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[スレ作成日時]2013-11-02 21:09:32
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[スレ作成日時]2013-11-02 21:09:32
目の前の工事は何をやってるのかな?
下総守谷城は、下総相馬氏の居城。相馬氏宗家。
東北福島の相馬馬追の相馬氏は、分家。
ひょうたんクラブの畑が駐車場になりましたね。
テレビみれない
うちもです。BSは映るんでJCOMが原因ですかね。
テレビ映らない。
テレビが
江戸時代の守谷藩ではテレビがなかった。
徳川家康の家臣として甲斐国巨摩郡切石1万石を領していた菅沼定政は、小田原征伐後に家康が関東に移されると、北条軍に加わって改易された下総相馬氏の旧領である相馬郡の内に移されることとなった。これが守谷藩の起源である。文禄2年(1593年)立藩と同時に母方の菅沼姓から本来の土岐への復姓が認められた。慶長2年(1597年)3月に定政は死去し、跡を次男の土岐定義が継いだ。定義は元和3年(1617年)に摂津国高槻藩に加増移封となったため、守谷藩は一時幕府直轄領となり、岡登甚右衛門と浅井八右衛門が代官となった。土岐定義が高槻で没し、その子土岐頼行が継いだが、12歳であったため減封となり、3年後に再び守谷城に戻った。やがて土岐頼行は元和4年(1618年)山城守の受領名を受け、25000石に加増されて寛永4年(1627年)、出羽上山に移された。再び守谷は幕府直轄となり伊丹播磨守の代官支配の後、寛永19年(1642年)、堀田正盛が信州松本から13万石で佐倉城に入った時にその領地になった。正盛の三男正俊が1万3000石給与で備中守となり守谷領を継いだが、守谷城には入城しなかった。天和元年(1681年)最後の城主酒井忠挙が転封になるまでの91年間、城下町としての繁栄をみたが、その後に関宿藩久世氏の領地になり、城下町でなくなってからは衰微して、周辺の農村と全く同じような環境となった。
守谷城は、平将門の創筑との伝承がある。
ブランズシティ守谷城
守谷小学校は守谷城の外郭にある。
守谷城は茨城県守谷市本町にあった戦国時代の丘城で、利根川水系の湿地帯に張り出した標高18m(比高10数m)の舌状台地に築かれた丘城です。城は城山地区(平台山と称する)と城内地区に分かれ、城山地区が要害としての主城部、城内地区(守谷小学校周辺)が戦国後期に拡張された外郭です。
外郭部は市街化が進み、一部の土塁を除いて遺構はほとんど消滅していますが、主城部は城址公園として整備され、遺構がよく残っています。主城部は先端から、妙見郭・主郭・二ノ郭・三ノ郭と連なり、それぞれ堀切で分断した縄張りとなっています。堀には満々たる水が入り込み船着場も残されていました。
北条氏の城らしく、随所に横矢掛かりが設けられ、土塁で囲まれた枡形虎口など技巧的な縄張りです。特に素晴らしいのは二ノ郭の空堀で、深く大きな堀が屈曲している様は、まさに北条流の築城術そのものです。また、主郭の堀切は、二重堀切となり、馬出し機能を兼ねた中間の土塁にも横矢を設けています。
小貝川より入る一大水系は、満々たる水を湛えて城域を囲み、更にはその城域の極めて広大なこと、築城技術の入念なこと、それは天下の名城としての様相が偲ばれます。
公園として整備されているので夏でも訪城可能ですが、これらの素晴らしい遺構を堪能するには、やはり冬場が良いでしょう。守谷市指定史跡(昭和48年9月8日)。