


    今回とりあえずのランドマークとして目指している土樽駅は、その最後の**からさらに1.6kmほど奥に入ったところにある。清水トンネルはさらに500mほど奥だ。

    どうしてこんな民家から離れたところに駅を作ったのかというと、さきにも述べたように最初は信号所として作られた施設をそのまま転用したためで、つまり客の都合というのはあまり考えられていない。さらに言えばここは長さ10kmもある清水トンネルを抜けるために開通当初から蒸気機関車ではなく電気機関車が運用されていて、そのための変電所が併設されていた。鉄道としてはこちらのほうがよほど重要で、やはり客の都合は二の次といえる。

    かつては東京方面から鉄道でやってくると、トンネルを抜けた列車はまずこの信号所で一旦停車した。上越線は開通当初は単線で、ここを使って長いトンネルの前後で上り/下り列車の行き違いを行ったのである。上越線は客車よりも貨物列車の往来が多く、行き違いの列車待ちは頻繁にあったらしい。

    なお群馬県側では現在の土合駅が開業当時はやはり信号所であり、同等の役割を果たしていた。ただしあちらには雪はほとんどなく、小説の舞台装置として見栄えがするのはやはり土樽の方だろう。

    ※ところで小説では描写が抜け落ちているけれども、信号所を過ぎると奇妙なループを描く松川トンネルを経て列車は湯沢に向かうことになる。これは昭和初期の機関車の登坂力に合わせ、なるべくゆるやかなスロープで標高差のある谷間の地形を通り抜けようとした涙ぐましい努力の跡である。…が、この偉大なる鉄道工学の成果も小説家の目にはあまり好印象としては残らなかったようで、すっかりスルーされているのは不憫としか言いようが無い(^^;)


    さてそんな土樽駅と清水トンネルを目指してさらに奥に進んでみるのだが…最後の**を過ぎると除雪もかなりテキトーになってクルマ一台が通るのがやっとという状況になった。


    途中で分岐点に差し掛かり、近接する駅とトンネルとどちらを優先するか…という割とどうでもよい順位について5秒ほど逡巡した後にまずトンネルのほうに向かってみた。…が、清水トンネルのすぐ脇まで伸びている筈の道は、ほどなく行き止まりになっていた。

    もう周囲には民家はなく、どうやら湯沢町はここから先は除雪の必要なしと判断しているらしい。雪壁で視界はさっぱり効かないのでトンネルがどのへんにあるのかは不明である。うーん…困ったな。



    仕方がないので一旦引き返し、分岐部に戻ってみると向こうからクルマが一台やってきた。…ということは、駅はあの向こう側ということかな。とりあえず行ってみることにしよう。


    スノートレンチな道路はまもなく関越自動車道の高架橋下をくぐる。

    「大型車の通行なんて考えていないぜ!」 的な桁下の狭さがなんとも投げやりな感じで僻地感をそそる。高架橋直下は天井をクルマが通り抜けるたびに遠雷のような音がゴォォォン…ゴロゴロ…などと響いていた。




    さてその先は…と進んでいくと…あれれ?(@_@;)

    …なんと、スノートレンチはやはり途中で行き止まりなのであった orz

    除雪されているのは一昨年に営業終了した山荘の玄関先までで、クルマが1台置いてあるところを見るとどうやらオーナー氏はまだここに住んでいるらしい。…ということは、駅の存在よりも "ここに住民がいる" という文脈で道路の除雪が行われていると理解すれば良いのだろうか。



    ナビをみると目的地まではあと250mくらいであるらしい。

    せめて駅までは通れるようにしておいて欲しいところだが…いずれにせよ土樽駅までの道筋は実際には通ることができない。割と有名な場所なのに、まさかこんな状況になっているとはちょっと意外だったな( ̄▽ ̄;)




    山荘の主人らしきご老体が出てきたので 「駅までいけますかね?」 と聞いてみたところ、「あ~、この先クルマは通れないよ~」 との返事が返ってきた。「歩いてなら行けるよ~」 とも言ってもらえたけれど、さすがに2mを超える積雪を人力ラッセルしながら進むのはちょっと遠慮したい(^^;)

    しかしそのままリターンではちょっと悔しいので、視界が通るあたりまで雪壁を登ってみた。正面に見えているのがどうやら上越線の変電施設らしく、駅舎はちょうど手前の樹木で隠れてしまっている。周辺にぽつり、ぽつりとある建物は山小屋だそうで、いずれも道が通じていない(=除雪されていない)ところをみると、もう使われていないようだった。



    実はここにはかつて土樽スキー場というのが営業しており、それなりの賑わいをみせていた。

    スキー場ができたのは昭和16年のことで、「雪国」 が書かれた昭和10年前後の寂しい風情は、なんとわずか5~6年後にはリゾート開発で賑やかに変貌していたのである。ちなみに土樽駅はほとんどこのスキー場の専用駅のような位置関係にあり、ホームから直接ゲレンデに出ることが出来た。土樽**までには遠い立地の駅だが、スキー客には便利であったに違いない。



    この昭和10年代というのは湯沢駅周辺でもボーリングで新源泉が次々に掘り当てられやはり開発が急速に進んだ時期で、かつての古い宿場から新源泉の点在する西側斜面沿いに市街地が増殖していく途上にあった。新源泉は最終的に15箇所まで増え旧源泉を遥かに越える規模となり、付近の様相は一変してしまった。温泉街の中心が、大きく新源泉の区域=湯沢駅周辺側に移動したのがこの頃である。

    …それを思うと、川端康成が湯沢に滞在した昭和9年~12年というのは、開発のまだ端緒の時期で昔の風情が壊されていないぎりぎりの時期だったといえそうだ。小説に描かれた湯沢の情景というのは、時代性からいえばには極めてピンポイントなものなのである。


    ところで土樽スキー場に話を戻すと、「雪国」 の映画化や川端康成のノーベル文学賞受賞によるブームに乗って昭和の終わり頃までは順調に営業していたようだが、新幹線の開通で主要客を越後湯沢まで直通で持っていかれてしまうとたちまち寂びれ果て、週末限定の営業で細々と稼動を続けた果てに平成15年頃営業停止となった。

    それ以降の状況は、今見ている通りである。…皮肉なことではあるが、おかげで2012年の我々はかつて小説に描かれた頃の静かな土樽の情景を、およそ80年振りに見ることができている。不思議といえば不思議な話である。


    そのあたりの無駄話をもう少しばかりしてみたかったのだが、山荘の主人氏はそのままクルマで出かけてしまい、それ以上の質問はできなくなった。

    …まあ、このあたりが引き返し時かな。むむむ。
    http://hobbyland.sakura.ne.jp/Kacho/tabi_yukeba/2012/2012_0209_Yuzawa/...



    2012.02.09 越後湯沢 ~川端康成の「雪国」~ (その2)
    http://hobbyland.sakura.ne.jp/Kacho/tabi_yukeba/2012/2012_0209_Yuzawa/...


    ■されど、国境の長いトンネル


    さてそんな次第で目的を果たせず失意120%で引き返してきたのだが、筆者の普段の行いが良いためか(ぉぃ ^^;)、ひょんなところからそれは見えた。場所は関越自動車道の高架橋下で、行くときには見えなかったものが帰りに目に留まったのである。



    なんと国境の長いトンネルは、実はここから見渡せるのだ。

    現在の上越線は複線化工事によってトンネルも2本になっている。昭和6年完成の清水トンネル(=小説に登場)は写真左側の方で、右側が昭和42年完成の新・清水トンネルである。花鳥風月的にポイントが高いのは、もちろん左側の古いほうだ。


    そんな清水トンネルを、望遠で捉えてみた。…ここを通って、小説家は雪国にやってきたのだなぁ。

    トンネルは時代が古いだけに簡素なつくりで、上からの落雪を防ぐために上部フェンスが追加されていた。放っておけばどんどん雪に埋まっていってしまいそうな頼りなさも幾分感じるが、しかしこのトンネルこそが、戦前の新潟と東京をむすぶ交通の要衝だったのである。

    ここが貫通したことで、それまでは直江津~長野~軽井沢を経由して信越線でぐるりと迂回していた新潟~東京の所要時間は距離にして約100km、時間では4時間も短縮されることとなった。小説には湯沢と東京を往復する話ばかりしか出てこないけれども、上越線の本質は新潟と東京という本州の東西港湾都市を直結したところにあり、湯沢はその2大都市圏の中間にあってアクセス性の良いスキーリゾート地として繁栄していくのである。


    そんな時代性を考えながらまったりと写真をとっていると、別の車がやってきて隣に駐車し、おっさんが降りてきて無言でトンネルの写真を撮り、そそくさと引き返していった。…しばらくすると、また同じようなクルマがやってきて、無言のまま写真を撮って帰っていく。

    えーと…もしかしてここは、そのスジの方々には有名な場所なんですか?(^^;)

    隣にヤケに厳重な 「立ち入り禁止」 のフェンスがあるのが気になった。やはり居るのだろうか、…理想のアングルを求めて突撃していってしまう猛者が…w



    ■ 「雪国」 という小説について


    さてそういえば 「雪国」 がどんな小説なのかさっぱり説明していなかった。詳細な解説はWikipediaあたりを参照していただければよいと思うのだが、せっかくなので花鳥風月的に端折って説明してみよう。

    「雪国」 とは、越後湯沢を舞台に一応の主人公である金持ちボンボン野郎の島村、メインヒロインで芸者の駒子、駒子のライバルとなるサブヒロインの葉子の三角関係がひねくり、ひねくり…な恋愛小説である。ボンボンの島村は親の資産でぬくぬくと暮らしている妻子持ちの中年男で、普段は東京に住んでおり年に何回か湯沢に通ってくる。田舎暮らしのヒロイン達は、この都会男に引っ掛けられてハーレム要員その1、その2となってもにょもにょするのである。

    といっても主人公の島村は何か明確な目的があって生きている訳でもなく、単にあちこちで女遊びをしているばかりで湯沢で囲った2号、3号にも責任を取るつもりはないらしいのである。やがて物語はいくつかの季節をめぐり、引っ掛けられた側の駒子と葉子の 「どっちを選ぶのよ」 的な詰めより具合がねちっこくなる。ただしヒロインの描写は圧倒的に駒子の方が濃密で、次期FSX選定で例えるなら駒子=F35、葉子=ユーロファイター並みの扱いで話は進む。


    このハーレム展開は、島村が 「そろそろ逃げようかな~」 と思い始めたところで脈絡なく火事がおこり急転直下のクライマックスに至るのだが、結局はっきりとした決着は付かず 「え? これで終わりなの…?」 的な結末に至る。 島村は主人公のくせに何の活躍もせず、最後はポカーンと天を仰いで終わる。結局一番動き回っていたのは駒子なのであった。

    まあ作者曰く 「島村はただの引立て役。これは駒子が愛に飢えてもにょもにょする様子に萌える話なんだよ!」 (注:筆者の超・意訳です ^^;) ということであり、おそらくこれで内容の本質に関する説明は終わってしまう。 …雪国とは、まあこんな話なのである。

    …というか、いいのだろうかそんな説明で(笑 ^^;)

    ※ストーリーのみを追いかけるとグダグダ感満載だが、各場面ごとの情景というか雰囲気を味わう "空気小説" としては実によく出来ている。そういえばノーベル賞の受賞理由も表現手法の巧みさを評価したものなのであった。



    ■土樽駅、リトライ(笑)

    さてトンネルを見た後、もう一本スノートレンチが分岐しているのを見つけて進んでみると、山荘とは反対側に駅の入り口があった。どうやら筆者はすこしばかり遠回りをして反対側にアプローチしていたらしい。

    …というか、パチンコの景品で貰ったカーナビ(…を、人づてで譲ってもらったw)の案内精度に期待しすぎるのがそもそもいけなかったらしいのだが、…まあいいや(^^;)



    有名な割りに駅舎は質素であった。駅章は自然木に手書き…まあ、これはこれで味があるかな。



    駅舎に入ってみると、こんな感じである。

    現在の土樽駅は無人駅で、スキー場の閉鎖によりほとんど唯一の 「この駅で降りる理由」 が消失して以降は、すっかり秘境駅の仲間入りを果たした感がある。

    駅舎内は "超省電力営業" で暖房はなく、照明は裸の蛍光灯が一本のみで、足りない分はなんと自販機の明かりが補っていた。JRもなかなか割り切った判断をしているようだ。


    ダイヤは3~4時間に一本という程度である。越後湯沢に乗り入れている新幹線より圧倒的に本数が少なく、利便性という点ではかなり難がありそうだ。ただし朝有に各1回、上り/下りが10分少々でつながり、とりあえずホームに下りてすぐにリターン…という瞬間トライの可能な時間帯はある。


    ホームに出てみるとそれなりに除雪はされていて、管理は行き届いているようだった。

    信号所時代の名残である通過待ち用の待避線は現在では撤去されている。小説で 「駅長さ~ん」 のシーンに登場したホームも今では列車待ちに使われることはなくなった。…これも時代の変遷かな。


    足元をみると線路には水が流れていた。いわゆる流水融雪だが、これが普及し始めたのはたしか昭和40年頃だったと思う。

    それ以前はどうだったかというと、もっとガチンコでマッチョな除雪が行われていた。ラッセル車でモリモリと雪を退け、さらに人海戦術でそれを軌道の外に運び出していたのである。

    「雪国」 では土樽に3台のラッセルが備えられていたことが記されている。他に除雪人夫が延べ5000人、消防青年団が延べ2000人手配されたとあり、当時の国鉄の並々ならぬ除雪対策の様子が伺える。

    ※この "3台" というのは実は軍隊式の装備の揃え方らしい。1台が故障、1台が整備中であっても確実に1台は実稼動できるというもので、非常時対応を強く意識したものだ。



    さてそのまま上り方向のホームの端まで行き、清水トンネルが見えるか目を凝らしてみた。…が、関越自動車道路の高架橋が邪魔をして視界は通らなかった。…まあ、こればかりは仕方の無いところかな。


    …貨物列車くらいは通るだろうか、としばらく見ていたが何もこなかった。

    小説中で土樽の駅長さんが言った 「こんなところ、今に寂しくて参るだろうよ」 というセリフが、21世紀になってもそのまま違和感無く感じられる。それほどまでにここには人の気配というものが無い。

    越後国の最奥部、もう人家もない谷底の斜面ぎりぎりの、これが本来の姿なのだろう。小説ではまだいくらかの鉄道職員がいる寂しさだったけれど、今ではそれも無人になった。事実は小説より寂なり…といったところだろうか。
    http://hobbyland.sakura.ne.jp/Kacho/tabi_yukeba/2012/2012_0209_Yuzawa/...




    2012.02.09 越後湯沢 ~川端康成の「雪国」~ (その3)
    http://hobbyland.sakura.ne.jp/Kacho/tabi_yukeba/2012/2012_0209_Yuzawa/...


    ■湯沢

    さて土樽を制覇した後は、湯沢に確保した宿に向かうことにした。雪壁で道路が狭くなっているので大型車が対向して走ってくると 「ぬおお」 となるのだが(^^;)、まあゆるゆると市街地を進んでいく。


    予算の都合もあるので基本的に安いビジネスホテルを使うのが恒の筆者だが、ここでは 「宿で小説を書く風情」 というのを味わってみたいので、一応ちゃんとした温泉宿に泊まることにした。



    …とはいえ、実は昨年同様、事前の宿の予約などはしていない。

    出発の1時間ほど前に旅館案内所に問合わせて 「いい所を紹介してくださいよ~♪」 とネゴして探してもらったのである。今回紹介されたのは湯沢ニューオータニホテルであった。

    チェックインしてみると、12畳+αの広々とした和室を一人で独占するというゆったりとした環境が待っていた。ビジネスホテルなら同じ床面積で3部屋くらいは詰め込まれるところだろうが、ここではそんな無粋なことはしていない。このくらい余裕のある空間なら "部屋で寛(くつろ)ぐ" という言葉が文字通りの意味で通用しそうだ。


    ところでそこらじゅうの旅館が満室の超・ハイシーズンに部屋が取れたのには、多少の理由がある。

    旅館には一見満室のように見えて、実は空き部屋がいくつもあるのである。有力な(=販売力のある)旅行会社や予約サイトがあらかじめ一定数の部屋を 「枠」 として押さえていたうちの余り物件で、前々日までに予約が確定しなかったり直近にキャンセルされた部屋がそれにあたる。こういう物件は 「枠」 の有効期間中には外部からはなかなか見えにくいのだが、前日になると縛りを解かれて、旅館組合の案内所などでローカルに売りに出される。一人旅ならこういう部屋を狙うのが得策なのだ。

    …などと書くと 「なんでキャンセル待ちみたいな真似をする必要が?」 とツッコミが来るかもしれないのだが(^^;)、実は一部屋の面積が広い高級旅館では利益率を考慮して宿泊人数が二人以上でないとそもそも予約を受付けないところが多いのである。

    それが前日や当日になると、空気を泊めておくよりはマシ(?)ということになって一人客にも開放される訳だ。一部の旅行好きには納得のいかないシステムかも知れないけれども、需要と供給と資本主義の理屈によってイマドキの旅館事情というのはそういうことになっている。



    では時代を遡って、戦前の宿の予約事情がどうであったか…については、実はどうもよくわからない。戦前の旅行会社というのは明治45年の日本交通公社=ジャパン ツーリスト ビューロー(JTB)の設立から本格的に立ち上がったといわれるのだが、その設立意図は鉄道会社とタッグを組んでの外国人観光客の誘致と便宜を図るものであり、日本人の扱いはどうもオマケのような印象がある(ただし設立意図はともかく顧客の圧倒的多数は日本人である)。

    昭和10年頃だと国内旅行手配はこのJTBのほぼ独占状態にあった。JTBの設立には鉄道院が深く関与しており国鉄の全面的なバックアップがあったのでこれは当然ともいえる。湯沢の発展とはすなわち国鉄の上越線効果の果実なので、観光客の誘致や有力旅館の宿泊手配には当然JTBが絡んだことだろう。その流れからいくと、湯沢入りした川端康成もJTBの客だった…ということになるのかもしれない。

    しかし小説 「雪国」 では、主人公は湯沢で最終列車を降りてからは旅館の "客引き番頭" に引っ掛けられて宿に入っており、JTBを経由して予約したのかどうかはついに最後まで明らかにされない。

    まあ最近流行のメディアミックス作品なら 「国境の長いトンネルを "国鉄の列車で" 抜けると雪国であった。宿の予約なら "JTB" …」 などと書かれるのだろうけれど(^^;)、さすがにそういうコマーシャルな文章を川端康成が小説中に練りこむことはなかった。「湯沢」 の地名すら最後まで直接は言及しないのだから、そのあたりは何らかの矜持があったのだろう。


    それはともかく、話が延々と蛇行して申し訳ないけれど、小説中の描写をみるかぎりどうやら主人公の島村は繁忙期を微妙に避けて当日の空き部屋をGETしていたようである。現代ではさすがに "客引き番頭" なる存在はもう少し合理化されて旅館の公式HPとか旅館組合の案内所に置き換わっているのだが、仕事の本質は変わらない。(※無理が利くのは案内所の方である)

    …ということで、今回筆者は実にノスタルジックな作法(?)に則って一夜の宿を確保したことになるらしいだが…そういう理解で良いのだろうか(^^;) …なんだか自信がないけれども。


    さて荷物を置いたらひろびろとした売店コーナーでお土産などを漁ってみた。今回は細君を那須に置き去りにしてきているのでご機嫌伺いの貢物が必要なのだ。

    …それにしてもホテルの売店の一番いい場所を占有しているお土産が 「米」 である。なんというか、新潟県の強烈なアイデンティティを感じざるを得ない(笑)


    米以外ではカニ風味の商品が多い。とにかく、カニ、カニ、カニ…である。とりあえずカニチップスは定番らしいので即GETしてみた。


    こちらはいつぞやの旅行で買いそびれたエースコックの職人魂…♪ こちらも忘れないうちに買い込んでおこう。ちなみに3個1セットでちょっとだけお買い得になるようだが、大人ならダンボール買いをするのが日本経済に貢献する正しい道といえる。

    …というか、いきなり売店でそんな大人買いをしてどうするというのだw


    その後部屋に入って一服していると、やがてお食事タイムの到来である。本来なら2日以上前に要予約のはずの御造りを美人で可愛い仲居さんに 「お願いにゃん♪」 とその場で追加してもらったりして、たらふく新潟の味を堪能してみた。

    食事が済んだあたりで体内バッテリーが切れかけてきたので、とりあえずいったんバタンキュー。温泉は翌朝ゆったりと味わうことにしよう。


    ■雪と温泉

    さてそんな訳で翌朝である。まだ暗い5:30頃にふらふらと館内の温泉に向かってみた。内湯は広くて湯量も豊富、施設もなかなかイイカンジだが…ちょっと整備されすぎて昔の鄙びた宿の雰囲気ではなかった。まあ良くも悪くも近代的なホテルで、いまどきのレジャー客向けのつくりである。

    先行客は4、5人ほど。「いや~、こんな時間に風呂ですかい」 と判で押したような挨拶をしながらさらに5人ほどが入ってきた。…見れば朝風呂をキメ込んでいるのはみなスキー客のようで、会話を聞き流してみたところ、これから滑り倒す前のウォーミングアップを兼ねているようだった。 何というか、気合が入っているなぁ・・・w


    さて筆者はというと、この時期の醍醐味といえば露天風呂と相場が決まっているので、雪の底に埋もれるような湯船で大の字になって浮かんでみた。

    いや~極楽だねぇヽ(´∀`)ノ



    …というか、気分は露天というよりすっかり洞窟風呂なんだけどな(笑)



    雪の壁が風を防いでくれるので、こういう状態の風呂は実は見た目の印象ほどには寒くない。ゆったりと浸かりながらリラックスするには丁度よさそうだ。

    …そんな訳で少しばかり長湯をしてみた。そもそも湯沢での2日目の予定は、川端康成の泊まったという高半旅館の外観を眺めて、資料館(雪国館)を巡るくらいなのである。気分もスケジュールも、もっとゆったり、まったりでいい。

    外では綿雪が深々と降っている。スローシャッターなので画面にはほとんど写っていないが、雪壁の底にも静かに雪が降りてきて、湯船に着水した瞬間にふわりと融けて消えていく。見ていて飽きが来ない、いい小景である。


    こういうところでリフレッシュしながら小説を書くというのは、どんな気分だろう?

    静かな部屋で黙々と原稿を書き、煮詰まったら温泉に入り、付近を散策などして気分をリセットする。そしてまた原稿を書く。…日々、それが繰り返していく。

    現代なら気分転換にはTVをぽちっと点けたり、ネットでニュースを見たり、携帯ゲーム機wで気分を転換したり…といろいろな選択肢があるだろう。しかし戦前にはもちろんそんなものはなく、田舎の温泉宿に逗留すれば、恐ろしいほどに静かで抑揚の無い時間が過ぎていき、することといったら原稿を書くくらいしかない。


    昔の小説家は、不思議なくらいに温泉宿をよく好んだ。何週間も泊まりっぱなしで作品を一本書き上げる…などということも珍しいことではなかった。

    そんなに自宅や仕事場(書斎)では仕事がしにくかったのか…といえば、ぶっちゃけたところその通りであったらしい。理由の大半は、メンタルなものである。温泉宿の役割とは、要するに日常とは異なる環境で宇宙からの電波を受信してインスピレーションの神様が降りてくるのを期待しつつ、締切りから逃げられないようにカンヅメ状態に身を置く…というもので、その本質は軟禁状態をつくるためのハコということになる。



    物書き業界ではこういう宿を "カンヅメ旅館" などと呼び、著名な作家は大抵どこかでカンヅメ生活を経験している。もっともこういう場所に隔離されるのはある程度成功した作家のステータスみたいなものでもあり、作家にとってもそう悪い待遇ではなかった。

    締め切りを守っている限りにおいては逗留先で観光やら芸者遊びに興じていても誰も文句は言わなかったし、要領のいい作家は "取材" と称して遊興費の請求書を出版社に回してしまう猛者もいた。出版社としてはそれで良作が生まれて本が売れてくれれば御の字なので、なんでもホイホイ受け入れた訳ではないだろうけれどもかなり大目にみていたような感はある。

    ※逗留費用は作家の "大先生具合" によって出版社が持ったり本人が払ったりした。また逗留場所は郵便事情の良いところでなければならず、原稿が締め切りまでに編集者に届くことが絶対条件だった。


    戦前の日本の温泉旅館は、このような小説家の滞在には非常に都合がよかったらしい。そもそも "湯治" という何ヶ月単位で滞在する客層を安価に受け入れるシステムが出来上がっていて、その気になればコンドミニアム式の自炊を前提にして宿泊費をかなり安く済ませることも可能だった。(ただしその場合は長屋のような安宿になるのだが ^^;)

    「雪国」 を書いた頃の川端康成はというと、湯沢に来た当時は既に新聞連載なども持っていてそれなりの地位を得ており、滞在した部屋は条件の良いところを選んでいた。眺めのよい高台の温泉旅館の3階で、三方が窓、一方が廊下となっている出島のような8畳の和室である。隣接する客室が無いので隣から話し声が聞こえてくることもなく、ここではかなり静かに原稿を書くことが出来たようだ。

    …もっとも、川端はストイックに原稿ばかりに向かっていた訳ではなく、当時出来たばかりのスキー場でスキーを愉しんだり、芸者遊びに興じたりもしていた。それをネタに小説を書いていたのだから、まあ趣味と実益がうまく両立していたというか、まあよろしくやっていた部類なのだろう。


    さて風呂から上がってクルマの状態をみると…あらら、一晩で結構、積もったなぁw


    ついうっかりしてワイパーを立てておかなかったのでバリバリに凍ってしまい、クルマの発掘(?)と暖気運転にたっぷり20分以上かかった。雪国のクルマ事情というのは露天駐車だと結構厳しいものがあり、これで1m以上もドカっと積もったらボンネットがベッコリ凹んでしまうのではないかと心配になってくる(^^;)



    ■高半旅館


    さてそんな訳で、チェックアウト後は 「雪国」 が執筆されたという高半旅館に向かってみよう。

    高半旅館は、湯沢の市街地から少し外れた山間の丘の上に位置する温泉宿である。ここは湯沢村の発祥の地といってもよく、平安時代の終わり頃に高橋半六なる人物が温泉を発見したことに始まる。源泉は斜面にある小さな鍾乳洞から沸いて湯之沢に注いでいる。当初は源泉の近くに湯壷を設けていたようだが、たびたび崖崩れや雪崩の被害に遭ったことから江戸時代の中頃に現在の位置に移ったらしい。

    上越線の開通以前は、冬季には三国峠が雪に埋もれるため人の往来もなく温泉は休業していた。通年営業が始まったのは上越線の工事計画が具体化した明治末期~大正期以降のことらしく、周辺のスキー場開発も同じ頃に本格化していることからそちら方面の客を相手にしていたようだ。


    これが現在の高半旅館である。近代においては2度大規模な建て替えをしている。1度目は上越線の開通の頃で、木造の瀟洒な楼構造の建物が建った。川端康成が宿泊したのはまだ新築の薫りの残っていた頃である。

    現在ではさらに鉄筋コンクリートの近代的な建物に変わっていて、川端康成の滞在した頃の面影はなくなっている。ただし建物内部には当時の部屋(かすみの間)を再現した一角があり、宿泊客はそこを見ることができる。


    筆者もできれば内部を見学したかったところだが…残念ながらその希望は叶わなかった。狭い高台にある旅館には駐車場に余裕が無く、この日は既に宿泊客のクルマが満車で入り込む余地がなかったのである。こればかりはハイシーズンであるだけに仕方がない。

    …まあ残念だが今回はとりあえず写真を数枚撮っただけで撤退することにしよう。

    ※念のために申し添えておくと、ここは 「かすみの間」 を見学するだけの客も一応受け付けてくれる。しかしその場合はマイカーではなく公共交通機関か、がんばって徒歩で到達するしかなさそうだ(レンタルサイクルは冬季には無理)。


    ちなみに現在の高半旅館は 「雪国」 効果と創業800年の超老舗プレミアムで、宿泊料金は湯沢の新温泉街の倍くらいのレートになっている。それでも宿泊客が押し寄せてくるのだから大したものなのだが、筆者のような貧乏旅行派には少々高嶺の花といったところだろうか(^^;)

    …そんな訳で、次に訪れる機会があるとしても筆者のことだからきっと 「とくとくチケット¥500」 とかになってしまうことが予想されるのだが(笑)、そういう貧乏くさいところに "美" を見出すのも文学の使命みたいなものだろうから、まあなんだ…細かいことは気にしない、というオチでいいのかな? …え? 負け惜しみだって?(爆)
    http://hobbyland.sakura.ne.jp/Kacho/tabi_yukeba/2012/2012_0209_Yuzawa/...





    ■ 2012.02.09 越後湯沢 ~川端康成の「雪国」~ (その4)
    http://hobbyland.sakura.ne.jp/Kacho/tabi_yukeba/2012/2012_0209_Yuzawa/...


    ■歴史民俗資料館


    さて旅館の玄関だけ眺めて戦略的撤退(?)をした後は、ふたたび新温泉街の方に戻って歴史民俗資料館に立ち寄ってみることにした。

    ここは 「雪国館」 の別称をもつ湯沢町の施設で、川端康成関連の資料を見ることが出来る。書籍のある資料室と日本画コーナー以外は撮影が自由というありがたい施設でもある。とりあえずここで小説の周辺事情などをにわか勉強してみることにしよう。


    資料館は建物の大きさの割に実物展示が豊富で、雪国の暮らしやその変遷というのがよくわかる構成になっている。 上代以前や戦国時代の考古学的資料もあるのだが、物量的に資料が豊富になるのは大正時代以降のようで、昔風の雪蓑や笠がある一方でスキーやスケート用具などの洋風アイテムも混在するなど、なかなか面白い和洋折衷の文化史をみることができる。

    …が、あまりに内容が豊富なので全部は紹介しきれない。興味のある方はぜひとも実際に行って見学してみて欲しい。湯沢温泉街以外にも三国街道沿いの三俣方面に深い歴史のあることがよくわかると思う。



    さて 「雪国」 の時代に話を戻すと、上越線の開通が湯沢にとってインパクトが大きい出来事だったことが観光客の増加具合からも良くわかる。特に冬季の賑わいは凄まじく、大正時代に細々と始まったスキー場の整備は昭和20年代には第一次のピークを迎え、それ以降湯沢を支える産業の柱になっていく。

    温泉についても、上越線の開通に合わせてボーリングによって次々と新源泉が掘られていった。これから増えるであろう観光客を見込んで地元有志が組合をつくり、古来からの湯之沢源泉に頼らず自前で自由に使える源泉を確保し始めたもので、これが昭和10年代に湯沢の町の構造を大きく変えていった。


    上越線開通直後=昭和9年の風景写真をみると、現在は巨大温泉街になっている付近もまだ畑が広がっており、温泉掘削の櫓が建っているだけ…という様子がみえる。ちょうど川端康成がやってきたのがこの頃で、当時の湯沢は伝統的な農村風景が急速に観光開発されていく走りの時期に当たっていた。

    「雪国」 ではこうして掘削された温泉を 「新温泉」 と表記している。小説に絡んだ温泉宿としては高半旅館(旧温泉)のほうの知名度が高いけれども、よく読めば変遷していく湯沢の新しい風景も端々に練りこまれており、メインヒロインである駒子は芸者という仕事柄、宴席で新旧どちらの温泉宿にも出かけていく描写がみえる。

    ※その合間にちょこまかと島村のいる旅館に通ってくるのだから、まあ健気なものであるのだが…(^^;)




    館内で上映していた湯沢町のプロモーションビデオにも昭和10年頃とされる風景が映っていた。季節は雪の走りの頃のようで、地形からみて湯沢駅南東1kmほどの秋葉山の北側の尾根から撮ったもののようだ。中央を走るのが上越線、そして湯沢駅である。正面奥に小さく見えるのが高半旅館で、写真左側が現在新温泉街が広がっている付近だ。既に新温泉街の原型のような建物群が建ち始めているが、まだ全体としては鄙びた農村の雰囲気が残っている。

    昭和10年の湯沢の旅館数はおよそ15軒ほど。収容客数は村全体で 300~400人程度といわれる。そこに芸者を派遣する業者がいくらかあり、小説中の表記を参考にすればおよそ20名くらいが在籍していた。彼女達の収入は当時の小学校の教員給与が月に70円だったのに対し100円を超えるくらいであったといい、女性の給与が男性の6掛け前後で勘定されていた時代にしては良い稼ぎであった。

    ※そんな世界に駒子が足を踏み入れたのは、病気の許婚(いいなずけ)の治療費を稼ぐため…と、小説の中では説明されている。ちなみにその許婚は存在感の希薄なまま途中で死んでしまい、駒子は島村ハーレムに吸収されてしまう。



    ■駒子のモデルの周辺事情など


    ところで、怒涛の三角関係がもにょもにょ…な展開の 「雪国」 だが、そのメインヒロインである駒子には、実在のモデルがいたことが知られている。松栄(まつえ)という芸名の若い芸者で、川端康成と最初に出会った昭和9年当時、彼女は19歳であった。

    川端康成はこのとき35歳。…なんというロリコン! …とか言っちゃいけないんだろうけれど(^^;)、この16歳も年下の芸者を川端はいたく気に入った様子で、たびたび指名買いしては部屋で飲んだり、散策に連れ出したり、その他いろいろなことをしたらしい。…といっても川端本人はあまり酒は飲むほうではなく口数も少ないむっつり男だったというから、どのような時間の過ごし方をしたのか少々不思議というか、非常に興味津々なところではある(^^;)


    そんな逗留の日々の中、小説の筆は進んでいった。最初から一本の作品として書いた訳ではなく、登場人物を共通にして細切れの短編として雑誌に発表し、のちにそれをまとめて一冊の本にした。タイトルは最終的に 「雪国」 となった。

    …が、後にこれを読んだ松栄はシェーっ(古^^;)…とばかりにぶっ飛んだらしい。小説に書かれた内容が、ほとんどそのまま川端康成と自分の過ごした日々をトレースしていたからであった。関係者が読めば登場人物が実在の誰であるかが分かってしまうし、しかも中身は色恋沙汰のもにょもにょ話で、もちろん小説として面白くなるようにあれこれと演出が入っていた。

    まあ一般読者からすればどこまでが事実でどこからが創作かなど分かろう筈もないのだが、書かれた側にとってはかなり困惑…というより傍迷惑MAXなものであったのは間違いないだろう( ̄▽ ̄;)


    こういう自分の体験をそのまま文章に書きだす作風は "私小説" とか "掌小説" などと呼ばれ、大正時代から昭和の中頃あたりにかけて流行した小説の1ジャンルであった。典型的な作家としては、太宰治を挙げればおおよその雰囲気は掴めるだろう。

    川端康成はまさにこの系列の作家で、「雪国」 においても意図的に他人の私生活を暴露しようとした訳ではなく、当時なりの流行のフォーマットに従って自分の体験をネタに物語を書いたつもりのようだ。ただし配慮を欠いて突っ走りすぎたという点で、ツッコミを受けても仕方の無い部分があった。



    これについては川端康成本人も 「やっちまった」 感は持っていたようで、後に生原稿を松栄の元に差し出して無断で小説に書いたことを詫びている。作家にとって生原稿を差し出すというのは命を差し出すようなものであるから、このときの侘びの入れ方はかなり本気だったようである。そしてこれ以降、川端は湯沢に通うのをやめ、「雪国」 は清算すべき過去の負い目の作品となった。

    一方の松栄の方はというと、芸者の契約期間満了(=年季が明ける、と花柳界では言う) とともにこの世界から足を洗い、三条市に移った。新たな勤め先は市内の和裁店で、のちに彼女はそこの主人氏と結婚してささやかな家庭を築くことになる。「雪国」 の原稿は湯沢を出るときに焼き捨ててきた。昭和15年(1940)のことであった。

    しかしそんな作者側 (…と、書かれた側) の事情とは関係なく、「雪国」 は小説としては異例のロングセラーとなり、戦後になって映画化、演劇化、そしてTVドラマ化…と何度も映像化されることとなった。駒子のモデルがいるということはほどなく公知の事実となり、レポーターの突撃取材(?)なども行われたようである。

    …つまり 「雪国」 の一件は、原稿を焼き捨てても終わることなく松栄(この頃は一般人:小高キクとなっていた)の人生に後々までずっと影響を及ぼし続けたのであった。


    資料館には映画のロケ地で女優の岸恵子と対談する松栄の写真(昭和32年)があった。地元の観光宣伝になるため取材には協力していたようだが、すでに人妻となっているにも関わらず独身時代の他の男との関係を面白おかしく取り上げられたり、ましてや映画化(!!)されたり…というのはどんな気分だったことだろう。

    ちなみに湯沢を出て以降、彼女が川端康成本人と会うことは無く、川端作品を読むことも一切なかったという(※)。

    ※このあたりは旦那さんへの配慮があったのかも知れないが、今となっては確かめようがない。


    一方その間、川端康成は文壇で着実に知名度、実績を上げ続け地歩を築いていった。各種文芸賞のほか、日本ペンクラブ会長、国際ペンクラブ副会長に就任し、文化勲章まで受章した。役員として名前を貸した文芸系の団体などは数え切れない。

    そしてついに昭和43年(1968)、川端康成は日本人初のノーベル文学賞を受賞し、その名声の頂点を極めたのであった。「雪国」 は代表作のひとつと言われるようになり、小説の中身を知らない人でも冒頭の一文だけは知っている…というほどに知名度が上がった。

    ※写真は 「雪国」 湯沢事典(湯沢町役場/湯沢町教育委員会/新潟県南魚沼郡湯沢町) より引用。ちなみに湯沢町はノーベル賞以前から 「雪国」 で町興しをしており、資料館内には受賞以前の川端康成の書などが展示されている。


    …ところが、ノーベル賞受賞の後、実は川端はほとんど作品を発表していないのである。

    一説には賞の重圧が筆をとることを躊躇(ためら)わせたのでは…とも言われているが、筆者的には "燃料の枯渇" も相当程度あったのではないかという気がしてならない。



    …というのも、高名な賞や肩書きは、分かり易く作家をランク付けしてくれる一方で希少動物か珍獣のような扱いにもするからだ。静かな地方を尋ねて小さな体験を積み重ねつつ、物語をひねり出す…という川端康成の創作の方法論は、ノーベル賞受賞後は "珍獣" に集まる人だかりによって明らかに破綻してしまったように思える。

    晩年の川端が行く先々で行ったのは、小さな出会いでも散策でもなく、「日本の美」 とか 「芸術について」 といった大仰な講演会であった。


    ■そして駒子が残った

    ノーベル文学賞受賞から4年後、川端康成は神奈川県逗子市の書斎で遺体となって発見された。昭和47年4月16日のことである。死因はガス自殺とされているが、遺書はなく、その真相は今でも不明である。

    昭和初期の頃の小説家というのは自らの苦悩を作品にしつつ、たびたび自殺で世を去った。川端康成は比類なき成功と栄光を手にした果てに、結局周回遅れで彼らの仲間入りを果たしたともいえる。


    私小説とは自己を切り売りしているような作風だという人がいるけれども、おそらくそれは正しい認識だろう。切り売りできるものが無くなってしまった時点でその小説家は詰んでしまう。だから常に燃料を補給しなければならない。

    昭和9年の川端は実はその "詰んだ" 境遇にあり、湯沢にやってきた時点で彼は何を書くべきかというテーマを持っていなかった。たまたま現地で出会った若い芸者と過ごした日々が、創作の糧となって文章のネタとなり、彼を救ったような印象を筆者はもっている。

    しかし20年後の彼には、もうそういう人は現れなかった。川端はよく言えば 「恋多き男」 で、若い頃には取材旅行で地方に滞在するたびに色々な女性にちょっかいを出したらしいのだが、偉くなりすぎた後にはそういう勝手もしにくくなった。さすがに講演会で 「芸術とは~」 などとやっている一方で、あまり下世話な行動もとりにくかっただろう。

    しかし面白い小説というのはそんな下世話で赤裸々な感情の集積という側面をもっている。…偉くなりすぎた果てにこのギャップを埋められなくなったあたりに、もしかすると晩年の彼の不幸があったのかもしれない。


    川端康成が最後にちょっかい…いや、癒し(^^;)を求めたのは、随分と手近なところで家政婦の女性であったという。しかし彼女はどういう訳か川端の元を去ってしまう。後には誰も残らなかった。


    一方、松栄は平成11年まで矍鑠(かくしゃく)として存命した。享年83歳。読書が趣味で、亡くなったとき自室の書棚には800冊あまりの蔵書があったというが、川端康成の作品は、やはり1冊もなかったそうだ。


    資料館には、川端と出会った頃の松栄の住んだ部屋が移築、保存してある。高半旅館からほどちかい諏訪社の付近にあった豊田屋という置屋(芸者を派遣する業者)の2階部分で、小説にも登場する部屋である。


    …昭和9年、ここに居た一人の芸者が、とあるネタ切れ作家の座敷に呼ばれた。それがささやかな物語の始まりであった。作家は口数も少なく、酒もほとんど飲まない扱いにくい客で、それでも芸者は三味線を弾き謡い、この堅物の興味を引きそうな話を振って精一杯のもてなしを試みた。それまで幾人もの芸者を呼んでは返していた作家は、不思議なことにこの芸者に限っては何度も指名するようになった。おそらくこのとき、作家にインスピレーションの神が降りたのだろう。

    …と、とりあえず筆者はそんな推測をしている。


    座敷に座っている駒子(=松栄)の人形は、静かに窓の外を眺めるばかりでこちらには顔を向けない。

    もう関係者もあらかた鬼籍に入ってしまった今、真実が奈辺にあるかなどということを気にする者はいなくなった。いまは小説が一冊、残っているだけである。


    一通り見学した後に外に出ると、また雪が激しくなってきていた。

    すっかり発展して巨大繁華街となった新温泉の領域を歩くと、駒子の名のついた土産物が実に多いことに驚く。これらのアイテムはもう定番の観光記号と化していて、小説の中身を知らなくても 「雪国」、 「駒子」、 「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」 さえ押さえておけば何となく文学体験をした気分になれるほどに認知されている。

    これはこれで、不思議な風景なのであった(^^;)

    …変わらないのは、雪ばかりである。






    ■あとがき

    久しぶりに豪雪地帯をゆるゆると歩いてみて、やはり越後の冬山はスゴイな~という感慨を持ちつつ、有名なネタである川端康成の周辺を眺めてみました。今回は文学の素養もないのに 「雪国」 をテーマにしてしまったので正確性には不安がありまして、もしトンチンカンなことを書いていたら何卒ご容赦頂きたいです(汗 ^^;)

    さて川端康成というと、もう近づきがたいほどの超有名な大文豪…というイメージを筆者は持っていたのですが、少なくとも戦前の20~30代の頃はかなり行き当たりばったり的に作品を書いていたような印象があります。彼が湯沢にやってきたときがまさにそのパターンで、何を書くかを事前に決めないままに宿に入り、いきなり芸者遊びと散策という 「お前、何しに来たんだよ」 的な日々が始まります。しかしそれは 「何かが起きる」 ことを期待しての行動で、彼としては小説のネタ探しのつもりだったのでしょう。

    「雪国」 としてまとめられる前の小説の冒頭部分は 「夕景色の鏡」 の題で雑誌に掲載されたそうですが、締め切りにはかなりギリギリの入稿だったようで、しかもなんと川端康成はこの時点でストーリーの結末をどうつけるかまだ決めていませんでした。芸者の松栄嬢と過ごした日

  • [お知らせ] 特定の投稿者のレスを非表示できる機能を追加しました

[PR] 周辺の物件
オーベル練馬春日町ヒルズ
イニシア東京尾久

同じエリアの物件(大規模順)

スポンサードリンク広告を掲載
スポンサードリンク広告を掲載
スムログ 最新情報
スムラボ 最新情報
スポンサードリンク広告を掲載
スポンサードリンク広告を掲載

[PR] 周辺の物件

サンクレイドル南葛西

東京都江戸川区南葛西4-6-17

3900万円台~5900万円台(予定)

2LDK・3LDK

58.01m2~72.68m2

総戸数 39戸

ガーラ・レジデンス梅島ベルモント公園

東京都足立区梅島2-17-3ほか

5100万円台~7200万円台(予定)

3LDK

55.92m2~63.18m2

総戸数 78戸

レ・ジェイド葛西イーストアベニュー

東京都江戸川区東葛西6丁目

未定

1LDK~4LDK

45.18m²~114.69m²

総戸数 78戸

リビオタワー品川

東京都港区港南3丁目

未定

1LDK~3LDK

42.1m2~130.24m2

総戸数 815戸

サンクレイドル浅草III

東京都台東区橋場1丁目

4800万円台・6600万円台(予定)

1LDK+S(納戸)・2LDK

45.14m2・56.43m2

総戸数 72戸

オーベル練馬春日町ヒルズ

東京都練馬区春日町3-2016-1

8148万円~9448万円

3LDK・4LDK

70.07m2~80.07m2

総戸数 31戸

リーフィアレジデンス練馬中村橋

東京都練馬区中村南3-3-1

6858万円~9088万円

3LDK

58.46m2~75.04m2

総戸数 67戸

プレディア小岩

東京都江戸川区西小岩2丁目

6400万円台~8200万円台(予定)

3LDK

65.96m2~73.68m2

総戸数 56戸

リビオシティ文京小石川

東京都文京区小石川4丁目

未定※権利金含む

1LDK~4LDK

35.89m2~89.61m2

総戸数 522戸

ジェイグラン船堀

東京都江戸川区船堀5丁目

6998万円・7248万円

3LDK

70.34m2・74.58m2

総戸数 58戸

バウス氷川台

東京都練馬区桜台3-9-7

7398万円~1億298万円

2LDK~3LDK

52.27m2~70.96m2

総戸数 93戸

ヴェレーナ西新井

東京都足立区栗原1-19-2他

5568万円~7648万円

3LDK

66.72m2~72.74m2

総戸数 62戸

カーサソサエティ本駒込

東京都文京区本駒込一丁目

2LDK+S・3LDK

74.71㎡~83.36㎡

未定/総戸数 5戸

ヴェレーナ大泉学園

東京都練馬区大泉学園町2-2297-1他

5798万円~7298万円

3LDK

55.04m2~72.33m2

総戸数 42戸

ジオ練馬富士見台

東京都練馬区富士見台1丁目

6090万円~9590万円

2LDK~3LDK

54.27m2~72.79m2

総戸数 36戸

オーベルアーバンツ秋葉原

東京都台東区浅草橋4丁目

1LDK~3LDK

34.63㎡~65.51㎡

未定/総戸数 87戸

サンクレイドル西日暮里II・III

東京都荒川区西日暮里6-45-5(II)

6980万円・7940万円

2LDK

50.02m2・52.63m2

イニシア東京尾久

東京都荒川区西尾久7-142-2

5500万円台・6300万円台(予定)

2LDK・3LDK

43.42m2~53.6m2

総戸数 49戸

クラッシィタワー新宿御苑

東京都新宿区四谷4丁目

未定

1LDK~3LDK

42.88m2~208.17m2

総戸数 280戸

イニシア日暮里

東京都荒川区西日暮里2-422-1

6900万円台・7900万円台(予定)

1LDK+S(納戸)~2LDK+S(納戸)

53.76m2~66.93m2

総戸数 65戸

[PR] 東京都の物件

リビオ亀有ステーションプレミア

東京都葛飾区亀有3丁目

4670万円~8390万円

1LDK~2LDK+S(納戸)

35.34m2~65.43m2

総戸数 42戸

ユニハイム小岩プロジェクト

東京都江戸川区南小岩7丁目

未定

2LDK~2LDK+S(納戸)

45.12m2~74.98m2

総戸数 45戸

バウス板橋大山

東京都板橋区中丸町30-1ほか

8980万円

4LDK

73.69m2

総戸数 70戸