新築マンションのアクセスランキングで、
湘南地区で人気3位になっていました。
駅からけっこう遠そうで、坂道に建つようですが、
こちらのマンションってどうなんでしょうか?
[スレ作成日時]2006-06-04 22:18:00
新築マンションのアクセスランキングで、
湘南地区で人気3位になっていました。
駅からけっこう遠そうで、坂道に建つようですが、
こちらのマンションってどうなんでしょうか?
[スレ作成日時]2006-06-04 22:18:00
掲示板に書き込みするか迷っていたのですが、思い切って書き込みします。
6日の月曜日の深夜3時半ごろだと思うのですが、ふと目が覚めたところ
何か外(陣屋坂側)で人の気配というか、物音が聞こえたような感じがしたので
窓から覗いてみたところ、黄色い旗?のような物を持った人たちが、落ち武者みたいな
格好をしてぞろぞろと雨の中、坂下へ向かって歩いているのが見えました。
住人の方で誰か見た方はいらっしゃいますか?
数えた訳ではないのですが数人ではなく十人以上はいたように思います。
なにか肩を落として疲れ切った様子に思えました。
深夜の遅い時間なので大変驚きましたが、好奇心もありしばらく覗いていると
一番最後に歩いていた人が、立ち止まって私の覗いてるほう(部屋は上階)をゆっくり見上げると
目が合ってしまったのでびっくりして隠れました。再度覗くとなんとその人(というか落ち武者)
がこのマンションのエントランスの階段のほうへ向かっているではないですか!
えっなに!?私の所へ来るの?みたいな。もう怖くて怖くて、出張中の主人に電話したのですが
連絡がとれず、よっぽど警察にでも通報しようかと考えたのですが、何かの間違いだったら
こんな時間なので住民の方に大変な迷惑が掛かると思い、とりあえず朝を待つことにしました。しかし玄関の前まであのいでたちの人が来てしまったらと考えるともう本当に怖くて寝れませんで
した。ようやく朝になり両親にも電話して夜中の出来事を話したのですが、父が言うにはこの辺で
時代劇などの演劇のけいこか何かの帰りの人達にからかわれたのではないかと。もしくは夢か何か
を見ていたのではないかと。ええ、わかります。朝から恐怖に怯えた声で落ち武者が攻めてきたなどと言い出すのですから。しかし到底夢を見ていたとは考えづらく、狐に摘まれた気分です。
あの日、その様な人達を見た方いらっしゃいませんか?些細なことでもいいので情報を寄せて
くださるようお願いします。
あげとこ…
621さんコンビニで聞いてみたらどうですか?
621
そんな時は警備会社へ
621さん
管理人さんにお話はされたのですか?話の内容が非常に気になったもので、もしまた目撃された時はすぐ大船警察署or同玉縄交番に知らせたら良いですね。それにしても、その人達は何をしてたんでしょうか?
621
自分は深夜(早朝?)3時半〜4時ごろにポストまで新聞取りに行くんですが、義母が「オートロックでも人気のない時間は危ないからやめなさい。」「夜はエントランスホールや駐車場には悪い気が溜まるものなのよ。」と言うので、まあ、なんとなく気味が悪くなり取に行くのをやめました。。。
626ですが
バス停名が『陣屋坂』ですし、近くには城跡やら史跡も多いからなのか、深夜は空気が重い感じがしなくもないですし(鎌倉特有でしょうか?)数年前に長谷にマンションを買った同僚が「地下駐車場で落武者を見た!」と騒いでたので、621さんの話なんか怖いっすw
621さん
随分早い時間に新聞を取りに行かれていたんですね。いくらオートロックと言っても、駐車場からマンションのポストまでは部外者が入ることが出来ますよね。城跡という事もあり、昔の玉縄城での戦で散った御霊もあるのではないでしょうか?
確かに、大昔はお寺やお墓、もしくは近くに古戦場がある訳ですから、骨塚だった可能性もありますね・・・怖いよ。
共用廊下側から見える清泉女学院がある場所は、かつて玉縄城がありました。
北条早雲が1512年に築城して以来、上杉謙信や武田信玄の攻略も退け、
難攻不落の城として名をはせました。特に2代目城主北条綱成は数々の戦いを
勝利に導いて武勇を響かせ、黄色の地に四隅に八幡の2字を墨書した旗を用いて
黄八幡と呼ばれ恐れられようです。
しかし1590年、ついに四代目城主北条氏勝が小田原攻めに来ていた羽柴軍家康勢に
降伏し開城することとなりました。その氏勝が家康勢に下るときがっくりして
渡れなかったという橋跡が関谷インター下にあるそうです・・・
621さんが見られたその光景はまさに黄八幡の敗れた北条軍の落ち武者が
がっくりと肩を落とし城を下るところなのでしょう。
科学で解明できないことなんてまだ無限にあると思います。
621さんが見たことは、一瞬の時代のトリップなのかもしれません。
深夜帰宅の時こえ〜じゃねぇが!!!!
630さんが言われているように、あの学校の辺りは名城玉縄城があったところです。
そしてこの植木の杜が建つあたりは、もの凄い切り立った斜面になっていて、地名"植木"の由来
にもなっているのですが、敵兵を簡単に攻め込ませない為に植木をたくさん植えたそうです。
駐車場に出てコンクリ壁の上の辺りを見るとわかりますが、急な斜面と鬱蒼と生い茂る木々が
簡単に攻め込む事を不可能にしている事がよくわかります。それでも城を落とそうと勇敢に
挑み、城上から弓などで射ぬかれ朽ち果ててしまった武者が数百とこの地に埋もれていること
でしょう。開発の時に無数に出た人骨がそれを物語っています。
私はここの住民ですが、怖いというよりも深い歴史とともに生きている喜びの方が大きいです。
あの学校の右側に見える少し高くなっている丘に諏訪壇と呼ばれる場所があり見張り台などの
役割をしたそうですが、そこから今も北条の兵が見守ってくれているような感じがして一人
ロマンを感じる今日この頃です。
>開発の時に無数に出た人骨がそれを物語っています。
えっ?・・・。
考えてみれば、火葬以前の土葬の時代では、死因が戦争であろうと自然死であろうと、
必ず住民の人数分の遺体が出るわけです。昔から人が住んでいた地域で人骨が出るのは、
仕方がない事と言えるでしょう
635さん、こんばんは。清泉女学院のある場所に玉縄城があったことは事実です。
ただ、玉縄城が廃城となる1703年以降、清泉女学院が移転してくる1963年(昭和38年)
の間に、その土地が誰の所有になっていたかはわかりません。玉縄城で検索されれば色々と
わかることと思います。
あっ、いやいや、間違えました、すいません。
このマンションの場所です。
鎌倉に住むのに土地の歴史を調べない人がいるんですね。
和田塚は言うに及ばず、由比ヶ浜一帯なんてそれこそ「ザックザク」ですよ。
でも歴史が長いってのはそういう面も包含した価値だと思うんです。
腹切りやぐらあたりの住宅地だって落ち着いた雰囲気ですよね。怖がりな私には住めませんが。